長く艶やかな銀髪に蒼い目を持つその人は、そう名乗った。
「ルサカです。……本当にありがとうございました」
ルサカを抱えて馬に乗ると、真っ暗な森の中を歩き始める。
レオーネは暗闇でも立ち木に当たることなく馬を進めている。
タキアと同じように、暗闇でも周りが見渡せている。
凍らせたりするという事は、タキアとは種族が違うという事か。
昔、ルトリッツ騎士団国の建国前にいたという、アイスドラゴンと同種だろうか。
「うちにも二人番人がいるんだけど、二人が昼頃から騒いでいたんだ。誰か、他の番人が痛がってるって」
リーンやタキアよりも、なんというか、気品がある感じだ。
貴族のような洗練された気品がある。
ルサカは馬から落ちないようにしがみつきながら、話を聞いている。
「助けてあげて欲しいと懇願されてね。……探していたんだけど、君は眠らされてたようで、声が聞こえなくなってしまったと、うちの番人たちが泣いていた」
番人は番人の声が聞こえるのだろうか。
ルサカは今まで他の番人の声を聞いた事がない。
疑問に思っていると、レオーネは気付いたのか、少し笑う。
「……人の世に落とされた番人の中には、聞こえるようになる子たちがいるんだよ。……悲鳴が聞こえるんだ。決して幸せな事じゃないけれど、こうして君のような他の番人を救う事も出来るから、悪い事だけじゃないね」
「感謝しています。……あのままだったら、どんな目にあったか……」
想像も出来ない地獄が待っていただろう。
エルーが言っていた。
人間に番人を与えたら、番人は地獄の苦しみを味わうと。
こういう事だったのか、とやっとルサカは理解出来た。
番人は人の世では生きられない。
巣を出てはいけなかったんだと、今更に痛感していた。
「無事だったんだ、それを喜ぼう。……うちの番人たちが、君を待っている。無事を祈りながらね」
行く手に、仄灯りが見える。
いつの間にか、先ほどの森とは雰囲気の違う、深い黒い森の中を歩いていた。
その、闇夜の黒い森の奥深くに、その屋敷はあった。
薄氷に覆われた古い石造りの館が、闇の中で仄かに輝いている。
ルサカでも分かる。これは強い魔力で守られた屋敷だ。
竜に魔力がある事は知っていたが、平地に巣を構える場合は、こうして魔法で守る事を知らなかった。
「ここが私の巣だよ。……さあいこう、みんなが待ってる」
外観は薄氷に覆われて寒々として見えたが、中は暖かく穏やかな光に満ちていた。
「おかえりなさい、レオーネ様。……良かった、無事だったのね。嬉しい!」
松葉杖をついた、蜂蜜を流したような長い金髪の、白い花のような美しい娘と、黒髪の巻き毛の、端正な美貌の少年が扉を開け放って出迎えてくれた。
「ただいま、リリア、ノア。この子はルサカだ。無事に連れて帰れたよ」
「ルサカ、無事でよかったわ。本当に嬉しい。……ひどい血だわ……。着替えとお風呂を用意してきます。……あっ。ごめんなさい、私はリリア。こっちの子が、ノア」
黒髪の少年はルサカより少し上くらいか。
「この子、喋れないの。……でも、声は聞こえてるから、話しかけてね」
リリアはノアと一緒に廊下を歩いていく。その時、ルサカは気付いた。
リリアのスカートから伸びているはずの、右足が無かった。松葉杖をついているのは、そういう事だった。
二人が屋敷の奥に消えてから、レオーネはルサカのクロークを脱がせて、居間の暖炉の前の椅子に座らせた。
「リリアもノアも……人に捕らえられていた番人だよ。私が見つけて助け出した時には、ノアは悲鳴を上げられないように舌を切られ、リリアは逃げ出せないように右足を膝下から切断されていた」
お茶の用意はテーブルに出来ていた。
レオーネは慣れた手つきでお茶を淹れ始める。
「番人は人と交尾出来ないって聞いた事はないかい?……交尾出来ないわけじゃないんだ。ただ人との交尾に激しい痛みがある。だから、人に囚われた番人は、悲鳴をあげないように舌を切られるのは良くある事なんだ。……君もあのままだったら、同じような目にあっていたかもね」
ルサカの目の前にお茶が差し出される。
菩提樹の花のお茶だった。
緊張や不安を和らげるといわれている。リリアとノアが、ルサカの無事を祈りながら、用意していてくれたのだろう。
人と交尾出来なくなる、と確かにタキアが言っていた。
そんな理由だったなんて、今まで知らなかった。
「リリアとノアが君の悲鳴を聞いて、私に教えてくれたんだよ。おかげでなんとか、大事に至る前に助けられた。……私よりも、二人にお礼を言ってあげるといい」
ルサカは何を言っていいか分からなかった。
初めて他の番人に会った。それが人に傷付けられた番人。衝撃が強すぎて、言葉が出てこない。
レオーネは察したのか、軽くルサカのココア色の柔らかな髪を撫でる。
「君がそんな顔をしていたら、二人が悲しむ。……彼らも、君が無事な事がとても嬉しいんだ。だから、笑顔を見せてあげてくれ。……私もその方が嬉しい」
ルサカは黙って頷く。
色々な事が起こり過ぎて、思考が追いつかない。
「ルサカ、お風呂と着替えの用意が出来たわ。その血を落としてから休みましょう」
リリアとノアが部屋に戻ってきて、明るく声をかける。
「二人がぼくに気付いてくれなかったら、どうなっていたか。……本当にありがとうございます」
途中から涙声になってしまっていた。
ノアが慌ててルサカの涙を拭う。
リリアもルサカの肩を抱いて、慰める。
「泣かないで、ルサカ。私たち、あなたに会えてとても嬉しいの。無事でいてくれて、本当に嬉しいの。……疲れてるでしょう。温まって休んでね」
ノアはルサカの手を取って、優しく握る。言葉がなくても、ノアの気持ちはとてもよく伝わる。
美しく、優しいその目は悲しいほど澄んでいて、ルサカは胸が張り裂けそうに痛んだ。
結局、ルサカはバスタブの中で寝てしまっていた。
気付いたノアがバスタブから引きずり出して着替えさせてくれて、レオーネがベッドまで運んでくれたそうだ。
朝起きてからレオーネにそう聞かされて、顔から火が出そうなほど、ルサカは恥ずかしかった。
「あんな目にあったんだ、疲れて当然だよ。……ノアがちゃんと面倒をみてくれていたから、大丈夫」
服は少し大きめだけれど、ノアの服を借りた。
ルサカの服は植木鋏で刺されたせいで、もう着られそうになかった。血がこびりついていたし、刃物で裂かれているし。もう処分するしかない。
「本当に何から何までご迷惑をおかけして……申し訳ないです」
「気にしないでいいのよ。レオーネ様も、私たちも、嬉しいの。……ちゃんと助けられた事が、嬉しいの」
リリアの口調から察するに、恐らく、手遅れだった番人も過去にいたのだろう。
それを考えると胸が痛む。
「そうだ。……タキア……一緒に暮らしていた竜なんですが、タキアと、ルトリッツ騎士団国の第六騎士団の副団長に連絡をとりたいんです。どちらもぼくの家族で、きっと心配している」
静かに朝食後のお茶を飲んでいたレオーネは、少しの間考えているようだった。
「ルサカ、君は、その竜の元に帰りたいのかい?」
なぜそんな事を聞かれるのか、ルサカは分からなかったが、素直に答える。
「はい。……きっと心配している」
リリアとノアも、黙ってレオーネの言葉を待っているようだった。
ゆっくりとカップのお茶を飲み干し、それからレオーネは口を開いた。
「私は君を帰すつもりはないよ。……番人を人の世に帰すような竜の元に、帰せるはずが無いだろう」
まさかの答えだった。
一瞬、ルサカは頭が真っ白になった。
「……いえ、ぼくが我が侭を言って、家に帰らせてもらったんです。家族に会いたいからって、頼み込んだだけなんです。だから、タキアは悪くない。……全てぼくのせいなんです」
「君は多分、番人になりたてだよね。……竜に慣れていない。そんな未熟で、人の世の危険を知らない番人を帰すなんて、やはりそれは主の竜の責任だよ。……そんな無責任な竜の元に、君を帰すわけにいかない」
ルサカはやっと気付いた。
あまりに穏やかな雰囲気と優しい面差しなので、気付かなかった。
レオーネは静かに怒っている。
人の世に置き去りにされて虐待を受けている番人を救って歩いているくらいだ、番人の扱いにはとても慎重なのはわかる。
ルサカも未熟な番人だが、タキアも成人したての、まだ子供同然の竜だ。
確かに大きな過失だけれど、どちらも無知で未熟だった。そこを大目に見てもらうにはどうしたらいいのか。
どうレオーネを説得したらいいのか。
「待って下さい! タキアも、まだ成人したてで巣を持ったばかりで……番人だって、ぼくが初めてだったんです。だから色々未熟だったのは確かです。……でも、ぼくの我が侭のために帰してくれたんです。決してタキアのせいじゃない!」
思わず声を荒げる。
タキアが無責任な竜だと言われるのは、とても辛かった。
あれほど家に帰す事を嫌がっていたタキアを、無理に説得したのはルサカだ。
それなのにタキアが責められるのは耐えられなかった。
リリアは困ったような表情で黙ったまま、レオーネのカップにお茶を継ぎ足す。
誰もが無言だった。
少し考えた後に、レオーネは再び口を開いた。
「……そこまで言うなら、少し考えよう。……君を帰すにしても帰さないにしても、数日はここにいてもらおうかな。……もう二度と、番人から目を離そう、なんて、その竜が思わないようにね」
なんて事だ。
ルサカは帰れるとばかり思い込んでいた。
まさか、こんな事になるなんて。
リリアにまだ休んでいた方がいい、と勧められて、ゲストルームに戻ったルサカだが、横になっても眠れるはずがなかった。
ここがどこかすら、分からないし、帰ろうにも、どう帰ったらいいのかも分からない。
帰る道すがらでまた人攫いに遭遇したら、元の木阿弥だ。
なんとかレオーネに納得してもらうしか、タキアに連絡を取る方法がないか。
そこまで考えて、思い出す。
服のポケットに、あの薄紅色の呼び出し紙を入れていた。
リリアが服を処分すると言っていたけれど、捨てられる前にあれを回収できれば。
その時、小さな遠慮がちな音で、ノックが響いた。
「……どうぞ?」
ドアが開いて、黒髪の巻き毛が覗く。
ノアだった。
素早く部屋の中に滑り込んで、ルサカのそばにやってくると、ポケットから何かを取り出した。
それはたった今、なんとか取り戻そうと考えていた、薄紅色の呼び出し紙だった。
ノアもリリアも、竜の巣の番人だ。これが何かわかっていたのだろう。
ノアはペンを握る真似をして、首を振った。
多分、ペンは持ち出せなかった、と言いたいのだろう。
「……これ、レオーネ様には内緒にしてもらえる……?」
おずおずと尋ねると、ノアは微笑んで、頷く。
「ありがとう……。これで、タキアに連絡が取れるかもしれない」
タキアに会えるかもしれない。そう思うだけで、涙が溢れてきた。
いつか、呼び出し紙の使い方をタキアが見せてくれた事があった。
何も書いていない呼び出し紙で使い方を見せてくれたけれど、白紙でも、届くだろうか。
色は何か意味があるのかもしれない。
薄紅色の呼び出し紙は、数枚あった。
一枚だけ、試してみよう。
ただ、無事だけでも伝えたい。タキアやライアネルに、それだけでも伝えられたら。
ルサカは薄紅色の呼び出し紙を掌に載せて、軽く息を吹きかけた。
あの時タキアがやってみせたように、ふわりと舞い上がり、それは花びらのように四散して、消えた。