身体中が軋んで、ひどい痛みがあった。
それに疲れ果てて、指一本動かせない。
早くルサカを探さなきゃならないのに、何をしてるんだろう。
古城の巣の地下室は、閉め切られていたせいで黴臭く、湿った匂いがしていた。
タキアは身動きもせずに、隅の寝台に横たわったまま、目を閉じる。
リーンやエルーにひどい怪我も負わせてしまったし、無関係な街も焼き払い、嵐も起こした。
そんな事をしても、ルサカは帰ってこない。
ルサカが今どうしているのか、考えるだけで気が狂いそうになる。
無事なのか、辛い目にあっていないか、苦しんでいないか。
早くルサカを見つけなければいけないのに、身体は鉛のように重く沈み、深い傷は激しく痛んでいた。
リーンも手加減する余裕がなかったのは、タキアも分かっている。
いや、本気のリーンなら、タキアに致命傷を負わせるのなんて、簡単だ。
あれほど暴れ狂っていたタキアを捕らえるのにこの程度の傷で済んだのは、リーンとエルーが自分の身体を犠牲にしてタキアを止めたからだ。
涙が溢れ出す。
本当に、何をしているんだ。
バカだ。こんな事をしている場合じゃないのに。一刻も早くルサカを見つけ出さなければならないのに。
それなのに、指一本動かせないくらいに、疲弊しきっていた。
リーンやエルーだけじゃない、たくさんの無関係の人々を苦しめて、本当に最低だ。
ふと、頬に何かが触れた。
ふわふわの被毛と、冷たい鼻先。
ヨルだった。
兄姉が、タキアのためにヨルをこの部屋に連れてきていた。
ヨルはずっとタキアに寄り添い、目覚めるのを待っていたようだった。
握り締めたタキアの拳にヨルが鼻先を近づけ、ぺろり、と舐める。
「…………ヨル?」
ヨルは何度もタキアの握り締められた拳を舐め、前足で掻く。
握り締めたその指を開くと、掌に、薄紅色の紙があった。
ルサカの匂いがする。
懐かしく、恋しく、切なくなる、ルサカの匂いだった。
どこか遠い、知らない場所の気配があった。そこからルサカがこれを送ったんだと気付く。
ルサカは生きている。
生きて、タキアを待っている。
約束をした。
もしもルサカがいなくなったら、探し続けると、そう、約束した。
耐えられなかった。
タキアは声をあげて、子供のように泣き出す。
「……君も、諦めないね」
レオーネの書斎は、まるで書庫のようだった。
壁一面に古書が並び、積み上げられ、まるで本の要塞のような。
こんな勤勉な竜もいるのか、とルサカは密かに感心していた。
「諦めません。……助けて頂いた事は感謝しています。けれど、ぼくはどうしても、帰らなきゃならない」
きっぱりとルサカは言い切る。
「ここで私や、ノアやリリアと暮らせばいいのに。……君の代わりの番人なんて、幾らでも作れるんだよ。竜は」
レオーネは読んでいる竜言語の古書から顔も上げない。
「タキアはぼく以外の番人を持たないと約束しています」
そのルサカの言葉を聞いて初めて、レオーネは書物から顔をあげ、ルサカを見た。
「まるで竜と竜騎士みたいだね。……多情な竜がそんな約束、守れるのかな」
「タキアはぼくに嘘をつきません。……ぼくも、タキアを信じている」
ルサカは自分でも不思議だ、と思っていた。
タキアの巣に連れてこられてから、まだ半年は経っていない。
ほんの少し前は、ライアネルの待つ家に帰りたくて仕方なかった。
それなのに、今はもう、タキアがいない生活なんて、考えられなかった。
再びレオーネは書物に視線を戻す。
もう数日こうしてルサカはしつこく交渉しているが、レオーネは聞いているのか聞いていないのか、曖昧な返事しかしない。
ため息をついて、ルサカは壁を埋め尽くす書棚を見上げる。
大半が竜言語の本だった。おそらく、魔道書の類。
竜のブレスも魔法の一種だと、タキアが以前に言っていた事を思い出す。
竜言語をもっと勉強しておけば、この要塞のような書庫の本が読めただろうに、とルサカは少し惜しんでいた。
「ルサカ、君は番人になってどれくらいになる?」
ふいに尋ねられる。
「……秋に。もう少しで半年かな……」
レオーネは少し考えているようだった。何か考えて、決めたのか、暫くしてから口を開いた。
「ルサカ、こっちに」
呼ばれて、ルサカはレオーネの書斎机の側に歩み寄る。
レオーネはルサカを見上げ、じっと見つめる。
この夜明けの空のような蒼い虹彩の竜の眼は、不思議と冷たい印象を与えない。
とても穏やかで優しく見えた。
「……そうだね。じゃあ、君の気持ち次第という事にしようか」
どういう意味か分からなかった。
レオーネは緩く微笑む。
「君の気持ち次第で、応じよう」
ここまではっきりと、レオーネが譲歩した発言をしたのは初めてだった。
今日まで曖昧にはぐらかすだけで、帰すつもりは毛頭無いようにしか感じられなかった。
こんなはっきりと、応じる、と明言したのは初めてだった。
「本当に?!」
やっとタキアに会えると思うと声が震えそうになる。
ルサカがぱっと笑顔になったのを見届けてから、レオーネは続けた。
「ルサカ。番人の巣での仕事内容を覚えているかい。……三種類の仕事、これはどこの巣でも同じだ」
ルサカは頷く。
レオーネはルサカの右手を取って、椅子に座ったまま、ルサカを見上げる。
「家事全般、財産管理。……最後のひとつの仕事を今、ここでするというなら、帰す事を約束するよ」
あまりにも穏やかに優しく、いつもの微笑みのままだった。その美しい顔を見つめたまま、ルサカは何を言われたのか、一瞬理解出来なかった。
レオーネにそんな事を望まれると、露ほども思っていなかった。
この人ほど、番人を尊重し大切にしている人はいないとさえ思っていた。
だから、聞き間違いではないかとすら、思えた。
「番人の最も大事な仕事だね。……今ここで、私にその身を捧げるなら、帰すと約束する。嘘は言わないよ」
いっそ、操ってくれたなら。
ルサカは思う。
操ってくれたなら、こんなに胸が痛まない。
どんな事をしてでも、帰ろうと思っていた。
タキアにもう一度会うためなら、なんでもする、どんな手でも使う、そう思っていた。
きっと、竜にとってこれは大した事じゃない。
ルサカの手を取るレオーネの指先を見つめる。
この綺麗な顔に不釣り合いな、節くれだった手だった。無骨であるとさえ言える。
タキアはとても綺麗でしなやかな手をしていた事を、ふと思い出す。
タキアは絶対に誰にも触れさせないで欲しいと言っていた。
もしもタキアにもう一度会うために、この身を売った事を知ったら、どう思うだろう。
ぼくを嫌いになるかな。
それでもどうしてもタキアに会いたかったと言ったら、なんて言うだろう。
どんな傷ついた顔をするだろう。どんなに悲しませるだろう。
それを思うと、胸が潰れそうに痛んだ。
ルサカにとってこれがどんなに重い事か、知っているからこそ、レオーネは要求しているのだと、ルサカにも分かっていた。
「……無理強いはしないよ」
レオーネはいつものように穏やかな口調で、繰り返す。
タキアはぼくを嫌いになるかな。もう一度、ルサカは考える。
二度と会えずに、この薄氷の屋敷で一生を過ごすくらいなら、タキアに嫌われてもいい、もう一度会いたかった。
もう二度と会えないかもしれない事に比べたら、こんな事は大した事じゃない。
そう自分に言い聞かせながら、ルサカは震える手で、シャツのボタンを外し始める。
全てのボタンを外し終えると、レオーネは膝の上にルサカを抱き寄せた。
「……後悔はしない?」
一生タキアに会えない事に比べたら、何を後悔するというのだろう、とルサカは思う。
頷くと、レオーネはルサカの細い腰を抱いて、書斎机に仰向けに寝かせる。
「こんなところで申し訳ないけれど」
少しルサカが動いただけで、積まれた本の山が崩れそうだった。
ルサカは身体を竦めて本の山を見上げる。
はだけたシャツの隙間から素肌の、下腹の紅い花が晒される。
「ああ……主はファイアドラゴンなのか」
花の色は主の竜によって違う事を、この時ルサカは初めて知った。
こんな場面で知る事になるなんて、とても皮肉だ、とルサカは思った。
そのレオーネの指先が紅い花に触れ、辿る。
ルサカに覆いかぶさり、その細い首筋に、薄い皮膚で覆われた鎖骨に、なめらかな胸元に口付ける。
はっきりと、タキアではない、別の誰かだと思い知らされる感触に、ルサカは震えが止まらなかった。
初めてタキアと交尾した時、怖くてただ泣きじゃくるだけだった事を思い出す。
こんな時なのに、こんな時だからなのか、タキアの事ばかり思い出す。
切なさで胸が焼き尽くされそうだった。
レオーネに抱きしめられた時に、ルサカはこの腕がタキアだったら、どんなに幸せだっただろう、と思わずにいられなかった。
タキアだったら。
そう思うと、堪え切れなかった。
ルサカは声をあげて、泣き出してしまった。
「……泣かせちゃったか」
レオーネは抱きしめていたルサカを離して起き上がる。
我慢できずに、ルサカは嗚咽を洩らす。子供のようにしゃくりあげながら、両手で涙を拭う。
ここでレオーネと交尾出来なければ、もう二度とタキアに会えないかもしれない。そう思っても、嗚咽を止める事が出来なかった。
「泣かなくていいよ、ルサカ。……こうなるだろうとは思っていた」
書斎机からルサカを引き起こして、椅子に座らせ、服を整えてやる。
「君の気持ちは良く分かった。……君の主に連絡を取ってあげるよ」
ルサカを寝かしつけてレオーネが書斎に戻ると、ノアが書斎の扉にもたれながら待っていた。
「ノア。怒っているのかい?」
ノアは静かに書斎の扉を開いて、レオーネと一緒に、猫のように滑り込む。
「……苛めるつもりじゃなかったんだけれどね。まさか本当にするとは思わなかった」
どうせ、ルサカと寝るつもりなんか微塵もなかったんでしょう、そんな顔でノアは呆れたようにため息をついて、乱れた書斎机の上を片付ける。
「我ながら大人気ないとは思うんだけれど。……あんな風に竜なんか信じきってるのを見ると、意地悪したくなるね」
手早く崩れた本の山を直し終わると、ノアはレオーネのそばの椅子に座る。
レオーネの手をとって、その掌に、ノアは指先で文字を書く。
『かえしてあげて』
実に簡潔だ。
「ノアやリリアにそう責められたら、私が悪者みたいじゃないか」
ノアは再び掌に文字を書く。
『そう』
ノアはそれほど文字を知らない。だからいつも簡潔に一言二言書くだけだが、今日はその一言二言が辛らつだ。
「……じゃあ、悪者らしく、条件をつけて、ルサカを帰そうか」
レオーネはその穏やかな面差しで、ノアに微笑みかける。