竜の棲み処

#25 帰る場所

 黒い森を出ると、古城の巣のあの断崖絶壁のエントランスに立っていた。
 高いところがあまり得意ではないルサカは、タキアの背中にしがみついたまま腰が抜けそうになっていたが、そんなびくびくしている場合ではなかった。
「タキア、ルサカ! 無事でよかった!」
 二人が戻った事に気付いたリーンにタキアごと抱え上げられ担ぎ上げられて、あっという間に巣の中に運び込まれる。
 さすが人外、人ふたりを余裕で担ぎ上げられるんだ……とルサカは思わず感心する。
「タキアがルサカを連れて帰ってきたぞ!」
「タキア、ルサカ……! 良かった、本当に心配してたんだから……!」
「まさか竜騎士に勝ったのか、タキア」
「よく勝てたな。絶対無理だろうと思ってたのに。……竜騎士連れでご帰宅だと思ってたぜ」
「勝ってないよ! 勝てる訳ないじゃないか」
 客間に入るなりもみくちゃで、ルサカは何がなんだかわからなかったが、タキアももみくちゃにされていて大変な事になっている。
「でもルサカを連れて帰ってきてるじゃないか。……ああ、そうだ挨拶まだだったね。はじめまして、ルサカ。聞いてるかもしれないけど、俺はカイン。エルーの番人だ」
 もみくちゃにされているルサカを引っ張り出して、背の高い、金髪の男性が改めて自己紹介する。
「本当にすごい綺麗な子だな……。エルーの話以上だ。ああ、俺はアベル。カインの弟だ」
 アベルの方が少々、ちゃらっとした雰囲気。カインはほんのり、ライアネルに似た雰囲気を持っていた。
 この堅そうな雰囲気がそう見せているのかな、とルサカは思う。
「……ああそうだ。ヴァンダイク卿にルサカが無事帰宅したと連絡しないとな。随分心配していたし、憔悴しきっていたから、俺が帰りがけに寄って連絡しておく」
「……リーンさんが?」
「この間、ルサカの事で会いに行ったのよ。結構ふたりは話が合うみたい」
 生真面目なライアネルと、この、美貌だけれどちょっと軽薄なリーンが?
 ルサカはピンと来ない。その不思議そうな顔のルサカを見て、エルーがにこっと笑う。
「おかえり、ルサカ。無事でよかった」
 素早くかがんでルサカの頬に軽く口付ける。
「……姉さん!」
 すぐさまタキアがエルーとルサカの間に割って入る。
「ほっぺたくらいで大騒ぎしないの」
 割って入ったタキアの頬にも軽く口付け、タキアを抱きしめる。
「……本当に、良かった。タキアも無事に帰ってきてくれて、本当に嬉しい……」
 エルーの声は震えていた。
 成人したてでまだ子供同然の、ろくに経験も積んでいない若い竜が、歴戦の竜騎士に勝てるはずがない。
 生きて帰ってこれないかもしれない弟を見送った彼らの気持ちを考えると、ルサカは言葉がない。
「……姉さん……心配かけてごめんね。ありがとう」
「本当に、ぼくの我が侭のせいでたくさん心配も迷惑もかけて、ごめんなさい……」
 思わずルサカは詫びる。
 どれだけの人に迷惑をかけたか、考えるまでもない。
 こんな事になるとは思いもしなかったとはいえ、大変な事態を引き起こしたのは事実だ。
「……俺たちも、厳しくタキアに言い聞かせておかなかったからな。それも悪かったんだ。……あまり気分のいい話じゃないからね。番人を人の世に帰したらどうなるか、タキアに聞かせたくなかったのもある」
 なんだかんだでこの兄姉は、タキアをとても愛し、可愛がっているのはルサカにも伝わっていた。
 ルサカにちょこちょこちょっかいを出すのは竜にとっては挨拶のようなものだし、弟をからかっている意味合いも強い。
「……まずは二人とも、疲れてるだろうしヴァンダイク卿への連絡は俺がしておくから、ゆっくり休むといい。……早くふたりきりになりたいだろうし。邪魔者は退散しよう」
 ぽん、とエルーに抱きしめられたままのタキアの頭を軽く撫でる。
「ほら、エルー。いつまでもタキアを独占してないで帰るぞ」
 名残惜しげにエルーは身体を離して、もう一度、タキアの頬に口付ける。
「……いつでも私たちはタキアの味方よ……。絶対に忘れないで」
 タキアがこんなに優しく素直なのは、これほど愛され、慈しまれて育てられたからかもしれない、とルサカは思う。
 竜も人も、誰かを愛する気持ちに違いなんか、ない。



「……急に静かになっちゃったね」
「いつもの巣に戻っただけなのにね。思えばあんなにたくさん人がこの巣にいる事なんか、初めてだった」
 リーンたちが帰っていって、いつもの二人きりで過ごす古城の巣になっただけなのに、いやに広々と静かに感じられた。
「母さんが亡くなってからは、姉さんの巣で暮らしていたんだけど……カインやアベルだけじゃなく、他にも番人がいたし賑やかだったな」
 見上げるルサカの視線に気付いて、ルサカの髪を撫でながら、タキアは微笑む。
「……おかえり、ルサカ」
「ただいま、タキア」
 ここが家になったんだ、とルサカは実感する。
 ライアネルと暮らしていた青い屋根の石造りの屋敷ではなく、この古城の巣が、家になった。
 帰る場所になった。
 タキアがいる場所が、帰る場所になった。
「……うん。ルサカの匂いだ」
 ルサカを両手で抱きしめて、タキアはルサカの柔らかなココア色の髪に顔を埋める。
 タキアに言いたい事はたくさんあったのに、何ひとつ言葉に出来ない。声にならない。
 何か言葉にしようとすると、声のかわりに、涙が溢れて頬を滑り落ちた。
「……ルサカ、なんで泣くの。……帰ってこれたんだよ。……笑ってよ」
 その涙に唇を寄せて、タキアは囁く。
「……なんで、ぼくの為にケガなんかするんだよ。……なんでぼくの為に、竜騎士と戦おうとするんだよ。……ぼくは、タキアに何をしてやれないのに。……ぼくの我が侭のせいでタキアがこんな目にあったのに」
 うまく言葉が出てこない。思っている事を口にするのがこんなに難しい事だなんて、ルサカは知らなかった。
 こんな事を言いたいんじゃない。けれど何をどう言えばいいのか、わからなかった。
 タキアに伝えたい事はたくさんあったのに、どれも言葉に出来なかった。
 タキアはルサカを抱いて髪に顔を埋めたまま、頷く。
「じゃあ、僕と千年を越えよう。……千年経てば、僕も竜騎士に勝てるくらいになれるかもね。……頑張って君を守るから、一緒に長い命を生きてよ。……もっと強くなるから」
 タキアの胸に顔を埋めたまま、ルサカは声をあげて泣く。
 子供のようにしがみつき泣きじゃくるルサカの背中を抱いて、宥めるように撫でる。
「ルサカ、笑ってよ。……せっかく帰ってきたんだから」
 顔を上げ、タキアを見上げて涙を拭う。泣きながら、ルサカは笑う。
「……うん。一緒に千年を越えよう。……もうどこにも行かないよ。ここがぼくの家になったんだ。タキアがいるところが、ぼくの家だ」





 二人仲良くタキアのベッドに潜り込んで、何をするわけでもなく、くっついているだけで、幸せな気持ちになれた。
 タキアはルサカを抱きかかえて髪に顔を埋めて、ずっとルサカの匂いを噛み締めているし、ルサカはタキアの胸元に顔を埋めて大人しくされるがままになっている。
「……久し振りのルサカの匂いだ……」
 頬を摺り寄せて、うっとりと呟く。
 しばしばタキアは『ルサカはいい匂いがする』と言っているが、それがどんな匂いなのか、ルサカは全くわからない。
 ライアネルやジルドア、マギーにも言われた事はないし、もしかしたら竜だけに分かる匂いなのか。
「その匂いがよくわからないんだけど……竜にしかわからない匂いなの?」
 タキアの胸元に顔を埋めて、嗅いでみる。特に何か匂いがあるかというとない。
 しいて言えば、さっき塗った傷薬の薬草っぽい匂いくらい。
「……そうなのかな?」
 タキアは少し考え込んでいる。
「うーん……純潔の人間からはいい匂いがするんだけど、ルサカみたいな匂いの人はあまりいないかな……。番人も匂いがするね。……だいたいいい香り」
「どんな匂いなの? ……よくタキアがいい匂い、って言ってるけど、どんな匂いなのか気になる」
「どんな……そうだなあ」
 タキアは再びルサカの髪に顔を埋める。
「……しいて言えば……甘い香りかな」
 真剣に言い表そうと、考え込んでいるようだった。
「砂棗の花の匂いに似てる。……砂漠の棗の木なんだけど、その花の匂いに似てるんだよね」
 砂漠なんて、遠い国にしかない。ルトリッツから遥か遠い場所だ。
 当然、ルサカは見た事もない植物だったし、砂漠なんて本の挿絵でしか見た事もない。
「タキアの故郷は砂漠のある国だったの?」
「うん。ここからかなり離れてる、遠い西の国だよ。……いつかルサカを連れていけたらいいな」
「どんなところなのかなあ。……砂棗の花の匂いも、どんなのだろう」
 笑いながらルサカは手を伸ばしてタキアの頬を両手で包んで、口付ける。
 触れていたルサカの唇に甘く噛み付いて、タキアはくすくす笑う。
「ほんのりと甘い匂いなんだけれど、なんだろうなあ…ただ甘いだけの香りじゃないんだ。……それでいて、慎みもある感じ」
 どんな匂いなのか、分からない。わかったようなわからないような。
 甘いけれどただの甘い香りじゃない。慎みのある。全く意味不明だ。
 さっぱりわかんないよ、という顔をルサカがしていたのか、タキアは耳元に唇を寄せ、ぺろっ、と舐める。
「……分かりやすくいうと、官能的な匂い。……甘く誘ってるんだけど、慎みがあって、その慎みがなんだか余計にえっちな感じ」
 そんな匂いだったのか。
「それ褒められた気がしないんだけど……」
 なんだかふしだらな匂いじゃないか、とルサカは複雑な心境だった。
 想定外の『いい匂い』だ。
「そうだなあ、褒められたものじゃないな。そうやって、他の竜も惑わしてるからね。……僕だけにして欲しいんだけど、そうもいかないよね」
 ものすごい殺し文句を言っているという自覚は、タキアには絶対ない。
 真面目な顔して言っているし、本心なんだろうけれど、こんな時にどう返したらいいのか困るから止めて欲しい、とルサカは思っている。
 たまにはタキアにもこんな思いをさせたいんだけどな、と少し考えて、もう一度タキアの頬を両手で挟んで、引き寄せる。
「……傷が治ったら、たくさん交尾しよう。……じゃ、おやすみ!」
 もう一度、タキアの唇に口付けて、ルサカは枕に顔を埋める。
 何を言われたのか、タキアは一瞬理解出来なかった。
「……え? ええ?! 今何ていったのルサカ! もう一度! もう一度言ってよ!」
「やだよ、こういうのは何度も言うものじゃないんだよ。……おやすみー!」
 タキアを抱えて枕に押し付けて、毛布に一緒に包まる。
「……ルサカから言ってくれたのはじめてだよね!」
「はいはいおやすみ、タキア」
 額と額をあわせて、二人でくすくす笑う。
 笑って、それから目を閉じ、同じ夜を過ごそう。



2016/02/23 up

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