竜の棲み処

#29 意外な来客

「それじゃあヨルにはちょっと外に出ていて貰わないと」
 リーンはヨルを抱き上げると、さっさと厨房の外に出して、扉を閉めてしまう。
 それはまずい。
 いざとなったらヨルに助けてもらおうと思っていたルサカは、露骨にうろたえる。
「……ルサカに近づくとヨルが吼えてどうしようもないからね」
 うろたえるルサカを軽々抱き上げて、膝に横抱きに座らせる。
 ルサカはもう気が気ではない。
 ヨルがいないなんて、何かされても逃げられない。
「……そんな露骨に怖がらなくても」
 膝に抱いたルサカの髪を軽く撫でる。
 正直、このリーンの大きな手は、とても好きだった。
 この大きな手はライアネルの手を思い出させて、とても懐かしく、恋しい気持ちになってしまう。
 髪に指を梳き入れられて、思わずうっとりと目を細めてしまってから、慌ててルサカは我に返る。
「ルサカはちょっと変わった匂いがするよね。……砂棗の花みたいな匂い。懐かしくなる香りだ」
 兄弟なのだから、リーンにとっても砂棗の花は故郷を思い出す香りなのは同じだ。
 リーンの何が困るかといえば、タキアに良く似ているせいか、なんとなく拒みにくいのと、流されてしまいそうな何かがある事だ。
 この兄弟は顔かたちも纏う空気も雰囲気もよく似ていて、なんだか錯覚してしまいそうになる。
「……すごくいい匂い」
 ルサカのココア色の髪に頬を寄せて、囁く。
 こういう仕草もよく似ていて、タキアと錯覚しそうになる。
 うっかりすると拒否しようと思えなくなるから困る。
 こめかみにちゅっと音を立てて吸い付かれて、慌ててルサカは膝から降りようともがく。
「これくらいいいでしょ。……交尾はしないって約束してるし、安心してていいよ」
 がっちり腰を抱かれて逃げられない。
 確かに操られてはいない。逃げる気もしなかったあの時とは違う。
 違うが、なんだか流されてしまいそうな気がしてならない。
 それは竜に惹かれる番人のさがなのか、タキアに良く似た面差しと雰囲気のせいなのか、そのどちらもなのか。
 幾度か頬やこめかみ、額や頬に口付けられると、なんだか気持ちよく、心地よく思えてきてしまう。
 これはまずい。
 逃げようと思っても、身体に力が入らないかもしれない。
 唇にだけはキスされないように、片手で押さえるが、その自分の唇が震え始めているのかわかる。
「……気持ちよくなってきちゃったかな」
 リーンの唇は頬を滑り落ち、ルサカの細い顎を掠めて、胸元へと落ちていく。
 なんとか逃げ出そうと足掻くが、もう手足に力があまり入らない事に、ルサカは今更気付いた。
「も…、やめ……っ…」
 震える声で拒否しようとするが、リーンは気にもしない。
 滑り落ちた唇は、服の上から胸元に口付けを繰り返す。
 そのまま、服の上から探り当てた、ルサカの小さな胸の突起に甘く噛み付き、唇で柔らかく挟んだ。
「あ、あっ…!」
 思わず高い声が零れ落ちた。
 まずい。早く逃げなきゃ。
 けれどもう身体に力が入らない。
 リーンの手は腿を這い上がり、下腹を撫でようと触れてくる。
「やめ……!」
 その瞬間、めきっ、と何かが軋みを上げ、裂けるような音が響いた。
 厨房の扉がめきめきと音を立てて、派手な音を立てて石の床に叩き付けられる。
 蕩けそうだったルサカが我に返った瞬間、大きな黒い影に引き倒され、石の床に転がり落ちた。
 何が起きたか分からなかった。
 黒い影は、ルサカを身体の下に引き込んで、低く唸り声を上げた。
 まさか。
 大きな前足の爪からは、赤い焔が吹き出している。
 まさか、この大きな黒い影は。
「……ヨル……?」
 どこが子牛だ。
 珊瑚の大嘘つき。
 子牛どころかどうみても親牛より大きい。
 ルサカは巨体のヘルハウンドの身体の下に引き込まれ、守られていた。
「え。なにこれ……こんなでかい犬だったのか……?」
 ルサカを奪われたリーンも、呆然と床に座り込んでいえる。
 誰だって驚く。
 あの愛くるしさを売りにしているヨルが、こんな牛か水牛かというくらいの、巨大な姿になっていたら。
 猛り狂った唸り声をあげ、口からも焔が溢れ、吹き出している。
「ヨル、もういいから……。大丈夫だから」
 慌ててヨルの身体の下から這い出して、宥める。
 これはすごい。
 さすがダーダネルス百貨店のお墨付きの番犬だ。
 珊瑚が『余裕で子牛くらいにはなります』と言っていたけれど、こんなの子牛サイズじゃない。
 低く唸り威嚇していたヨルだが、ルサカに撫でられ、宥められて、少し落ち着いてきたようだった。
 それでもルサカを守るように張り付いたまま、離れようとしない。
「あーあ。せっかくいい機会だったのに。……ヨルもひどいな。あんなにいい肉食わせてやったのに。ちょっとくらい見逃してくれればいいのに」
 リーンは大げさにため息をついて立ち上がると、椅子に座りなおす。
「抱き起こしたらヨルに噛み付かれそうだから、手は貸せないよ。ごめんね」
 ルサカはヨルの首にしがみついたまま、座り込んでいた。
「……気持ちよくて腰が立たなくなっちゃった?」
 少し意地の悪い笑顔を見せながら、リーンが楽しげに尋ねる。
 こういうところも、この兄弟、ものすごく良く似ている。
 ルサカは羞恥のあまり、涙目でヨルの首に顔を埋める。



『まあ、ちょっと物足りないけど、お駄賃貰っちゃったからお使いはしてくるよ』
 と言い残してリーンが飛び立ってからも、ヨルは一向に子犬に戻るつもりはなさそうだった。
 牛のような巨体のまま、古城の巣の中を低く唸りながら歩き回っている。
 ものすごく警戒している。
 いつも子犬のヨルと遊んでいるほうきウサギたちが怖がるんじゃないか、と思っていたが、全く平気だった。
 ちゃんとヨルだとわかっているようで、いつものように遊んだりもしている。
 ルサカもちゃんとヨルだと分かってはいるが、この大きさには違和感を覚える。
「ヨル、もういいんだよ……?」
 何度か声をかけたが、ヨルは気がすまないのか、執拗に巣の中を見回り続けているし、子犬の姿に戻る気もなさそうだ。
 もしかしてこのままずっと大きいヨルのままなんだろうか、とルサカは考える。
 小さいヨルも可愛いけれど、大きいヨルもいい。
 なんといっても、抱きついた時のこの、肉厚な感じがいい。
 ライアネルといいリーンといいヨルといい、大きい体躯はルサカの憧れであり、癒やしと安心でもある。
 ルサカはルサカで、このもう大きくなる事がない未熟な身体をとても気にしているのだ。
 だから余計に大きい立派な体躯に憧れがある。
 小さいヨルも抱っこしたり出来るし、可愛いけれど、この大きなヨルもいい。
 どっちでもヨルはヨルだし、いいかなと思うけれど、タキアが帰って来たら、ものすごく驚くだろうな……。
 それにしても、珊瑚が言っていた通り、ヨルは頭もよく忠誠心が高い。
 幾らいいエサを貰って手懐けられたように見えても、誰が主人で、誰を守るべきなのか、間違えない。
 これはちゃんと褒めていっぱいご褒美をあげないといけない。
 タキアにヨルがちゃんと仕事をした事を伝えておかなければ。
 ヨルが破壊した厨房の扉の破片を片付け終わり、新しい扉をどうするか思案していると、ヨルがすごい勢いで、古城の天辺の『本物の竜の巣』に通じる通路に走っていくのが見えた。
 多分、リーンが帰ってきたのだろう。
 ルサカも出迎えるために後を追う。
「リーンさん、おかえりなさい。ライアネル様には会えたのかな」
 あまり広くはない石の階段を、リーンが降りてくる。
「ただいま。……ルサカ、お客さん連れてきたよ」
 背後を振り返り、声をかける。
「ライアネル、結構急な階段だから気をつけて。……あと考えられないくらい、でかくて黒い悪魔みたいな犬がいるけど、無害だから気にしないで」
 聞き間違えかと思った。
 リーンの背後から階段を降りてきたのは、薄荷の鉢を抱えたライアネルだった。
 夢じゃないのか。
 もう会う事はないだろう、と諦めていた。
「ライアネル様!」
 思わず走って抱きついてしまう。
「ルサカ……! 本当に無事だったんだな。良かった……。本当に良かった」
 飛びついたルサカを抱きとめて、そのココア色の髪をくしゃっと撫でる。
「心配かけてごめんなさい……。ごめんなさい」
 ライアネルにどれだけの心労をかけただろう。
 やっと帰ったのに再び行方知れずになって、どれだけライアネルに苦痛を与えたか。
 思わず涙が溢れる。
「え。なに? ライアネルがルサカに近付いてもヨルは怒らないわけ? 俺だけ?」
 ヨルは大人しく後ろで見ているだけで、特に威嚇する素振りもみせない。
 本当に頭がいい。
 誰が危険で誰か危険じゃないか、瞬時に見分けている。
 その時ルサカはやっと気付いた。
 リーンがライアネルを気さくに呼び捨てに、親しげに呼んでいる。
「……そんなにライアネル様とリーンさんはなかよしなの?」
 思わず声に出してしまう。
「……そんなにおかしいか?」
 ライアネルにとっては何も不思議じゃないらしい。素朴に聞き返されて、ルサカは混乱している。
「何度か竜の習性の話や番人の事や、まあルサカの事やうちの弟の不始末について説明に通ったからね。……あと、竜は美しいものだけじゃない。強い武芸者も好きだ。……だから竜騎士を選ぶわけさ」
 何もかも初耳だ。
 どこから手をつけたらいいのかわからないくらいに、ライアネルに色々な話が通ってしまっているのではないか。
 いやリーンが、タキアやルサカのために、想像以上に働きかけてくれていたのではないか。
「ルサカ、お茶を淹れて欲しいな。……この寒空の中飛んできたから、俺もライアネルも冷え切ってる。熱々のを頼むよ」



 ライアネルは、意外な事にヨルの大きさも焔を吹き出す目にも爪にも何も思わないのか、特に怖がる素振りも怪しむ素振りも見せなかった。
 それが魔眼持ちゆえだからだ、とはルサカは知らない。
 客間に二人を通してお茶の用意する間も、ライアネルとリーンは話に熱中していた。
「まあ、許してやって欲しい。……ルサカが我が子も同然なのはわかってるし、ライアネルの怒りも重々承知してはいる」
「大切な家族がそんな身体にされて、こんな寂しい城に閉じ込められてて、許せるわけがないだろう。しかももう、人の世に戻しても不幸な事にしかならないとか。……何度言われても、納得がいかないんだ」
 ルサカが割って入るのは不可能なほど、保護者同士は熱くなっている。
 もうヨルにくっついて少し離れたところから、お茶を注ぎつつ見守るしかない。
 結局ルサカが何を言っても、ライアネルは聞きそうにもない。
 こうなってしまってルサカが何もかも諦めて、従っているだけだ、としか取って貰えない。
 なら、当事者ではない保護者同士で話し合って貰った方が、まだ分かり合えるかもしれない。
 激論を交わす保護者達のそばで、ルサカは右手の小指の指輪を眺める。
 いざとなったらこれで逃げようと思っていたのに、すっかり忘れていた事を思い出す。
 そんな事になると、冷静さを欠いてしまうものだ。
「……それなら、方法がなくもない。ルサカの行く末を見守れるし、何かあったら助けられる。……竜騎士になるために、俺と戦えばいい」
 ルサカは思わず背後の二人を振り返る。
「竜のブレスなんか食らったら即死だろう。そもそも勝てる気がしないんだが」
「勝てるよ。ライアネル、お前にブレスは効かない。……竜も人間も、お前に効く魔法がないからな」
 竜騎士もだが、ライアネルに魔法が効かない、という話も、初耳だった。
 色々聞き出したい事が山ほどあったが、ルサカが口を挟めそうな雰囲気ではない。
 予想もしなかった話が目の前で繰り広げられていて、ルサカは混乱していた。
 だが、ライアネルだって混乱している。
 竜のブレスも魔法も効かない。意味が分からなかった。
「ライアネル。お前はあらゆる魔法を無効化する魔眼の持ち主だ。……だから、俺やタキアやエルーの姿が、他の人間と違う見え方をしているんだよ」
 リーンがライアネルを竜騎士として迎える意志がある事も、ライアネルが魔眼を持つ事も、ライアネルが竜騎士になるかも知れない事も、全てが想定外すぎて、ルサカは呆然とするしかなかった。
「……竜騎士になれば、ルサカと同じように、長い命を得る事になる。……覚悟があるなら、いつでも俺はお前と戦う。……お前を竜騎士として迎える覚悟も出来ている」
 リーンがそこまでライアネルの器量を買っている事も、知らなかった。
 いや、誰も何も知らなかったのではないか。
 ライアネルもルサカも、リーンの言葉を呆然と聞くしかなかった。


2016/03/0 up

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