タキアがどこかで強奪した財宝の中にあった、この異国の弦楽器をレシェはよく知っていて、弾く事が出来た。
タキアはこの楽器の音色が気に入ったようで、しばしばレシェに弾いてもらっていた。
居間から流れるレシェの綺麗な指が奏でる異国の歌を聴きながら、ルサカは厨房で本を読んでいる。
あのリネン庫での言い争いから、タキアとルサカはぎくしゃくしたままだった。
ケンカらしいケンカをした事がなかった。これが初めてのケンカになるのかもしれない。
何もかも悪いのは自分だと、ルサカも良く分かっている。
勝手に思い悩んでいるだけで、タキアにもレシェにも罪はない。
タキアはちゃんとルサカとの約束を果たそうとレシェの処遇を考えているのに、ルサカがこんな態度を取るなんて、タキアをひどく傷付けるに決まっている。
何もかも自分が悪い、とルサカも分かってはいるのだ。
ぼんやりと本のページをめくるだけで、内容は全く頭に入ってこない。
そんな風にぼんやりしていたので、レシェが厨房に入ってきた事にも気付いていなかった。
「……ルサカ、タキア様がお茶を一緒に飲みましょうって」
そう声をかけられて、驚いて顔をあげる。
「びっくりした。……ごめんなさい、ぼんやりしていて」
慌てて立ち上がって、お茶の用意を始める。
「手伝います。……勉強の邪魔をして、ごめんなさい」
王子様なのに、レシェは腰が低い。
年下のルサカも立てて話をするし、決して尊大な態度も取らない。
こうしてルサカの手伝いもする。
一緒に番人としてやっていくなら、うまくいくだろう。
レシェもこのルサカとタキアの気まずい雰囲気を察していて、それが自分のせいだとわかっている。だからこそレシェもとてもルサカに気を使っているのが、余計にルサカにとって辛い事に感じられていた。
レシェは今も何か言いたげに口を開いて、それから迷って、また口を閉ざしている。
レシェはとてもいい人なのに、こうして苦しませてしまっている。
ルサカは考えれば考えるほど、混乱していくような気がしていた。
「ぼくは少し片付けてから行くから……。先にお茶を飲んでいて」
一緒にお茶を飲む気がない、とレシェは察したようだった。
また何か言いたげに口を開いて、それから俯く。
「……ごめんなさい」
ぽつん、と呟いて、レシェはお茶のセットを持って厨房を出て行った。
本当に、ぼくは最低だ。
タキアも、レシェも傷付けている。
心の中で呟いて、ルサカは逃げるように厨房を後にする。
厨房の側の南向きの小さな部屋、そこがルサカの部屋だった。
その部屋に引き篭もって、ルサカはテーブルの上に置かれた薄荷の鉢を眺める。
厨房のテーブルから自分の部屋に移して、この懐かしい香りを側においていた。
この懐かしい香りで少しは気が晴れるかもしれない、と思っていた。
こんな女々しくうじうじと悩んでいるのは、自分でもイヤだし、らしくないと思う。
なんとか気持ちを切り替えようと、思ってはいるのだ。それが全くうまくいかない。
ヨルは元気がないルサカを心配しているのか、ずっとルサカの側から離れなかった。
今も厨房からついてきて、足元に伏せている。
ヨルにまで心配をかけているとか、ますます自己嫌悪だ。
ルサカの足元に伏せながら、時折ルサカの爪先に顎を乗せてじゃれていたヨルが、不意に立ち上がり、部屋の扉の前に飛んでいく。
その時、小さなノックの音が響いた。
そのノックの音だけで、気が重くなる。
タキアに引っ張り出されると思うと、寝たふりをしたくなる。
けれどそんな大人気ない態度を取ってばかりいられない事も、重々分かってはいるのだ。
重く沈んだ気分のまま、扉を開けると、意外な人物が立っていた。
「あーあ……ひどい顔してるな」
ぐい、と頬を撫でられる。
「……リーンさん、来てたの……」
警戒してリーンの足に絡みつくヨルを器用に部屋に押し込みながら、リーンはルサカの部屋に滑り込む。
「もう用事は済んだ。……ルサカがいないから、探したよ」
小さく唸るヨルを器用に足元から拾って抱き上げて、ルサカの小さな部屋の真鍮のベッドに座る。
「顔色が悪いぞ、ルサカ。ちゃんと寝てるのか」
またほっぺたをむにっと強く撫でられる。
「……本当は、こういう時の為にも操った方がいいんだけれど、絶対操らないってタキアは約束してるんだっけ」
これはリーンも心配してくれているんだ、とルサカも分かった。
本当に申し訳ない。
ルサカがひとりで思い悩んで拗れさせているだけなのに、リーンにまで気を使わせてしまっている。
「まあ今日の用事っていうのは、レシレシェンの事なんだけどね。……レシレシェンの受け入れ先探しの手伝いに呼ばれたんだよ」
リーンはまだ唸っているヨルを膝に抱いて、撫で倒している。結構懐いていただけに、ちょっとそんな風に撫でまくられているとヨルも世話をしてもらっていた事を思い出すのか、唸るのを止めていた。
「うちで引き取ってもいいけど、あの王子様は馴染めないだろうしなあ。……タキアにも兄さんのところだけはダメだと言われた」
それはよくわかる気がする。
あの大人しそうなレシェには大所帯すぎるし、おっとりしたあの性格では揉まれすぎるくらいも揉まれるだろう。
ただ黙ってルサカはリーンの話を聞いているだけだが、リーンはそれだけで色々察しているようだった。
「……タキアはまだ子供みたいなものだからな。ルサカだってまだまだ子供だけれど。……色々だめなところもあるけど、ルサカを大事にしているのは本当だから」
くしゃっとココア色の髪を撫でられる。
「ルサカがどれだけタキアの事を思って悩んでいるか、まだ察せるほど大人じゃないし、経験も少ない。……ちょっとしんどいだろうけれど、俺でよければ話を聞くから」
エルーが、リーンはハーレムをきちんと管理できる優秀な竜だと言っていたが、それは本当の事なのだ、とルサカは今、理解した。
千年を番人と共に生きるのは、ただ漫然と過ごすだけじゃなかったはずだ。
ルサカの今のような悩み事も、リーンは何度か見て来た事なのだろう。
リーンの気遣いと、この大きな手に、泣き出しそうになる。
「タキアも繁殖期が近いから、情緒不安定で苛立ってるんだよ。……繁殖期前にレシレシェンもなんとかしないとな」
泣き出しそうなルサカを膝の間に抱えて、そのココア色の髪を撫でる。
ずっと自己嫌悪の連続で不安定だったルサカは、やっと安堵できたような気がしていた。
「ルサカ、無理に大人にならないでいいんだ。……タキアと一緒に成長していけばいい。そんなに苦しむな。……そう言っても、苦しむのが人間なんだけどな……」
ルサカを抱いて子供を宥めるように髪を撫でながら囁く。
ちょっと軽薄ですぐにルサカを困らせるけれど、こういうところはやはり大人だ。
竜はとても不思議な生き物だ。
刹那的で衝動的なのに、こうして人を理解しようともする。
だから千年を一緒に生きていけるのかもしれない、とルサカは思う。
少し、気が楽になった。
リーンを見上げて、少しだけ笑って見せると、リーンも安堵したのか、微笑み返す。
丁度その時、乱暴に扉が開かれた。
「兄さん、ルサカ……何してるの。……ルサカ、兄さんに触らせるなって言っただろう!」
タキアは部屋に入るなり、鋭く叫ぶ。こんな荒々しい口調のタキアは初めてだった。
「何もやましい事はしていないよ」
リーンは露骨にため息をつく。繁殖期前で弟が苛立っている事には気付いているが、あまりに短気な言動に少々呆れていた。
「ルサカ、こっちへ」
タキアは乱暴にルサカの手首を掴んでリーンから引き離そうとする。
「痛い……! タキア、痛い!」
あまりに強く掴まれて、思わずルサカは悲鳴を上げる。
「タキア、止せ! ルサカが怯えてる」
「兄さんに触らせるとか…ルサカ、僕があれほど言ったのに!」
乱暴に引っ張られたルサカの悲鳴を聞いて、リーンが抱えていたルサカを離したその時だった。
一瞬だった。
痛みのあまりタキアの手を振りほどこうとしたルサカを、タキアが無理に引き寄せようとしたその時、ルサカはテーブルに倒れこんだ。
テーブルから滑り落ちた薄荷の植木鉢は、石の床に叩き付けられあっけなく砕け散る。
ルサカを抱きとめようと伸ばされたリーンの手は、間に合わなかった。
その砕け散った植木鉢の上に、ルサカは無防備に倒れ込んだ。
「……ルサカ!」
リーンが慌ててルサカを抱き起こす。
植木鉢の鋭利な破片は、ルサカの左目から頬にかけて、大きく抉り傷付けた。
リーンは切り裂かれたルサカの顔の左半分を手で押さえる。
「……大丈夫、そんなに痛くないから。平気だよ」
ルサカの声は震えていた。
ひどい出血だった。あっという間にルサカの顎を伝い落ち、床に血溜まりを作った。
「ルサカ、喋るな。今、出血だけでも止める」
傷を掌で押さえながら、リーンは短く呪文を唱える。
幾ら番人が傷ついても治るとはいえ、これだけ深く傷付けるとすぐには塞がらない。
ルサカは激痛に息を詰まらせる。
恐らく左目の眼球も傷付けた。痛みのあまり、眼を開く事が出来なかった。
タキアはルサカの側に座り込んだまま、言葉を失くしていた。
「タキア、大丈夫だから。タキアのせいじゃない。ぼくが悪かったんだ」
ルサカは必死でタキアに声をかける。
「ルサカ、傷が塞がらない。喋るな」
リーンはルサカの顔を押さえたまま、叱る。
「でも、タキアが」
「……ルサカ、ごめん。……傷付けるつもりじゃなかった。ごめん」
今にも泣き出しそうなタキアの声に、ルサカも泣き出したくなる。
顔の傷だけではない、タキアを傷付けたと思うと、耐え難いほど胸が痛かった。
顔と目が焼けるように熱かった。痛みに耐え切れずに、ルサカは小さく呻く。
「タキア、水とタオルを。泥を落とさないと、ルサカの傷が塞がらない」
タキアは呆然と座り込んだままだった。
「……タキア!」
リーンが鋭く叫ぶ。
「私がお持ちします」
騒ぎを聞きつけて駆けつけたレシェが、踵を返してリネン庫に向かう。
「……ルサカ、ごめん。……ごめん」
ルサカの右手を握って、タキアはひたすら詫び続ける。
「……タキア、謝らないで。ごめんね。……全部ぼくが悪い。傷付けてごめん。……だから、泣かないでよ」
タキアに握り締められた右手に、大粒の涙が零れ落ちる。
痛みのあまり、ルサカの声はひどく震えていた。
これは罰だ。
ルサカは痛みを堪えながら思う。
自分の事ばかり考えて、逃げてばかりだった罰だ。
ルサカが目を覚ました時、顔には包帯が巻かれていて、視界が狭まって、周りの様子がよくわからなかった。
部屋の隅のライティングデスクに、植えなおされた薄荷の鉢植えが見えた。
折れて弱っているようだけれど、薄荷は強い植物だから、また持ち直す。植え替えてくれたのは多分、レシェだろうと思い当たった。
痛みはまだあった。
この痛みでよく眠れたな、と考えてから、眠ったのではなく、恐らくリーンに眠らされたのだ、と気付く。
ベッドから起き上がろうとしたその時、誰かがずっと右手を握っている事に気付いた。
この、しなやかな指を持つ手は、タキアだと良く知っている。
「……タキア、ずっといてくれたの?」
身体をよじってタキアを見上げる。
タキアは黙ったまま、ルサカの髪を撫で、包帯を巻かれた顔に触れる。
何か言いたげに少しだけ、タキアは唇を動かして、それからまた、口を閉ざした。
「ごめんね、タキア。……たくさん傷付けたね。嫌な思いさせちゃったね。……タキアは、ぼくとの約束を守ろうとしてくれてたのにね」
タキアは無言のまま、ルサカの胸の辺りに顔を埋める。
その肩が少し震えていた。
「ケガなら大丈夫。そんなに痛くないよ。……それに、すぐ治るし、痕も残らないし。……だから、そんなに悲しまないでよ。……これはタキアのせいじゃない。ぼくが悪かっただけだ」
喋ると傷に響いてひどく痛んだ。
それでもルサカは黙っていられなかった。
タキアは優しい。
だからレシェも見捨てられないし、ルサカの約束も破れない。
誰も悪くない。
悪いとしたら、全てが丸く収まる道を選べない自分だ、とルサカは思う。