タキアがどれだけ繁殖期の縄張り意識を耐えて、フェイを置いてくれているのかは分かっている。
タキアを野蛮な動物だと決め付ける訳ではないが、大抵の動物が繁殖期に荒っぽくなる。雌を巡って殺しあう動物なんて、山ほどいる。
そこまで竜が、タキアが野蛮だとは思っていないが、フェイがルサカにキスした事を知られたら、さすがのタキアも激昂するかもしれない。
繁殖期は特別だ。温厚なタキアがここまでピリピリしているのを見た事なかった。縄張り意識と執着、理性と本能のせめぎあいで、タキアも心労をためている。
刺激していいはずがないし、激昂したタキアが何をするか、本当に想像もつかない。
タキアがそんなひどい事をするはずがない、と信じているが、知られないに越した事はない。
子供のした事でも許さないかもしれない。もう正直、いつフェイが口を滑らすかと胃が痛い。
そこで更にルサカが庇ったりしたら、大惨事になりそうな気がする。
とにかく知られない事が大事だ。
卑怯だといわれてもいい。事なかれ主義だといわれてもいい。
とにかく今は無事にフェイをフェイの父親に引き渡す事が最重要事項だ。
そんなルサカの心労を知ってか知らずか、フェイはとてものん気だった。
今日はとても天気がいい。
古城の巣の天辺で、ヨルとフェイを連れてルサカはひなたぼっこをしていた。
フェイはあの、タキアが放置している巨大な白水晶をぺたぺた叩いたり撫でたりして、お気に入りのようだった。
「……フェイ、それお気に入りだね」
さすが竜。小さくても綺麗なものが大好きなんだな、とルサカは感心する。
「おとーさん」
フェイはぺちぺち白水晶を叩く。
「……おとーさん、こんなの」
白水晶は父親を思い出す、と言いたいらしい。
確かにこの雪のように真っ白な白水晶は、フェイのような白い竜に見えなくもない。
「もしかして落ちてからここに来たのは、この白水晶を見て?」
フェイは聞いていないのか、また白水晶をペタペタしている。
口には出さないけれど、やはり父親が恋しいのか。
「……フェイ、お父さんどこにいるの?」
ルサカは深く考えて尋ねたわけではなかった。子供相手に適当に質問して会話しているだけのつもりだった。
「おとーさん、ジェナ。……ジェナ遠いね」
「遠いねー」
なげやりに返事をしてから、気付く。
ジェナだと。
地図でしか見たことがないが、このルトリッツがある大陸と反対側にある大陸の名前ではないか。
「フェイ……ジェナって、ジェナ大陸の事?」
「ジェナだよー」
子供はほんっとうに建設的な会話が出来ない。
人間の十歳ならかなり分別がついているが、竜の見た目十歳は幼すぎて本当に会話がひどい。
そんな遥か遠い大陸から、なぜこのルトリッツに?
それも、こんな小さな子供を連れて、なぜ?
「……タキア、帰ってきた」
ふと、フェイが空を見上げる。
雲ひとつない空だが、タキアの姿は全く見えない。
小さくても竜なんだな、と思う。
ルサカはこれだけ離れていたら、タキアの気配がわからないが、フェイは竜の本能なのか、見えるのか感じるのか、察知していた。
「フェイ、お父さん、早く来てくれるといいね」
「……おとーさん、来るよ。もうちょっと」
フェイは真っ赤な瞳で空を見上げたまま、さらりと言った。
「え?!」
「……タキア、帰ってきたよ」
タキアが急いで帰ってきたのは分かった。もどかしいのか、巣に降り立った瞬間、青白い焔が巻き上がり、タキアの輝く紅い鱗を包み、それから消えた。
「……フェイの父親から連絡があった! 今こっち向かってるって!」
こんな素早く人化するのを初めて見た。いつももう少し時間がかかるのに、どれだけタキアが慌てていたかよくわかる。
「今フェイもそんな事を言っていたよ! 良かった……! フェイ、良かったね。お父さん、もうすぐだって!」
「……ちょっとあれなんだけど、この大陸からかなり離れるまで、フェイを落とした事に気付かなかったらしい……」
なんて雑な生き物なんだ、竜は。
大事な子供を落として気付かないなんて、ちょっとないだろう。
「籠にいれて眠らせていたから、油断していたと言っていた。……探しながら来た道を戻っているところで、やっと連絡取れる範囲に入ったから話が出来た」
フェイはタキアの膝に乗って、大人しく書庫から持ってきた絵本を見ている。
意外な事にタキアはフェイが人化してから、面倒をみるようになった。
ルサカに近付けるくらいなら自分で面倒見た方が安全だしマシだと思ったらしい。
雑な扱いをしているけれど、丈夫な竜の子供なのでさほど問題でもない。フェイも特に不満はないようで、子供特有の空気の読めなさで、タキアにもそれなりに懐いているように見えた。
「ちび、お前のお父さん心配してたよ。……籠開けて飛び出すとか、本当にひどい。子供はこれだから怖い」
人の子供も竜の子供も、考えられないような悪戯をするのは同じか。
タキアはフェイの頭をぐいぐい撫でている。少々乱暴だけれど、タキアなりに気持ちに折り合いをつけて可愛がっているように見えた。
こんな繁殖期に、ものすごい譲歩だとルサカは思っている。
「……そういえばタキア。繁殖期に他の竜がルトリッツにいたのに、気付かなかったの? ……意地悪じゃなく、ちょっと不思議で……どうしてだろうって」
それは疑問だった。
これだけ縄張り意識が高まっているなら、他の竜が侵入して気付かないはずがない。
ルトリッツなんてタキアの掌のうちのようなものなのに、なぜ気付かなかったのか。
それを指摘されて、タキアはぐっと詰まった。
「……だって……繁殖期が楽しみで、気が散ってたから……」
目を反らして、少し口を尖らせる。
タキアがちょっと恥ずかしいとか、言いにくい事をいう時のあの態度だ。
「多分、向こうも繁殖期だから刺激しないように、気配を殺してたんだと思うけど……浮ついてたのは認める……」
この、拗ねたような態度のタキアは、とても可愛い。
たまに見せる、この、子供っぽいような、それでいて少し男のプライドを感じさせるこの態度を見ると、ルサカはなんとも言えない甘酸っぱさを感じる。
「……タキア、可愛いな」
思わず背中から抱きついて、その赤い髪に口付ける。
「……ぼくもだよ。……ちょっと楽しみにしてた」
「……なんだかもう……この話はもうなし! ルサカも忘れて! ……ちび、お風呂行くよ!」
タキアは相当この事が恥ずかしいのか、フェイを抱えて素早く部屋を出て行ってしまった。性的な羞恥はとても薄い竜だけれど、プライドが関わると話は違う。そこは羞恥を感じるようだ。
タキアは出会った頃と比べたら、とても変わったとルサカは思う。
ルサカも変わったかもしれない。それはきっと、いい変化なのだと、そう信じたい。
恐らくものすごく急いで、かつ、限界まで飛び続けたのだろう。そして、最愛の息子の行方を、不眠不休で探し続けただろう。
フェイの父親は、一目見て分かるほど、憔悴しきっていた。
が、その憔悴が更にその美しさを引き立てる。考えられないくらいの美貌だった。
フェイに確かに良く似ている。
真っ白な長い髪に、ルビーのような真っ赤な虹彩の竜眼。長身に切れ長の瞳。見た目はセツより少し上くらいに思えた。
これは綺麗なものが大好きな竜のタキアだけではなく、ルサカも見とれた。
この絵に描いたような美形はなんだ。
「……アイスドラゴンは考えられないレベルの美貌が多いけど、こんな魂抜かれそうな美形初めてだよ」
ぼそぼそとタキアはルサカに耳打ちする。
「この世のものとは思えない美しさだね、これはすごい……」
古城の巣の天辺でフェイの父親を出迎えたが、フェイの父親は辺りを見回していた。
それは物珍しさからではない。それはタキアにもルサカにも伝わった。
「おとーさん!」
フェイはタキアの手を振りほどき、真っ直ぐ父親に駆け寄り、飛びついた。
「フェイ、無事でよかった……。すまなかった」
抱き上げ、フェイを抱きしめる。
さすが父親、人の姿になっても息子は間違わない。
「おとーさん! おとーさん……!」
フェイはそのまま頬を摺り寄せ、父親に口付ける。幾度か口付けて、それからまた、しがみつく。
それを見て、さすがにタキアとルサカは固まる。
親子でキスだと。一体何がどうなって。
「……すみません、ご挨拶が遅れました。私はシメオンと申します。……多分今のを誤解なさっていると思うので、先に言っておきますが、ジェナの竜は家族間でキスをします。これは親愛を示すもので、ルトリッツのように恋愛感情ではないのです。……昔、私の妻もそうして誤解を……」
キスが挨拶。妻。
キスが挨拶なのにも驚いたが、妻という言葉にも驚いた。
竜の口から妻という言葉を、ルサカだけではなくタキアも初めて聞いた。
竜に結婚の概念はない。それはタキアの話だけでなく、リーンやエルー、珊瑚の話からもよく分かる。
ルサカがちらり、とタキアを横目でみると、タキアも混乱してい考えが追いつかないのか、呆然としているように見えた。
「まずは、息子を保護して頂いた事を感謝致します。タキア殿、ルサカ殿……心より感謝を。繁殖期に多大なご負担をおかけした事を、お詫びいたします」
そういえば、タキアが子供のいる竜は父親でも発情しなくなる事がよくある、と言っていた。
シメオンは確かに発情していない。どうみても平常時の竜だ。
「……いえ、シメオン殿。無事にご子息をお返しできて、僕も安心しました。ジェナは遠く離れた大陸ですが、なぜこんなルトリッツまで。……立ち入った事をお聞きして申し訳ないとは思うのですが」
シメオンはフェイを抱きしめたまま、少し困ったように微笑んだ。
長旅で疲れているであろうシメオンを、タキアは客間に通した。
この繁殖期に他の雄を巣に迎え入れるなんて、タキアは随分大人になった。そうルサカも思う。
シメオンが発情していないのも、子持ちなのも、そしてこれも外せない『竜が好む美しいもの』だというのも大いに関係があるだろうが、ここは素直にタキアの度量を認めたい。
竜同士の会話に口は挟まない。
ルサカはお茶を出すと、ヨルとフェイを連れて部屋の隅の絨毯に座る。
「フェイがこの城に……まず、どこからお話したらいいのか……。……ルトリッツにやって来たのは、私の妻……これは人間の考え方ですが、私は彼女を妻だと思っていたので。……私の妻は、ルトリッツのネル村の出身なのです」
タキアは静かにシメオンの話を聞いている。
ルサカもネル村は知っていた。以前、タキアが山ほど林檎を貰って帰ってきた村だ。
その村には、竜に愛された娘の伝説が残っている事も、子供の頃に絵本で読んだ事があった。
まさかそれが本当の事だったとは、思いも寄らなかった。
「……そして、このタキア殿の城にかつて、私の兄が住んでいました」
衝撃的だった。そんな不思議な縁があるのか。
この古城に、かつて竜が住んでいた事は知っていたが、まさかその関係者が現れるとは、予想もしていなかった。
「……兄について、これ以上申し上げる事はできませんが……兄の巣に遊びに来ている時に、妻に出会いました。そして彼女を連れてジェナに渡り、フェイが生まれました」
古城の巣の前の住人が、訳ありなのはタキアもルサカも知っていた。
この城のかつての主だったアイスドラゴンは、番人を人に奪い返され、怒り狂い、ルトリッツを凍りつかせて去っていったという話を聞いた事があった。
シメオンが語りたくないという以上、追求は出来ない。
出来ないが、何か、不思議な縁と、知ってはいけない、何かを感じ取っていた。
タキアもルサカも、漠然とした得体の知れない不安を覚えた。開けてはいけない扉を開いてしまうような、そんな不安だった。
「その妻も亡くなって……フェイと二人で暮らしていたのですが、ある日、フェイに母親はどこか、と尋ねられて。……未練がましいと思われるかもしれませんが、どうしても、彼女と出会った場所にもう一度、立ちたかったのです。……もう彼女がどこにもいないとわかっていても、どうしても、フェイを連れて、彼女に会いに行きたかった……」
そのシメオンの気持ちを思うと、タキアもルサカも言葉がなかった。
長い命があると思われた番人が、こんなに早く亡くなる。それも、小さなわが子を残して。
どれだけフェイの母親が、シメオンが、フェイが悲しんだか。そして彼らは、失った今も彼女を思い続けている。
それを思うとかける言葉が浮かばなかった。
「いてもたってもいられなくて、フェイを連れて来てしまいました。繁殖期にこんな事を引き起こして、ご迷惑をおかけして。お二人にはどれだけ感謝してもしきれません。……本当にありがとうございます」
「シメオン殿、お気になさらないで下さい。……僕はあまりに未熟で、シメオン殿にお返しする言葉が浮かびません。……ただ、お力になれた事を嬉しく思っています。それだけはお伝えしたい」
あまりにも色々な事を一度に知りすぎた。
この巣の前の住人、ネル村の竜に見初められた娘の伝説、これだけで、何か知ってはいけないものを知ってしまった気がしていた。
それはとても物悲しい何かを感じさせる。
これ以上知ってしまったら、もう戻れないような気がしていた。
「……おとーさん」
フェイは何かを感じ取ったのか、シメオンに駆け寄ると、その膝によじ登り、幼いその手で父親を抱きしめる。
「フェイ、大丈夫だよ」
抱きしめ、その髪にシメオンは頬を摺り寄せる。
「……長い命の番人が、そんなに早く亡くなるのか、とお思いでしょうね。……彼女は出会った時には、既に病に冒されていました。……竜の強靭な生命力でも、彼女の死をとめる事は出来ませんでした。……私は愚かにも、この力があれば彼女を守り通せると思い込んでいました」
フェイの母親は、とても幸せだったのではないだろうか。
こんなにも愛され、その愛する人の子をこの世に残し、そして恐らくは、愛する二人を残して死にゆく事が辛く、悲しくはあっただろう。未練は語りつくせないだろう。
けれど、それでも、とても幸せに番人として、竜の妻として、生きたのではないだろうか。
シメオンもフェイも、彼女を心の底から愛し、慈しんでいただろうと、想像に難くない。
そうルサカは思っていた。
泊まって身体を休める事を勧めたが、シメオンは固辞した。
彼が竜の繁殖期をこれ以上邪魔したくない、と思っているのはよく分かる。竜にとってとても大事な事なのは、竜だからこそ、よく分かっている。
古城の巣の、『本物の竜の巣』への階段で、シメオンとフェイを見送る。
「……本当にありがとうございました。……フェイ、お礼は言ったかい?」
シメオンに促されると、それまでシメオンの足にしがみついていたフェイが、顔をあげる。
少し迷って、フェイはタキアとルサカを見上げる。
「ありがとう……」
それから、ぱっとルサカの足にしがみつく。
「ルサカ……大好き」
それだけを言うと、またシメオンの足に飛びついてしがみつく。
それは泣くのを堪える子供そのものに見えた。
そのフェイの頭を、シメオンは優しく撫でる。
「……フェイが人になっていて、驚きました。……恐らく、ルサカ殿。あなたに好意を伝えたかったのでしょう。竜のままでは、人の言葉を話せませんから」
タキアは『竜は綺麗なものが大好きだから、ルサカの事も大好きなんだ』と言っていた。
ルサカもそうだとばかり、思っていた。
「ルサカ殿は少し、妻に似ています。妻もそんな髪と、新緑色の目をしていました……。フェイが人の言葉を喋れるようになるまで、妻は生きられなかったので……だから、よく似たあなたに伝えたかったのかもしれませんね」
竜は人間が思うよりも、もっともっと、愛情深く、優しく、無垢なのかもしれない。
ルサカが思うよりもずっと、悲しい生き物なのかもしれない。
去り行く二人を、静かに、見送る。