竜の棲み処

#47 力になりたい

「……竜騎士なら交尾し放題……。本当に、なんて事だ。……なんて浅慮だったんだろう」
 絶望するポイントがそこかと思うと、ちょっと違うような気がしなくもないが、竜にとって交尾はとても大切な事で、更にルサカだけを愛すると決めたタキアにはかなり深刻な問題で深刻な過失で深刻な後悔なのは、仕方ない。
 仕方ないが、そう交尾し放題ばかりを惜しまれてもなんだかな、とルサカは思う。
 かといって戦闘能力を求められて竜騎士になれなかった事を惜しまれても困る。そもそもルサカにやる気がない。
 落ち込むあまりにリーンが帰り際にルサカの頬にめちゃめちゃたくさんキスしていった事にも、タキアは気付いていない。
 そこまで後悔する事なのか、とルサカは一瞬思ったが、現に交尾の事でこれだけ色々二人そろって悩んでいる。
 もし一年でもルサカを育ててから、という余裕があれば、もしかしたら途中で竜の魔力を持っている事にも気付けたかもしれない。
 ルサカも番人になる決意や、心構えが出来ていたかもしれない。
 それはもうどんなに後悔しても、取り返せない、やりなおせない過去だ。
 そんな事を考えながらルサカは居間の絨毯の上に座って、書庫から竜言語の魔法書っぽいものを持ち出して読んでいるが、正直さっぱり分からない。
 番人から竜騎士になった人はいないとリーンも言っていたし、竜のタキアと戦って勝てる気も全くしない。竜騎士になるコースは完全にないけれど、努力次第でこの番人にしては未熟で虚弱すぎる身体を何とか出来るかもしれないなら、努力するしかない。
「タキア、竜の魔法教えてよ。……落ち込むのはそれからで」
 いつもの寝椅子に座ってがっくりとうなだれているタキアの隣に腰掛けて、本を突きつける。
「……教える……」
 開かれたページを見つめたまま、タキアは少し考え込んでいた。
「……人に竜の魔法って、どう教えたらいいんだろう」
 そんな事、ルサカに聞かれても困る。
「タキアはどうやって魔法の使い方教えてもらったの?」
「特には習ってない。……難易度高いものは本を読んで術式を覚えるくらい」
 これが『人に竜の魔法をうまく教える自信がない』の正体か。
「……せめて、こう、呪文を唱える時に何かイメージするとか…何か意識するとか…ない…の…?」
 タキアは腕を組んで考え込みながら小さくうなる。
「今まで特に何も考えてなかった」
 これはあれか。
 剣の達人が剣の教師として優秀かといえば、そうでもない、というあの理屈か。
 できる人はできない人が何故できないのか理解できないというあれか。
 天才に凡人の気持ちは理解出来ないというあれか。
 そもそも竜はそんな複雑で面倒な事は考えないし考えられない。多分タキアの言う通り、本当に何も考えずに本能だけで魔法を使っているのだろう。
「……じゃ、一番簡単な魔法の呪文だけでも教えてよ……なんとなくやってみるから……」
「一番簡単……危険がなくて一番簡単なのっていうと、これかなあ」
 短い呪文を紙に書く。
「これは眠らせる魔法。眠る深さや時間は……なんていえばいいんだ。調整できるんだけど呪文は変わらない」
「これ、失敗したらまずくない? ……永遠に目が覚めないなんていう怖い事にならない?」
「うん。……まずいかもしれないね……」
 ルサカは呪文の書かれた紙をタキアに返す。
「もうちょっと、こう、失敗しても笑ってすませられるやつ、お願い……」



 結局、『比較的簡単で失敗しても大惨事にはなりにくい』のはこの呪文、という事で、二人そろって中庭に出て、『小さな泉を湧かせる』呪文を使う事にした。
 タキア曰くこの水の魔法はとてもタキアと相性が悪いので、苦手らしい。
 けれどタキアが得意な火系の呪文は、失敗したら大惨事間違いなしなので、比較的失敗しても平和な水系を選んだのだが、タキアが苦手な上に教え方だって分からない。
 そんな『やってみよう』な気持ちだけでやったものだから、当然結果は芳しくなかった。
「……だめだね」
 ルサカもしょんぼりしている。
「うん。……だめだね……」
 タキアもルサカと同じくらいしょんぼりしている。
 さっきから何度も試しているし、必死でタキアもアドバイスしているが、全く何も起こらない。
「幾ら魔力があったって、呪文だけじゃどうにもならないって事か」
 ルサカは中庭の下草にしゃがみ込みながら、書庫から引っ張り出してきた魔術入門書っぽい本を広げる。
 この竜言語の魔術書は、当たり前だが、人間が読む事も人間が使う事も想定されていない。
 当然、竜の為の本だ。
「リーンさんならいけるかなあ。……十九人も番人がいて千年も生きてるなら、ひとりくらい、魔力のある魔術師の番人もいるよねきっと」
「兄さんに習うなんて、絶対だめだ! 絶対、お礼はルサカの身体でいいよとか言う! 交尾させてくれれば教えるよとか、絶対言う! だからだめ! ぜったいだめ!!」
 弟にすらここまで信頼されていない兄。いや弟だからこそこんなにも警戒されているのか。さすがの信頼性だ。
 竜としては間違いなくごく一般的なお礼の返し方だろう。そもそも番人なんて、来客の接待で気軽に交尾するものだ。本当はそれが普通で当然の事なのだ。
 タキアがゆるゆるモラルの竜の常識から外れているだけで、リーンの言動も考え方も、多分、竜の感覚なら普通の感覚。
 むしろお礼は交尾でいいなんて、すごく気前いい! と思われるレベル。
「……せめてリーンさんのところの、魔力のある番人に習うとか」
「いるけど、みんな人の魔力持ちだよ。……竜の魔力持ちとか、珍しすぎてちょっとなかなかいないよね」
「……だよね。……そんな都合のいい人なんて……」
 ひとり、いた。
 恐らく人の魔法も、竜の魔法も使いこなす。そんな人が、ひとりだけ、いた。
 あの本の要塞のような書斎にある本は、大半が竜言語の本で、恐らくは、魔術書だった。
「……ひとり、いたね」
 ルサカは右手を空に翳す。
 右の小指には、強い魔力を帯びた白金の指輪が輝いていた。



「……よく、君の主はここに来る事を許したね」
「タキアはそんな狭量な竜じゃありません」
 久し振りに訪れた薄氷の屋敷は、変わらずに鬱蒼とした黒い森の中に、静かに佇んでいた。
 リリアもノアもルサカの来訪をとても喜んでくれて、今、ルサカの為にご馳走を作ると張り切って厨房に篭もっている。
 そして肝心の、この薄氷の屋敷の主であるレオーネはといえば、変わらず穏やかで物静かで、優しげな微笑みを絶やさないが、何を考えているのか、相変わらず分からない。
「とうとう竜騎士を持つ覚悟ができたのかと思った」
 ルサカはレオーネの書斎机の傍、書棚用の踏み台に座って、書棚の本を眺めていた。
 このレオーネの書斎も以前に来た時と変わらない。本の要塞のようなこの書斎の蔵書は、あれからまた少し増えているような気がする。
「残念ながら、レオーネ様に用事があるのはぼくです」
 ルサカは適当に書棚から本を引き抜いて、ぱらぱらと捲る。辞書があっても難易度が高そうだ。さっぱり意味が分からない。
「……本当かどうか分かりませんけど、ぼくには竜の魔力があるとか。……遠い昔の祖先に竜がいたかもしれない、と言われました。もしも魔力が少しでもあるなら、魔法を覚えたいんです」
「……それは珍しいね」
 レオーネはとても興味を持ったようだった。
「私には人の魔力しかないよ。……人の魔力で竜の魔法を行使しているから、威力は不安定だ。竜の魔力を持つ人というのは、とても興味深いね」
 レオーネはペンと紙を持って、書斎机を離れ、かろうじて本を積まれていないティーテーブルに置く。
「ルサカ、こちらへ」
 促され、テーブルにつく。
「竜の言葉で何か文字を書いて。……それでだいたいの魔力の種類が分かる」
 ルサカは少し考えて、竜の言葉を綴る。
 紙に綴った文章を見たレオーネが小さく、きみらしいね、と呟いたように聞こえたのは、ルサカの聞き間違いか。
「……なるほどね。確かにこれは人の魔力じゃない。……竜の魔力だ」
 ルサカが書いた紙を手にとって、眺める。
「惜しいね。ものすごく質がいい。こんな高純度の魔力はなかなか見ない。……鍛えればかなりのクラスの魔術師か、魔法騎士になれただろうにね。……とても残念な事だ」
 ピンとこないが、それほど高い資質だったのか、とルサカもぼんやり考える。
「本当に……竜は浅慮すぎる」
 ぽつん、と呟く。
 残念ながら、それは否定出来ない。ルサカも認めざるを得ない。
「どの道、人の世界で生きてたら、気付かずに一生を終えていた能力だと思います。……それにぼくは騎士になりたかったわけじゃない。……タキアの役に立てるかもしれないなら、今ある魔力と努力で補える範囲で、使えるようになりたいだけなんです」
 正直な気持ちだ。騎士になる事を求められるのは、嬉しい事ではなかった。
 騎士になれなかった、なりたくなかったルサカを、強く否定されていると思えて、とても悲しくなっていた。
 本が好きで、家事が好きで、庭いじりが好きで、およそ男らしいとは言えない。
 それを最初から喜んでくれたのは、タキアだけだった、と今、気付く。
 レオーネは紙を見つめたまま、暫く考え込んでいた。
「……魔力の量は残念なくらいだが、質はいい。これだけ高純度なら努力次第でそこそこには使えるようになるだろう。……決して楽にはいかないけれどね」
「努力で補えるなら努力は惜しみません。……レオーネ様、教えて頂けませんか」
 レオーネは、その美しい唇の端を緩くあげて、微笑む。
 ああ、これは何か企んでいる顔だ。
 ルサカもさすがに覚えた。この美しい人は、一癖も二癖もある。
「どんな魔法を覚えたいんだい?」
 今、レオーネ様が考えたような魔法ですよ、とルサカは言いたかった。
 強さを求めていないルサカが求める魔法なんて、分かりやすい。この未熟な身体と、ひとりしか番人を持たないと誓った主とで、簡単に察したであろう。
「……巣や自分を守れる、簡単な魔法と……身体を強化したいです。……ぼくの身体は番人として生きていくには、小さくて、あまりに未熟で、弱すぎます……」
 屈辱だとは思わない。思わないが、羞恥を覚えずにはいられない。
 レオーネは分かっていて、この意地悪な質問をしている。
 いや、意地悪もあるが、確かめる必要はあった。ルサカが何を望んでいるのか、はっきりと聞かなければ、レオーネだって教える方向性が決められない。
「……身体強化と、防御と、簡単な攻撃かな。いいよ。……教えよう」
 レオーネは紙を持ったままティーテーブルを離れ、書棚に向かう。
「……今日は準備が出来ていない。次に君が来る時までに、色々用意しておこう」
 書棚をじっと眺め、レオーネは軽くため息をつく。
「昔の本は処分してしまったな。……まさか、また使う事になるとは思いもしなかった」
 恐らく、レオーネが昔、竜の魔法を学ぶ時に使った本の事だろう。
「ありがとうございます、レオーネ様。……お礼は、必ず。レオーネ様が望むもので、ぼくに用意する事が可能なものなら、対価としてお支払い致します」
 真摯なルサカの言葉を聞いて、レオーネは振り返る。
「そうだね。……欲しいものは特にない。無償でも構わないよ。……そうだな。私に万が一があったら、リリアとノアを守ってくれ。……それでいい」
「レオーネ様に万が一なんて、ちょっと考えられません」
 レオーネは小さく声をあげて、笑った。そんな笑い方もするのかと、ルサカは少し驚いていた。
「……竜騎士も、竜も、人も、番人も、いつかは皆、平等に死にゆくんだよ、ルサカ」
 レオーネは一冊の本を取り出す。
 竜言語の本だった。それをルサカに手渡す。
「これは竜言語魔法の基本の本だ。……一冊だけ、昔の本が残っていたよ。これは君にあげよう」
 とても古びた本だった。
 レオーネがいつの時代から生きているのか、ルサカは知らない。
 百年や二百年でない事だけは、この書庫を見れば分かる。もっと長い時代を感じる。
「……さて。そろそろ夕飯が出来た頃か。……リリアとノアがあんなに張り切っていたんだ、食べていきなさい。ふたりとも、君が来てくれた事がとても嬉しいんだよ」
 書斎を後にするルサカを見送って、レオーネはルサカが最初に書いた紙をもう一度、取り上げる。
『力になりたい』
 とても綺麗な、とても澄んだ魔力に満ちた文字だった。



 しっかりと、夕飯をご馳走になった。
 黒い森は昼夜問わず薄暗いし、薄氷の屋敷は時間が止まったようで、さっぱり今がどれくらいの時間かわからないが、もう遅い時間なのは確かだ。
 黒い森の外れまでレオーネに送られて、ルサカは少しだけ、タキアの事を考えていた。
 帰りが遅いのをとても心配しているかもしれない。ほんの少し、申し訳なく思う。
「……君の主は、私が君を返さないかもしれない、と疑わなかったのかい」
 それは全くなかったわけではない。
 そんな事がないといい、とはタキアも言っていた。
「……レオーネ様を信用しているんですよ」
 レオーネは小さく笑う。
「……そうだね。次は丸一日、時間が取れる時に来るといい。……その時に基本を教えよう」
 レオーネは小さく呪文を唱える。
 鬱蒼と生い茂る木々の間に、小さな光が生まれる。その光は徐々に輪を描くように広がり、森の外へと繋がっていく。
「ありがとうございました。よろしくお願いします」
 その光にルサカが一歩足を踏み入れた時だった。
「ルサカ。……古城の巣の書庫がそのままなら、書庫の二階、左の一番奥の棚に、入門書があったはずだ。……それを読んでおくといい」
 一瞬、意味が分からなかった。
 ルサカが意味を理解して言葉を何か発する前に、森は閉ざされた。
 とても月が大きく、綺麗な夜だった。
 古城の天辺のあの本物の竜の巣に、月明かりに照らされながらルサカは呆然と立ち竦む。



2016/03/30 up

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