竜の棲み処

#55 過ぎ去った日々

 本当にすごい。
 タキアはあれから本当に『腰が立たなくなる』まで交尾しようとしたが、実際は無理だった。
 ルサカが頑丈になりすぎて、そう簡単に音を上げなくなった。
 確かに疲れはするけれど、前ほど弱りきったりしない。
 少し横になっていたら、問題なく動き回れる。
 竜の魔法すごい。そりゃ竜がちょっとケガしたくらい、なんて事ないわけだ。
 タキアのあの考えられないタフさも、竜本来の強靭な生命力に加え、更にこの魔法が常時かかっているからか、と心の底から納得する。
「竜騎士ほどじゃないだろうけど、竜の魔法を人が使えるとこんなに頑丈になるのか。……僕はルサカの身体に竜の血を残してくれた、遠い昔の竜にものすごく感謝しないといけないな」
 ルサカにめちゃめちゃ怒られたタキアは、大人しく書庫の床の掃除をしている。
 遠いご先祖様も竜との交尾の為に竜の血を残してくれたわけじゃないだろうけど、とルサカは心の中で突っ込む。
 確かに竜の魔力は偉大だ。
 レオーネも言っていたが、この魔力のおかげで、番人としては貧弱すぎるルサカの身体も強化され、竜の魔法の行使に耐えるだけの耐久力も持てるようになっている。
 どの属性とも相性がよく、純度も高い。もし成人まで育っていたなら、とレオーネが惜しむ気持ちが、ルサカも良く分かった。
 強さに全く興味がないルサカでも、この明らかな強化を体感すると、成人して魔力の器が完成していたならどんな魔法を使えたのかと興味を覚える。
 ルサカがちらっとタキアを振り返ると、タキアは真面目に掃除を続けていた。
 タキアも竜だ。巣を守り財宝を集めるには、当然力が必要だ。竜に生まれたからには強さを求める。
 だからこそ、ルサカのこの素質を惜しまずにいられない。後悔せずにいられない。
 もうどんなに後悔しても取り戻せない事だから口にはしないだけだ。
 ルサカも今にしてこんな風に自分が争いの種になるなら、もっと力が欲しかったと思わずにいられない。
 クアスには一矢報いたい。自分の手で。
 意に反して勝手をされるなんて、本当に腹が立つ。
 番人の意思に関係なくやりとりされなきゃならないとか、考えてみたら本当にひどい話だ。
 そんな事を考えながら、手近の書棚から何の気なしに一冊の本を引っ張り出す。
 竜の言葉で書かれた植物図鑑だった。
 これもかなり古そうでそれなりに劣化をしているが、植物の説明に添えられている絵がとても繊細で美しく、ルサカは思わず見とれる。
 この本の説明や挿絵を描いた人は竜なのか、竜の番人なのか、それとも、もっと違う他の種族の者なのか。
 とても不思議だが、美しいものを美しい、と思う心は、きっと竜も人も、他の生き物達も同じに違いない。
 この本の挿絵は本当に綺麗で緻密で、生き生きと描かれていた。
 ページを捲ると、一枚の絵が挟まれていた。
 サインはなかった。描きかけの、この挿絵の模写だった。
 確かめるまでもなく、これはメイフェアの絵だろう。
 メイフェアが男性か女性か、どれくらいの年齢で番人になったのか、全く分からない。人となりも、知る術がない。
 知っているのはメイフェアの残した数枚の絵だけだ。
 メイフェアは番人になって、どんな事を思ったのだろう。
 もっと世界中を見て、知って、絵を描きたい、と思っていたのだろうか。
 人の世への未練はなかったんだろうか。
 もしもメイフェアが生きていたなら、聞いてみたい事はたくさんあった。
 ルサカは描きかけの花の絵を挟んだまま、ページを捲る。
 大きな図鑑は片手で持つには厳しい。ルサカは床に座り込んで膝に本を載せ、ページを捲り続ける。
 数ページ捲ると、今度は半分に折られた紙が挟まれていた。
 丁寧に、破らないように、そっと開く。
 これはフロランだろう。メイフェアのサインはあったが、他の言葉は書かれていなかった。
 開かれた本のページにうつ伏せて目を閉じるフロランの絵だった。これはうたた寝しているところを、メイフェアがスケッチしたものか。
 シメオンに良く似ている。今のシメオンより、少し幼いくらい。
 タキアもエルーやリーンにとてもよく似ている。竜の兄弟はみんなよく似た特徴を受け継ぐのだろうか、とルサカはそんな事を考える。
 メイフェアの残した絵を見るたびに、メイフェアのフロランへの深い愛情を感じる。
 どの絵からも、言葉にし尽くせない何かを感じられた。
 ルサカは丁寧にそっとたたみ、その絵を再び本に戻す。
 メイフェアの記憶を、そのままそこに残しておきたい。メイフェアがそうしたように、残しておきたかった。
 メイフェアがこうして、書庫のあちこちにその痕跡を残したのは、こんな風にこの古城の巣を去る事を思いもしなかったからだろう。
 本を閉じようとしたその時、後ろの方のページから、白っぽい何かがはみ出している事に気付いた。
 その何かが挟まったページを開く。
 真っ白な封筒だった。赤い蝋で封蝋が施されている。
 宛名は無かった。封蝋の施されたその裏面に、メイフェア、とだけ綴られていた。
 ルサカはその赤い封蝋を瞬きもせずに見つめる。
 何も言葉が浮かばなかった。
 暫くただ無言で、その封蝋を見つめるだけだった。
「……ルサカ、掃除終わったよ」
 タキアに声を掛けられ、我に返る。慌てて本を閉じ、抱えて立ち上がる。
「もうすごく反省した。……書庫でこんな事しないって約束するから、機嫌なおしてよ」
 まだルサカが怒っていると思っているのか、タキアは神妙な顔をしている。
 そのタキアを見上げているうちに、ルサカは言葉に出来ないくらい、切なく、悲しくなっていた。
 思わず本ごと、タキアを抱きしめる。
「……タキア、絶対勝ってよ。ぼくを連れて行かせないでよ」
「勿論だよ。絶対勝つから。約束する」
 抱きついたルサカの背中をぽんぽんと宥めるように叩く。
 メイフェアは、フロランに、レオーネに、再会出来ただろうか。
 そんな事をルサカは思う。
 もしもあの時、レオーネに救われなかったら。
 ルサカはどうなっていただろう。



「……とってもずるい事を言うけれど、もしタキア様が負けたとしても、この黒い森に逃げてしまえばいいと思うのだけれど。……やっぱりそれは、ずるくて卑怯な事かしら」
 リリアは思案げに緩く首を傾げながら提案する。
「竜のプライドを賭けた争いだからね。……ルサカも不本意ながら、それを尊重しているんだろう。正当な決闘で、主の名誉を傷付けるような真似をしたくないんじゃないのかな」
 まあ、身勝手な竜らしい行動だけれど、とレオーネは付け加える。
「どんなに大切にしていても、番人は持ち物だという意識は消えない。だからこうして所有権を賭けて争う。……君の主がどんなに君を大切にしていたとしても、結局、竜のルールから外れられない」
 そこを指摘されると、ルサカも返す言葉がない。
 違う、と否定しても実際、タキアは竜のルールに従っている。
 それが竜にとっては当たり前の事だ。
「まあ、人間も似たような事をするから、竜の事だけ言えない。……人間だってご婦人の愛を奪い合って決闘する騎士がいるくらいだからね。……愚かなのは人も竜も変わらない」
 その通りだ。
 レオーネは竜にだけ、否定的な訳ではなかった。
 人にも竜にも否定的なのではないかと、ずっとルサカは思っていた。
 もしかしたら、それはルサカの間違いだったかもしれない。
 レオーネは、人にも竜にも絶望しながら、諦めながら、それでもその愚かさを愛さずにいられないのではないのか。
 レオーネの言葉はそんな諦念を感じさせるのに、何故かとても優しく、悲しく、穏やかに、ルサカの耳に届いていた。
「ぼくも覚悟は出来ています。……不本意ながら。……だからといって、いいように扱われるつもりもないです。だからこそこうしてレオーネ様のところに来ているわけですが」
 ルサカの言葉に、レオーネは小さな笑い声を洩らす。
「……私も出来る限り協力しよう」
 ノアに小さく袖口を引かれる。促されるままに素直に掌を差し出すと、ノアは指先でルサカの掌に文字を書く。
『幸運を』
 ほんの一言に、ノアの気持ちが強く込められている。
「ありがとう、ノア。……後悔しないよう、頑張るよ」
「……ルサカ。何かあったら、ここに来てね。……私たちに出来る事なら、力になるから。……私たちがいる事、忘れないでね。私たちは無力かもしれないけれど……でも、ルサカは大事な友達だから、力になりたいの」
 リリアはノアの手ごと、ルサカの手を両手で包む。
「リリアも、ノアもありがとう。……ぼくも、ふたりが大好きだよ。大事な友達だよ」
 リリアもノアも、レオーネに救われたかもしれない。
 けれどレオーネも、リリアやノアに救われているのだ。強くそう思う。
「さて、そろそろ森の出口まで送ろう。……もう魔力はぎりぎりなんじゃないかな」
 その通りだった。
 レオーネの容赦ない指南のおかげでめきめき伸びているが、終わる頃にはいつも枯渇寸前だった。
 今日はもう習いようがない。諦めて帰るしかなかった。



 黒い森をレオーネと並んで歩きながら、ルサカは迷っていた。
 万が一、タキアがクアスに負けて、クアスの元に行く事になったら、おそらくルサカは操られる。
 それが竜にとっては常識だ。
 まして、他の竜から奪った番人なら、逃げ出さないよう操って行動を制限するのは当然だ。
 そうなったら、もうこの薄氷の屋敷に二度と来る事が出来ないかもしれない。
 後悔を残したくなかった。
 レオーネに、伝えておかなければならないのではないかと、迷いながらもそう思っていた。
 もう一度、ここに来られるかどうかも分からない。
 いつタキアとクアスが本気の争いをするかなんて分からないし、そう先の事ではない。
 伝えるなら今日しかないかもしれなかった。
「……レオーネ様」
 足を止めて、思い切って声をかける。
「レオーネ様に、渡しておきたいものがあります」
 ルサカは手にしていた包みを差し出す。
「メイフェアの絵を見つけました」
 レオーネの表情は、いつもと変わらなかった。
 ほの暗い森の木陰では、微妙な変化など分からない。いつもと変わりないように見えただけかもしれない。
「メイフェアの思い出は、レオーネ様にお返しします。……もしかしたら、ぼくは余計な事をしているかもしれません」
 レオーネは無言のまま、その包みを受け取る。
「レオーネ様の気持ちを、ぼくは分かっていないと思います。……それでも、ぼくは後悔を残したくなかった。もしここに二度と来れずに、メイフェアのこの絵を返せなかったら、ぼくは一生後悔する事になる。……ぼくのひとりよがりな、身勝手な気持ちなのは重々分かっています……」
 レオーネは一言も発しなかった。
 無言のまま、包みを解く。
 ルサカが最初に見つけたものと、あの植物図鑑に挟まっていた絵と、メイフェアの署名のある、赤い封蝋の封筒。
 レオーネは静かに絵を見つめる。
「……もう分かっているだろうけれど、君たちが住んでいるあの古城に、かつて私も住んでいた。君が想像している通り、氷竜のフロランの竜騎士が私だよ」
 絵を見つめながら、レオーネは目を細める。
 それは過ぎ去った日々を懐かしむのか、悲しんでいるのか。この記憶がレオーネの深い傷だと分かりきっているだけに、ルサカは胸が痛まずにいられない。
 これはただの自己満足じゃないのか、ルサカは今でも迷いがあった。
「だいたい君の想像している通りじゃないかな。……君があの古城の竜の番人だと知った時は驚いたよ。……君を無事に救い出せたのは、メイフェアの加護があったんじゃないかとすら、思えていた」
 この言葉だけで、メイフェアの最後がどんな悲しい最後だったのか、聞かずとも分かるような気がしていた。
 ルサカの表情で察したのか、レオーネは微笑んで見せる。
「……攫われたメイフェアをフロランと私が見つけ出した時は、もう何もかもが手遅れだった」
 その先を、レオーネに語らせるが辛かった。
 この真実を聞くよりも、レオーネに語らせる方がはるかに辛く悲しく思えていた。
「メイフェアは、私たちに殺して欲しい、と願った。メイフェアを地獄の苦しみから救うには、もうそれしか残された道が無かった」
 ルサカもあの時、レオーネに助け出されなければ、メイフェアと同じ運命を辿ったかもしれない。
『ルサカを無事助けられた事を一番喜んでいるのは、レオーネ様なんだもの。』
 そうリリアが言っていた言葉の本当の意味を、初めて強く理解した。
「フロランは、メイフェアの願いを聞き届けた。……それからは、今もルトリッツに残る伝説の通りだよ。メイフェアを失ったフロランは、正常ではいられなかった。荒れ狂い、街を襲い、ルトリッツを凍りつかせた。国を守る神ではなく、人々の命を脅かす厄災になった。……私は竜を失った竜騎士ではないんだよ、ルサカ」
 レオーネは穏やかに語る。
 あまりにも穏やかで、静かで、それが無性に悲しかった。
「生涯を共にするはずだった竜を殺した、竜殺しの竜騎士なんだよ」
 耐え切れなかった。
 ルサカの頬を滑り落ちた涙は、黒い森の苔むした小道に零れ落ちた。
「……ルサカ、私は君に知っていて欲しかったのかもしれない。……もう一組の君たちを」
「レオーネ様……ごめんなさい。……ごめんなさい……」
 何を言っていいのか、ルサカはもう分からなかった。
 こんな苦痛の歴史を、レオーネに語らせてしまった事を、後悔もしていた。
 それでも、メイフェアの優しい記憶を、届けたかった。
 この絵を、どうしても、レオーネに返したかった。
 それはルサカの自分勝手な気持ちだったのかもしれない。それでも、メイフェアのこの気持ちを、レオーネに返したかった。
 レオーネのあの、綺麗な顔に不釣り合いな無骨な手が、ルサカの頬に触れ、零れ落ちる涙を拭う。
「謝る事は何もないよ。……私はきっと、君たちに知っていて欲しかったんだ。フロランとメイフェアの存在を、彼らが生きていた思い出を」
 この優しく穏やかで、そして、人を惹きつけて拒む、孤独な瞳。
 どこか悲しげな横顔をしたレオーネは、この数百年をどんな気持ちで生きてきたのだろう。
 番人を救い続けるその理由が、今はっきりと、分かった。
「ルサカ」
 穏やかに、優しく呼びかける。
「……必ずまた、ここに来て欲しい。……これは私からの頼みだ。……メイフェアとフロランを、君たちに知って欲しい、私の願いだよ。彼らと君たちを重ねるのはきっと私のエゴだね。……悲しみを君に背負わせてしまうのにね」
 そんな事はない、と叫びたかった。けれど言葉は声にならなかった。
「あの時、君を救うために導いてくれたのはメイフェアとフロランかもしれないと、そう思いたいのは私の感傷だ。……ルサカ、必ずまた、ここへ。……約束してくれ」
 頬に触れ涙を拭うレオーネの指先に手を伸ばし、ルサカは握り締める。
 レオーネのその切なる願いに、頷く。
 ただ頷く事しか出来なかった。



2016/04/12 up

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