竜の棲み処

#56 だから守り通す。絶対に。

 古城の巣に降り立つと、宝石をばら撒いたような満天の星が煌めいていた。
 ルサカは泣きはらした目で、その眩いばかりに美しい夜空を見上げる。
「おかえり、ルサカ」
 タキアは例の白水晶の傍に佇んで、ルサカと同じように夜空を見上げていた。
「……バーテルス卿に、メイフェアの思い出を返せたかい?」
 二人並んで、夜空を見上げたままだった。
「うん。……ちゃんと返せたよ。メイフェアも、フロランも、喜んでくれたかな。……喜んでくれるといいな」
 タキアはそっとルサカを抱き寄せる。
 いつものように、その柔らかなココア色の髪に頬を埋め、目を閉じる。
「……きっと二人も、バーテルス卿の許に帰りたかったと思うよ」
「……うん。……うん……」
 あんなに泣いたのに、まだ涙が溢れた。
 ルサカが消えた時、タキアも狂ったようにルサカを探し続け、荒れ狂ったと伝え聞いた。
 もしもあのままルサカがレオーネに助け出されていなかったら、タキアもルサカも、メイフェアやフロランと同じ道を辿ったのかもしれない。
 あの時、ルサカを救う為にレオーネを導いてくれたのは、フロランとメイフェアだったと、ルサカもそう思いたかった。
 レオーネの深く傷付いた魂を癒やす為に、救いのない悲しみを終わらせる為に、彼らがレオーネを導いてくれたのだと、信じたかった。



「……多分これを言うとお前は怒り狂うと思うんだが、俺はどうしてもお前に伝えなきゃならないんだよ」
「怒り狂うかどうかは、聞いてみないとわからんな」
 例によってライアネルの屋敷の、木陰の東屋で、保護者二人は並んでお茶を飲んでいた。
 リーンはすっかり馴染んで、もう我が物顔でヴァンダイク家に出入りしている。
 そんなだから、ライアネルにあんな噂が立っているわけだ。
「怒り狂うだろうけど、最後まで話を聞いて欲しいってのは言っておこうかな」
 リーンはさり気なく、ライアネルの手元からティーカップやケーキ皿等の割れ物を遠ざける。用意周到だ。
「……まず聞いてみない事にはな」
 リーンはどこから話したらいいのか、と思案していた。
 少し考え込んでから、口を開く。
「簡単に説明すると、これから数日後に、竜二頭の争いがルトリッツで起こる。まあ人間の言うところの、決闘だ」
「竜二頭がルトリッツで暴れるっていうのか。……どう考えても甚大な被害が出るじゃないか」
 途端にライアネルは眉根を寄せる。
 確かに竜二頭が争ったら、周辺の土地は大惨事だ。未曾有の被害が予想される。
「その辺は大丈夫。俺が立ち会うから、決闘用に魔力で森かなんか作って、隔離する。……千年も生きればそれくらいは簡単に出来る。ルトリッツを荒らすような真似はしないから安心していい」
 ライアネルはそこで気付いた。
 竜二匹がルトリッツで争う。ということは、そのうちの一頭は。
「……そのうちの一頭は、お前の弟か」
「ご名答」
 リーンは頷いてみせる。
「なんでまたそんな決闘なんかを……」
「簡単に言うと、弟の留守中に、ルサカが他の竜に攫われそうになった」
 途端にライアネルの表情は強張る。
「……まあ、最後まで話を聞いてから、怒り出してくれ。ルサカはうまく逃げ出して攫われずに済んだが、その竜はルサカを諦めない。これから何度でもルサカを奪おうとするだろうな。……竜は一度欲しいと思った綺麗なものを、なかなか諦めないんだよ。執念深いともいうね」
 ライアネルはありありと、本当に畜生だな、という顔をしている。
 そう思われても仕方ない、とはリーンも思っている。ものの考え方も常識も違いすぎる。
 人間の価値観を竜が理解し難いように、人間も竜の価値観を理解し難いのは当然の事だ。
「竜には法もないし、人間のように騎士団の警備も仲裁もない。……そうなると、最もシンプルな方法を採るしかない。人間も動物も竜も、最後は同じさ。……力で決める」
 少しの間があった。
 リーンが続きを口にする前に、ライアネルが重い口を開く。
「……力で諦めさせると?」
「そういう事。法も騎士団もない竜でも、ルールはあるのさ。タキアが勝てば、もうその竜は二度とルサカに手を出せない。……タキアが負ければ、ルサカを引き渡すしかないけどな」
 ガタン、と派手に音を立ててライアネルが立ち上がる。
「なんだと思ってるんだ! ルサカは人間だ、物じゃない! ルサカの意思は無視するっていうのか!」
 ライアネルが怒り出すのは想定内だ。リーンは座るように促す。
「残念ながら、きれいごとを言っても通じない。……人間だってそうだろ? 国同士の争いでそんなきれいごとが通じるか? 結局、力があるものが奪う。それが全てじゃないか? ……ルサカは物じゃない、だから意思を尊重する、と言ったところで、相手の竜が納得しないわけだ。その場合、ルサカはいつ攫われるかずっと怯えながら暮らすしかないな。そうやって、いつ襲われるか分からない、自由がない状態で暮らして、ルサカは幸せなのか?」
 ライアネルはぐっと詰まる。
「ルサカを仮にお前に返したとしよう。お前はその竜から、ルサカを守りきれるのか? 他の竜だけじゃない。竜の番人を狙う人間からも。お前よりも遥かに長い命を持つルサカを、どうやって守るんだ?」
 その通りだ。
 ルサカを取り返しても、人の世で一緒に暮らしていくのは不可能だと分かっている。
 長い命を持ち、美貌と不老を持つ。そのルサカを守り続けるのは、限りある命しか持たないライアネルには不可能な事だ。
 改めて突きつけられ、はっきりと思い知らされる。
 どんなきれいごとを言っても、それは理想論だ。叶わない事だ。
 ライアネルは大きく息を吐く。
 こんなに力なく項垂れるライアネルを見るのは、リーンも初めてだった。
 全く胸が痛まないわけではない。けれど、そろそろ現実を突きつけるべきだとも思っていた。
「タキアはルサカの自由を守る為に戦う。……ルサカも不本意ながら、タキアが自分の為に命を懸けて戦うなら、腹をくくるしかないと考えているようだ。……ルサカも逃げ回るくらいなら決着をつけたいんだろうな。ルサカは子供だけど、その辺の大人より肝が据わってる」
 あのルサカが。
 呆然とライアネルは聞いていた。
「タキアにばかり頼らず、自分でも一矢報いようと色々企んでるな。ルサカは可愛い顔して意外と短気だし」
 ライアネルがよく知るルサカは、人と争う事が苦手で、物静かな少年だった。
 人見知りで、人の視線が苦手で、家と市場の往復をするだけ。
 ライアネルはそれを止めなかった。変えようともしなかった。
 もう少し大人になってからでも。そんな風に甘やかしていた事を自覚もしていた。
 親を失って途方にくれる幼いルサカが、痛ましく、儚げで、頼りなげで、守りたいと思っていたからかもしれない。
 ルサカが何より大切だったのは、事実だ。
「タキアが自分の為に身体を張るなら、ルサカもそれに応えようって事なんだろうな。……しっかりしてるな。いっそ潔い。……ルサカをそう育てたのは、ライアネル。お前だよ」
 ライアネルは項垂れたまま、言葉をなくしていた。
 こんな呆然としたライアネルも悪くない。無防備な時こそ、人間の本性が垣間見られるからな。
 ライアネルがこんなに打ち拉がれたところなんて、なかなか見られない。
 そんな事を考えながらリーンはそのライアネルを見つめる。
「……なあ、ライアネル」
 その項垂れたライアネルに呼びかける。
「なぜ、俺がこの話をお前にしたと思う?」
 いつかルサカに見せたようなあのいい笑顔を、リーンはライアネルに向ける。



「明日の午後、兄さんの立ち会いで決着をつけることになった」
 いつものように居間の寝椅子に座ってヨルを抱いていたタキアが唐突にそんな事を言い出す。
 あまりに突然、前触れもなく言われて、そのタキアが座る寝椅子の足元の絨毯に座って魔術書を捲っていたルサカは、うっかり聞き流すところだった。
「……なんだか急じゃないか!」
「だってほら……竜は言葉じゃないものでやりとりするから……」
 そういえばそうだった。
 タキアが朝からヨルを抱いたまま寝椅子に座ったり転がったり落ち着かなかったのは、そういう事か。
「暴れてルトリッツを荒らすわけにいかないから、兄さんが場所を作ってくれると言っていた。……僕らみたいな若輩者同士だと、争っていたらそこまで気がまわらないからね。兄さんが立ち会うついでに場所を作って、ルトリッツに被害を出さないようにしてくれると助かる。……町や村や森を焼き払わないで住むからね」
 リーンもレオーネのように、架空の場所のようなものを作れるのか、とルサカは密かに感心する。
 あまりにふわふわして見えるせいで、リーンの正体は本当に掴めない。
 ただ、ちゃらちゃらしているように見えて、実際は切れ者だという事はルサカにも分かっている。
 時折見せる鋭さは伊達じゃない。
 大抵はふしだらなお兄さんで、ついそれに騙されている。
「……明日か。ぼくも腹をくくらないとな」
 ルサカは膝を抱えて真剣に呟く。
 タキアを信じたいが勝負なんて水物だ。明日の夜もタキアといられるとは限らない。
 覚悟を決めていても、怖いものは怖い。それを見せないようにするので精一杯だった。
「ルサカ」
 タキアは抱いていたヨルを絨毯の上に降ろす。そのまま、足元のルサカの髪に手を伸ばして、指に絡める。
「ルサカは怒り出すかと思ってたよ。……まあ、怒ってるけど、違う意味で」
 ルサカは本のページを開いたまま、大人しく髪を撫でられていた。
「何を?」
「ルサカを賭けて決闘する事。……ぼくの意思は無視か! って怒り出すかと思った。……詰らないのかなって思ってる」
 ルサカは読みさしの本を閉じて、所在なげに両足を投げ出す。
「……まあ不本意だけど、どうせクアスは諦めないでまた攫いに来るんだろ。竜のルールにのっとって、勝負しない限り」
 投げ出した爪先にヨルがじゃれつく。ヨルをからかうように爪先を揺らしながら、ルサカは咽喉を反らせてタキアを見上げる。
「逃げ回るのは性に合わないし、現実的じゃない。……だったらはっきりさせてもらった方がいいし。タキアがぼくの為に戦うというなら、ぼくも腹をくくらなきゃね。逆にタキアに申し訳ない気がしてるよ。……ぼくのせいでケガするかもしれないのに。命に関るようなケガを負うかもしれないのに」
 タキアは少し考えて、それから寝椅子を降りる。ルサカの隣に座って、ルサカの少し冷たい指先に触れ、握り締める。
「竜なら生きてる間に何度かある事だよ。……絶対勝つから。ルサカをどこにも行かせないから」
「そうだね。タキアを信じておこう。……ただ、ぼくも力が欲しかったなと思うよ」
 繋いだタキアの手は温かかった。
 この綺麗な、しなやかな指は、いつもルサカに優しく触れる。
「タキアはぼくの為に傷付いてばかりじゃないか」
 力が欲しいと、初めてルサカは心から願った。
 争う事が苦手で、騎士にもなりたいとも思わなかった。ライアネルを失望させてしまっても、どうしても強さが欲しいと思えなかった。
 それなのに今、こうして、タキアの力になりたいと願う。
 タキアを守る盾になりたいと、心から願う。
 竜騎士になれる未来があった。今、初めて、その未来が欲しい、そう強く願わずにいられなかった。
 自分の事なんかより、タキアが大切なんだ。その時初めてルサカは気付く。
 自分がどうなるかなんて事よりも、明日、タキアが傷つくかもしれない事が怖いのだと、今、はっきりと分かる。
 ルサカの指を握るタキアの手に、力が篭もる。
「ルサカの為じゃないよ。……僕自身の為だ。ルサカは僕の……一番大切な宝物だ。だから守り通す。絶対に」
 並んだタキアの肩口に、手を繋いだまま、ルサカはもたれ掛かる。
「タキア、大好きだよ」
「これが最後の夜みたいなこと、言わないでよ。ルサカ」
 タキアは小さく笑う。
「……いつも言ってる事じゃないか。これが最後の夜なら、ぼくはもっと違う事を言うよ」
 ルサカも釣られて笑う。
「ぼくが言いたかった言葉は、明日の夜、言おうかな。約束しておく」
「それは絶対勝たなきゃね。……ルサカのその言いたかった言葉を聞きたい」
 タキアのあの、綺麗な、不思議なすみれ色の瞳が目の前にある。
 タキアの唇が柔らかに、ルサカの唇に触れた。
 今まで何度も触れて貪りあった唇なのに、まるで初めて触れたように、甘く切なく思える。
 初めてタキアに好きだと告げた夜も、そんなキスをした事を、ルサカは静かに思い返す。
 あの時も、とても綺麗な月明かりの夜だった。
 明日の夜、必ず、告げよう。
 この、泣きたくなるほど胸を締め付ける切なさに、名前を与えよう。


2016/04/14 up

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