「おっはっよー、ルサカ」
耳に優しく響くこの鈴の音のような美声は。
「……エルーさん……おはようございます……」
この、顔にむっちりと押し当てられているのは、あれだ。柔らかくて気持ちいいけれど、ものすごい重量感となまめかしい質感がある。
残念だけどこればかりはタキアにも自分にもついていない。ないけれど、このむちむちとした柔らかさはすごくいいものだな、すごく好きだ。と素直に思える。
タキアのベッドの隅で丸まって寝ていたルサカに、エルーは堂々と跨がって押しつぶしそうな体勢で、伸し掛かっていた。
ちょうど、ルサカの頭を胸に抱く体勢。
「……なんだ、ちゃんと服着てるのね」
ルサカが包まっていた毛布を引き剥がして無理矢理起こす。
本当に竜はおおらかすぎる。未成年とはいえ、れっきとした男になんてものを押し付けるんだ。
「ふぁ……タキアは?」
こんな日が高くなるまで眠り続けるなんて、これは絶対タキアに眠らされてたんだな、とルサカはあくびを噛み殺しながら考える。
夕べタキアにしがみついたまま、なかなか寝付けなかった。
「さっき見かけた時は、タキアは巣の天辺で、『竜の巣』を眺めてたよ。リーンが朝作っていったやつ」
ルサカはベッドから這い出して、大きなあくびをした。
「……『竜の巣』……?」
「すごく大きい雷雲の事よ。それをみんな、『竜の巣』って呼んでるの。……今日の会場ね」
まだ眠たげなルサカの手をひいて、エルーはルサカの部屋に向かう。
「エルーさんも来てたんですね……。リーンさんだけかと思ってた」
眦を擦りながら、更にあくびを漏らす。タキアはえらく強めに魔法をかけた。おかげでルサカはまだ目が覚めきらない。
「弟の初戦だから見守らないとね。あと、私はルサカの付き添い兼護衛」
主に後者の為に来たのだというのは、ルサカにだって分かる。ルサカが取り乱したり無茶をしないよう、押さえ込むために、エルーを呼んだのだろう。
「……着替えなら大丈夫ですよ、エルーさん。子供じゃないんだし、ひとりで……」
「タキアの宝物をめいっぱい飾り立ててキラキラにしようと思ってるの」
冗談なのか本気なのか、リーン以上にエルーは気楽で楽しそうだ。
どうしてそんなにのん気でいられるのかと、ルサカは呆気にとられていた。
「タキアに何かあったらと思うと……ぼくは自分の事なんかより、そっちが心配でいてもたってもいられないです……。エルーさんは心配にならないんですか?」
思わず本音を漏らしてしまう。
この、エルーの優しい手に、母性に、甘えたくなってしまったのかもしれない。
くすっ、とエルーの忍び笑いが聞こえた。
手を引いて前を歩いていたエルーが振り返る。
タキアに良く似たその美しい顔は、笑みを浮かべていた。その妖しい美しさに、ルサカは一瞬、息が止まる。
その、笑みの形に綻んでいた唇が、柔らかに動き、囁く。
「……タキアを誰の弟だと思ってるの?」
冗談じゃなかった。
エルーは本気だった。
紅までさされそうになったがそれは全力で抵抗して阻止した。服だけは、断りきれずにエルーの言いなりに着てしまった。
「……これはね、私たち兄弟が生まれ育った、西の砂漠のある国の衣装なの。……綺麗でしょ」
金糸銀糸を織り込んだなめらかな紗と絹を重ねた、ルサカが見た事もないような、エキゾチックな衣装だった。
レシェが着ていた服も、これに少し似ていた。
あの異国の衣装はレシェの儚げな美しさをとても強調していた事をルサカは思い出す。
「向こうも立ち会いの身内を連れてくるんだから、ルサカを綺麗に飾っておかないと、私たちの沽券に関るの。こんな綺麗な宝物を絶対に渡さないっていう、意思表示でもあるかな」
エルーはルサカの腕に瑪瑙の腕輪を付けながら、説明する。更に、瑪瑙の腕輪のすぐ上に、細かい細工を施された金の腕輪もつける。
あまりに貴金属をつけられ飾られすぎて、なんだか身体が重い。
「そんなに立会人がたくさんいるものなんだ……」
人間の騎士の決闘みたいだ。
ルトリッツでもごく稀ではあるが、決闘が行われる事があった。
そういう時は騎士団も色々警備や法的な問題があるのか、ライアネルも駆り出されて忙しそうだった記憶がある。
「ボッコボコにされた身内を回収するために付いて来てるのよ、みんな。連れて帰るためね。たまに立会人なしでやると、負けた方が身動きできずに数日置き去りになっちゃう事もあるわ」
本当に野生動物と一緒だ。そこまでやるのか、と思わずルサカは青ざめる。
「そうなったらだいたい勝った方が、負けた方を回収していくけどね。ちゃんと手当てして帰らせるよ。……私たちもそこまで野蛮じゃないわ」
むしろ人間の方が野蛮だ。
人間の決闘は相手の息の根を止めるまでやるのが普通だ。
それに比べたら、竜の方が余程、まともじゃないか。
「……うん。すごく綺麗。これならとっても自慢できる宝物だわ」
心行くまで飾り立てたのか、エルーは満足気にルサカを眺める。
なんだかルサカはものすごく恥ずかしくなっていた。
こんな女の子みたいにゴテゴテ飾った事なんてなかった。綺麗だと言われても落ち着かない。そもそもエルーは鏡を見せてくれない。
多分、見せたら、恥ずかしいから嫌だ、脱ぐ! とルサカが言い出すからだろう。
「タキアに見せに行っておいで。きっとすごく喜ぶから」
エルーに背中を押されて、ルサカは歩き出す。
歩くたびに紗と絹と飾られた宝飾品が、鈴の音のようにしゃらしゃらと鳴った。
古城の巣の天辺の階段を登りきると、タキアは『本物の竜の巣』に立って、空の上の巨大な雷雲を眺めていた。
何かの生き物のように渦巻く白い雷雲と、その雷雲の中を無尽に駆け巡る稲妻。こんな巨大な雷雲を、ルサカは見た事が無かった。
この美しくも恐ろしい生き物のような雷雲を、『竜の巣』、と呼ぶ事を、ルサカは今日はじめて知った。
その巨大な竜の巣の下で風に吹かれながら空を見上げるタキアの端正な横顔は、とても美しかった。
その横顔はこんなに大人びていたかな、とルサカは思う。
見慣れたタキアが、切ないくらいに綺麗に、大人びてルサカの目に映った。
「……タキア」
思わず声をかける。
振り向いたタキアは、いつものように、あの無邪気で天真爛漫な笑顔を見せる。
「ルサカ、すごく綺麗だ。似合ってるよ」
両手を伸ばして、ルサカを抱きしめる。
「いつも絶対こんな服、着てくれないもんね。……こうしてルサカが着飾ってくれるなら、たまには決闘もいいかな」
「こんな争い事なんか、こりごりだよ。……そう何度もあってたまるか」
綺麗に着飾っていても、中身はいつものルサカだ。思わずタキアも笑ってしまう。
ふたり手を繋いで、嵐をはらんだ雷雲を見上げる。
「そういえばリーンさんは?」
「『竜の巣』を作ってから暫くはいたんだけど……ちょっと出かけるっていって出て行った。時間までには戻るからって」
「またライアネル様のところかな。……本当にリーンさんは諦めないね」
「兄さんがあんなに執着するの、見たことなかったよ。……自分の番人にだってそこまで執着してないようにみえるのにね」
リーンが執着するのは魔眼の強さの魅力なのか、ライアネル自身になのか、どちらもなのか、ルサカには分からない。
あの何にも縛られないリーンがそこまで惚れ込むのだから、ただ事ではない。それだけは理解出来る。
階段を上るエルーの足音が聞こえる。
タキアは素早くかがんでルサカに口付けると、繋いでいた手を離した。
「タキア、そろそろ着くみたいよ。……リーンはまだなのかしら。またヴァンダイク卿のところかなあ、もうこんなに暇さえあれば入り浸って、よっぽど諦めきれないのね」
見上げていた雷雲の影から、エメラルド色の影がひとつ、見えた。
宝石のようになめらかで美しいエメラルドの風竜の背中から、クアスが滑り降りた。
「一応、礼儀だから挨拶しておく。……タキア殿、このような場を設けて頂き、感謝する」
本当に一応だ。口ぶりは全く感謝していそうにないし、露骨に嫌々、渋々、という風情だ。
クアスは大人びた綺麗な顔立ちだけれど、中身は子供っぽく思える。
クアスを降ろしたウィンドドラゴンは、静かに風を纏いながら変化を始める。その風は穏やかな、花びらを含んだ春の風のように柔らかに見えた。
その柔らかな風が勢いを増し、旋風になり、エメラルドの身体を包み込む。
その小さな嵐が収まって佇んでいたのは、クアスに良く似た、金糸のような長い髪と美しい緑の瞳の、可憐な娘だった。
「ルサカ、とても綺麗だ。……絶対に今日は連れて帰るから。大事にするから、必ず一緒に帰ろう」
そんな事を口走ったクアスの背中を、その美しい娘は思い切りひっぱたく。
そのひっぱたいた手を軽く振ってから、可憐な娘はタキアに向き直る。
「この度は不肖の息子が、大変ご迷惑をお掛け致しました。……このような暴挙に出た事を、私からもお詫び申し上げます」
不肖の息子。
クアスを連れて来た立会人は、まさかのクアスの母親だった。
これは予想していなかった。タキアもエルーもルサカも、驚きを隠せない。
「息子の無礼にも関らず、このような場を設けて頂けた事、感謝致します」
息子はこんな礼儀知らずなのに、その母親はとても礼儀正しい。
こんな、エルーと変わらないくらいに見える若く可憐な女性が、クアスの母親だと? 一瞬ルサカは混乱したが、エルーだって若く可憐に見えるだけで、考えてみたら五百年くらい生きている。
このクアスの母親だってそれだけ生きていたら、こんな大きな息子がいても不思議はなかった。
運よく早くに子供が出来れば、五十歳や百歳の息子がいたっておかしくはない。
「たった一人の息子なので、甘やかしすぎました。……本当に申し訳ございません。ご迷惑をお掛け致しますが、どうぞご遠慮なく、厳しくしてやって下さい。何があっても息子の責任だと思っております」
「だから母さんを連れてきたくなかったんだ! 余計な事ばかり言って!」
怒り出したクアスは膨れてそっぽを向く。
タキア以上に幼いというか幼稚というか子供っぽいというか。だからこその無謀さなのか。
「僕に兄弟もいないししょうがないから母さんを連れて来たのに。……さっさと済ませようよ。……もうこれ以上待っていられない」
もうクアスは苛々と殺気立っている。
こういうのを若気の至りというんじゃないか、とたった十四年しか生きていないルサカに思われていると、クアスは多分気付いていない。
「まだあの『竜の巣』の管理者の兄が来ていないの。すぐ帰るって言ってたんだけど……ああ、帰ってきたみたい」
空の彼方を見つめていたエルーが、リーンの姿を見つけたようだった。
確かに紅く巨大な何かの影が近付いてくる。
ルサカはリーンの竜化した姿を見た事がなかった。
これが初めてだ。
タキアの紅く輝く鱗よりも、更に深い紅だった。その深紅の鱗から、白い焔が巻き上がっている。
タキアよりも更に大きな体躯に、巨大な翼。焔に覆われた長く太い尾は、ふたつ。
これが千年生きた強き竜の姿。
あまりの神々しさと、そして禍々しいほどの美しさに、ルサカは言葉を失っていた。
リーンは音も無く静かに、古城の巣に舞い降りた。
ルサカはその姿をただ呆然と見つめる。
最初に気付いたのは、エルーだった。
「……まさか。……リーン。まさか、迎えに行っていたの?」
リーンの背に乗った人影は、騎士の正装をしていた。
よく知るその人物の姿に、ルサカは言葉も無く立ち尽くす。
「俺も立ち会う事になった。……俺の事は気にしないでいい、単なる付き添いだ」
驚くほどライアネルは冷静だった。
ルサカやタキアたちが知らなかっただけで、リーンはとっくにライアネルを連れてくるつもりで話をつけていたのだろう。
まさか竜騎士になっていたのか、と一瞬ルサカは思ったが、そんな気配はなかった。
ライアネルは、ルサカがよく知るライアネルのままだった。
「……ルサカのかわりに俺が竜の巣での立ち会いを行う」
ルサカのかわり。
その時ルサカはやっと理解した。
ルサカを、あの竜の巣へ連れて行く気はないという事だ。
「……当事者のぼくが行けないのはおかしいじゃないか!」
思わずルサカは叫ぶ。
「ぼくにこそ、見届ける権利があるはずだ!」
思わずリーンに掴みかかろうとするルサカを、タキアが素早く抱き止める。
「……万が一竜の魔法を受けたら、ルサカは死んでしまうよ。だから連れて行けない」
「だって、それなら生身のライアネル様だって」
「ヴァンダイク卿はただの人間じゃない。……魔眼の騎士だ。だから竜の魔法も人の魔法も効かない。竜が魔眼の騎士を傷つけるには、爪と牙で引き裂くしかない」
ルサカは呆然と立ち竦む。
タキアもまさかリーンがライアネルを連れてくるとは思ってもみなかった。
ルサカから手を離し、タキアはライアネルを見上げる。
「ヴァンダイク卿。僕が何を言っても、あなたを納得させる事は出来ないし、あなたが僕を許せない事も、よくわかっています。けれど……今日、あなたに立ち会って頂ける事を深く感謝致します。……僕はあなたに誠意を示すチャンスを与えられたと思っています」
タキアのしなやかな指先から、青白い焔がゆらゆらと立ち昇る。
その焔は瞬く間にタキアを包む業火となり、火柱を吹き上げる。
その焔の隙間から、紅く輝く鱗がのぞく。
竜へと変化を遂げたタキアは、空を見上げ一声吼えると、空高く舞い上がった。
「……タキア!」
思わず駆け出そうとするルサカを、エルーは素早く捕らえた。
同じように竜へと変化を遂げたクアスも舞い上がり、飛び立つ。
ライアネルはリーンの背から、ルサカを見つめる。何か言いかけて一瞬迷ったが、無言のまま、リーンを促す。
深紅の翼を広げ、ライアネルを乗せたリーンが飛び立った。
巨大な雷雲へ吸い込まれるように消えていく竜の影を、ルサカは祈るような気持ちで見送る。