「ノーマリィはもう立派なレディだからね。……レディは異性と一緒に寝ちゃだめ」
そうルサカに説明されて、ノーマリィは頷く。
とても寂しいけれど、ルサカがそう言うなら、そうなのだろう。
足下でじゃれていたヨルを抱き上げて、タキアとルサカを見上げる。
「……ヨルは? ……ヨルと一緒に寝るのはいい?」
ルサカは頷いて、ノーマリィの腕の中のヨルを撫でる。
「ヨル、ノーマリィを守ってあげて。……怖い夢も、悪い夢も寄せ付けちゃだめだよ」
ヨルは分かっているとでも言わんばかりに、小さくきゅうん、と鳴き声を上げた。
「ねえ」
ノーマリィはふと思いついて口を開く。
「ルサカとタキアは一緒に寝るの?」
一瞬、沈黙があった。暫く押し黙っていたルサカの頬が、みるみるうちに真っ赤に染まる。
「な、……寝ないよ。あれはノーマリィがみんなで一緒に寝たいっていうから……!」
むきになって否定していて、ノーマリィは内心、余計な事を聞いてしまったな、と思っていた。
ルサカとタキアが一緒に寝るなら、時々はノーマリィも混ざりたい。まだまだ甘えたい盛りだ。ほんのちょっとだけ、甘えたいと伝えるつもりだった。
「大丈夫だよ、ノーマリィだけ仲間外れにしないよ。……そもそもルサカはノーマリィが来るまでは、だいたい一人で寝てたしね」
タキアは何がおかしかったのか、くすくす笑っている。
「なんだよタキア。なんでそんな笑うんだよ」
「だって……もう何年もルサカとそんな事してないなって。……子育てを始めると、本当にそんな気がなくなるんだなって実感してるんだよ。……ルサカもそうだよね?」
「ノーマリィの前で変なこと言うな!」
ルサカはますます顔を赤く染めているが、タキアはまだ楽しそうに笑っている。笑いながら、ノーマリィの髪を撫でる。
「ルサカが拗ねちゃった。……僕は機嫌を取らないといけないから、ヨルと遊んでおいで」
本当に、二人は仲良しだ。
ノーマリィはじゃれ合っているようにしか見えない二人を置いて、ヨルを抱いたまま書庫に向かう。
なんとなく、色々分かってきている。
いつだったか、真夜中に目が覚めて、窓から城の天辺に掛かる月を見上げた事があった。
ルサカやタキアが『本物の竜の巣』と呼ぶ古城の天辺に、竜の姿のままタキアが蹲っていた事があった。
あまりに疲れている時は、タキアは人の姿になれない。それはノーマリィも知っていた。
その仄白い月明かりの下に蹲るタキアの鼻先を抱いて、寄り添うルサカの姿が白く浮かび上がる。
いつも纏っている青白い焔の代わりに、柔らかな月明かりがその深紅に煌めく鱗を照らしていた。
その、タキアの鼻先を両手で抱いて、ルサカは何かを囁いているようだった。
それはとても美しく、何故か胸が張り裂けそうなくらいに、切なく思えた。
彼らがどれほど深く思い合っているのか、誰も割り込めない絆があるのか、あの姿を見れば痛いくらいに伝わる。
ルサカは意外と厳しい。
ノーマリィを甘やかしているようで、教育は怠らない。
家の手伝いを通して家事をしっかり教えているし、将来的に仕事にもなりえそうな事も教えてくれる。
「ノーマリィはすごくセンスもいいし、手先も器用だから、刺繍仕事をするのもいいかもなあ。……裁縫は好きだよね」
仕上がったテーブルクロスの刺繍を褒められて、ノーマリィは嬉しさのあまりにほんのりと頬を染める。
「うん。ものを作るのはすごく楽しい」
こくこく頷く。
「ぼくの亡くなった両親も、仕立屋で働いていたんだ。……うちには珊瑚さんしか来ないからピンとこないかもしれないけど、珊瑚さんも仕立屋さんから預かって持ってきているんだよ」
時折こうして、世の中の仕組みも説明してくれる。
話に聞いたり本で読んだり。それだけでは恐らくは不十分だと言われてしまうかもしれないが、ルサカは人の世の説明をいつも丁寧に、分かりやすく話そうとしてくれている。
「いつか、ノーマリィに街のお店や市場を見せてあげるからね。……ぼくも市場が大好きだったな。地方やよその国の珍しいものが売られているのを見るのは楽しかった」
ルサカが人の世の話をする時は、大抵過去形だ。
かつて見た、かつて経験した。
ノーマリィがこの古城の竜の巣にやって来て七年が過ぎたが、思えば三人でどこかに出掛けたのなんて、数回だ。
それも他の竜の巣や、無人島。
人間がたくさんいるところなんて、行った事がなかった。
「……さて、そろそろパイが焼き上がったかな。ノーマリィが作ったパイでお茶だなんて言ったら、タキアはすっごく喜ぶだろうなあ」
ルサカは丁寧に、テーブルの上に散らばった裁縫道具を片付け始める。
「ちょっとパイの焼き加減を見てくるから、ここの片付けを頼むよ。……すぐ戻ってくるから」
厨房に向かうルサカの背中を見送って、ノーマリィは椅子から立ち上がる。
今日は朝からなんだかお腹が痛かった。
ずきずき痛むような痛みではない。じわじわと、神経に触れるような、今まで経験した事がないような、おかしな痛みだった。
すごく痛い訳ではないし、すぐに良くなるだろうと思っていたが、なんだかだんだん痛みが強くなっているような気がする。
ルサカにお腹が痛い事を伝えた方がいいだろうか、とそんな事を考えていると、居間の扉が開いた。
「ただいまー。……あれ、ルサカは一緒じゃない?」
ひょっこりと顔を出したタキアは、果物が詰まった籠を持っていた。多分、どこかの街の貢ぎ物だ。
「ものすごくたくさん果物を貰ったから、運ぶのを手伝って貰おうかと思ったんだけど」
「おかえりなさい、タキア。今日は早かったんだ。……ルサカは今、パイの焼き加減を見に……」
その籠を受け取ろうとノーマリィは数歩、タキアに向かって歩き出した。
嫌な感触が腿を伝った。なんだか濡れた嫌な感触で、ノーマリィは足下に視線を落とす。
ノーマリィより先に、タキアが気付いた。
「ノーマリィ、どうした。怪我をしたのか?!」
ノーマリィのスカートの中からしたたり落ちた鮮血に、タキアは蒼白になった。ノーマルィを抱き上げ、ルサカを呼ぶ。
「ルサカ! ルサカ!!」
どこも怪我をしていない。それなのに伝い落ちた鮮血に、ノーマリィも訳が分からなかった。
腹痛は強くなる。
まさか、恐ろしい病気なのか。突然の出血に、ノーマリィもタキアもひどく混乱した。
二人の騒ぎに気付いて居間に駆け込んできたルサカは、ノーマリィの細い足首を濡らす血を見て、すぐに察したようだった。
「ノーマリィ、タキア。大丈夫だから。泣かないで。……大丈夫だ」
タキアからノーマリィを抱き受けて、抱きしめる。
ノーマリィは泣きそうだった。もしもこれが恐ろしい病なら、ルサカに移してしまうかもしれない。
「私に触ったら、ルサカも病気になっちゃう。……朝からお腹が痛かったの。ごめんなさい、黙ってて。すぐに良くなると思って。ごめんなさい、ごめんなさい……」
ノーマリィは涙声になっていた。もしもまた自分が恐ろしい病に冒されていたなら、ルサカにも累が及ぶかもしれない。
ルサカを病気にしてしまったら、と思うと不安でしかたなかった。
ルサカはその震えるノーマリィをぎゅっと抱きしめる。
いつの間にか、もうノーマリィは小さな子供ではなくなっていた。
もう、抱きしめるルサカとそう背丈は変わらない。もう少しで、追いつき、追い越してしまいそうだった。
それを今更、強く思い知らされる。
「大丈夫だ、ノーマリィ。これは怪我でも病気でもない。……タキア」
タキアを振り返り、ルサカは重い口を開く。
「エルーさんを呼んで貰えるかな。出来るだけ急いで。……ごめんね、ノーマリィ。大丈夫だよ。病気じゃない。ごめんね。ぼくたちが悪かった……。怖い思いをさせたね。不安にさせたね」
抱きしめるルサカの声も泣きそうに聞こえたのは、ノーマリィの気のせいではなかったはずだ。
今にして思えば、あの時、ルサカは別れを決めたのだろう。
ノーマリィと彼らの間に流れる時間が違いすぎた。いつまでもノーマリィが子供ではいられないと、あの時ルサカもタキアも悟ったのかもしれない。
だから引き延ばしていた別れを、あの時にルサカは決断した。
あの日からすぐに、ルトリッツのヴァンダイク家に預けられる話し合いが行われたのは、ノーマリィも気付いていた。
竜の巣で過ごす最後の朝を迎えた日、ルサカは久し振りにノーマリィの髪を梳り、結んでくれた。
ここ一年ちょっとは自分で結んでいたが、あの朝、最後に結わせて欲しいとルサカに言われて、久し振りに梳って貰った。
この竜の巣に来たばかりの頃は、ルサカの膝に乗って絵本を読んで貰ったり髪を結んで貰ったりしていたのに、気付けば、いつの間にかルサカの背に追いつきそうになっていた。
タキアもルサカも、はじめは兄妹のようだったのに、いつか、姉と弟みたいに、母と子みたいになっていくだろう。そんな風に、同じ時間を渡っていけなくなるこの現実を、悲しいと思わないと言ったら嘘になる。
「とても綺麗になったね、ノーマリィ。……お嫁に行かせるような気がしてきたよ」
そんな風に笑い声で言ったルサカは、鏡に映るその泣きそうな顔をノーマリィに気付かれていないと思っているに違いない。
今、タキアやルサカと一緒にいたら、兄と姉と、弟のようにみえるのかもしれない。
そんな事を考えながら、ノーマリィは座っていた長椅子から立ち上がり、ヴァンダイク家のフロントポーチから空を見上げる。
雲一つ無く澄み渡った、抜けるような青空だった。
きっと、今日のガーデンパーティはこの爽やかな初夏の風に吹かれて、心地よく過ごせる。
「ノーマリィ」
名を呼ばれ、振り返る。
「いい天気に恵まれたね。……これはきみの父上たちの贈り物かな。竜は天候を自在に操れるれるしな」
この金色の髪に深い翠の瞳を持つ、少し年の離れたヴァンダイク家の現当主である花婿は、いかつい見た目とは裏腹に、とても優しく穏やかな人だった。
この優しい目をした人に初めて出会った日から、あっという間に月日が流れた。
ルサカが彼の養父とこの屋敷で過ごしたように、その日々は幸せに満ちたものだった。
「信頼されてきみを預けられたのに、こんな事になって、怒らせてしまうんじゃないかと思っていたよ」
白い絹の手袋に包まれたノーマリィの手を取り、微笑む。
この笑顔が、何より大切になった。それを今、強く実感していた。
「……ルサカもタキアも、こうなるって知っていたんじゃないかと思っています。……大丈夫。人でも、竜でも、祝福してくれるはずです」
「そうだね」
純白のベールを抱いたノーマリィの手を引いて、フロントポーチへ足を踏み出す。
「……リーン様?」
二つ尾の竜の名を与えられた花婿は、子供のように無邪気に笑う。
「会わせたい人たちがいるんだ。……約束したんだろう? 必ず二人で、お祝いに駆けつけるからって、そう約束したと言っていたよ」
その言葉に、胸が張り裂けそうなくらいに切なくなる。
もう二度と会えないと思っていた。
フロントポーチに踏み出すと、爽やかな初夏の風に、純白のドレスとベールが翻る。
「……ノーマリィ!」
名前を呼ぶ懐かしい声が聞こえる。
同じ時間を生きていけないと、分かっていた。知っていた。
だからもう二度と会えないと思っていた。
番人は、人の世では生きていけない。
それはこのヴァンダイク家に来て、すぐに知った事だった。ルサカは人の世で生きていけない。
一生を竜の巣で過ごすのだと、長い月日をタキアと二人、寄り添い支え合いながら生きていくのだと、その時にはっきりと、知らされた。
彼らは本当に、約束を守ってくれた。
同じ時を生きていけない事なんて、些細な事だ。
彼らを愛し、愛されたこの記憶は、何よりも大切な宝物で、それはノーマリィが生きていく限り、その胸の内から消える事はない。
涙が溢れ出す。
瞬きのような時間を共に過ごしただけかもしれない。彼らを愛し愛されたこの記憶が、無くなる事なんて絶対にない。
「……タキア、ルサカ!」
夢中で駆け出す。
この胸の内にある気持ちを、一生、抱いて、生きていく。