薄氷異聞

#02 天の花、地の花 後編

 黒い森は昼でも仄暗く、時間の移り変わり分かりにくい。
 それでも毎朝、リリアは同じ時間に目を覚まし、厨房に立つ。レオーネの為に、毎朝パンを焼き、朝食を作る。
 この黒い森の、薄氷に覆われた屋敷に来て、ちょうど二週間だ。リリアは指折り数え、それから調理を始める。
 ボウルにライ麦粉と小麦粉を入れ、椅子に座った膝に載せ、しっかりと捏ねる。
 足が不自由なリリアが立ったまま家事をするのは難しい。椅子に座りながらになる。やはり普通の番人のように働く事は出来ない。それでもレオーネは嬉しそうに、ありがとう、といつも労ってくれる。
 レオーネの優美な横顔は、ほんの少し、主の竜に似ている。
 ヴィリもまた、目映いばかりの純白の長い髪に、こんな優しげな横顔をしていた。
 どんなに遠く離れても、主のその美しい顔を忘れた事はなかったが、今は思い出す事も減った。ふと思い出そうとすると、その横顔はレオーネになる。
 リリアはしっかりと捏ねたパン生地を両手で持って、伸ばし、再び捏ねる。
 ライ麦に少しのドライフルーツを混ぜたものが、レオーネの好物だ。入れすぎてはいけない。少し、が彼の好みだ。リリアが初めて作った時は、とても喜んでくれた。誰かが作ってくれた焼き立てなんて久し振りだと、目を細めて屈託なく笑っていた。 その笑みは歴戦の竜騎士とは思えないくらい、穏やかで優しく、そして、ほんの少し、悲しげに見える。

 この屋敷に住んでいるのはレオーネだけだった。
 初めてこの屋敷に入った時、レオーネは「掃除が行き届いていなくて申し訳ないけれど」と言っていた。
 ここには、いるべきはずの人たちがいない。
 竜と番人だ。
 レオーネは竜騎士だ。それは長く番人であったリリアなら瞬時に分かる。それなのに竜がいない。竜騎士と全てを共有し魂を分かち合うとも言われているのに、その肝心の竜が傍にいないのは、ありえない事でもある。
 最初は、竜と番人達はどこかへ出掛けているのかと思っていた。
 そう尋ねると、レオーネはまた穏やかな笑みを浮かべて、他には誰もいない、と答えた。
 それ以上を語ろうともしないので、リリアも聞こうとは思わなかった。
 レオーネもまた、リリアに何故娼館にいたのかも、主の事も尋ねようとしなかった。
 お互いがお互いの過去を触れられたくないのを察していた。
 リリアも分かっている。
 ヴィリは、リリアを迎えに来る気なんてなかった。
 きっと迎えに来てくれると思い続け信じ続けなければ、正気でいられなかった。自分を守り続ける事ができなかった。だからそう自分を騙していただけだ。
 無邪気で明るく陽気なヴィリは、玩具を捨てるように、リリアを捨てた。
 壊れた玩具を大切にする理由なんてないからだ。
 壊れたどころか、最初から欠陥品だった。それを気付かずに、大切な宝物にしていた。最初から欠陥品だった玩具を、竜の大切な財宝のひとつにしていたなんて、彼にとっては恥辱でもあったのかもしれない。
 もしもリリアが、ヴィリの子供を産めたなら、一生彼の大切な宝物でいられた。
 子供も産めない欠陥品の女なんて、どれほど見た目が美しくても、『竜の大切な宝物』にはなれないのだ。竜にとって完璧ではない財宝なんて存在しない。それはどんなに綺麗だろうとも、まがい物の財宝だ。
 美しいだけの欠陥品。リリアはもう彼の白い花ではなくなった。森に置き去りにされた時に、何も言われなくとも分かりきっていた事だ。置き去りにされたのではなかった。捨てられたのだ。
 ヴィリがリリアをもう一度愛すはずなんて、なかった。
 子供も作れない欠陥品の番人で、番人としての仕事も満足にできない不自由な身体になったリリアを、もう一度、ヴィリが愛すはずなんてない。
 そんな事は、誰よりもリリア自身がよく分かっていた事だ。
 それから目をそらし続けていただけだ。
 出会った頃のまま、無邪気で明るくて、優しいヴィリだと、信じていたかっただけだ。



 ここで暮らして二週間、初めての来客があった。
 リリアが朝食の片付けをしていると、玄関の呼び鈴が鳴り響いた。
「こんにちはー、ダーダネルス百貨店外商部の銀朱でーす」
 竜のいない竜騎士の屋敷にも、ダーダネルス百貨店は営業に来る。少々驚きつつもリリアは納得する。思えば竜騎士も人ではない。ダーダネルス百貨店の顧客は全て『人でないもの』だ。
 扉を開けると、大きな黒いスーツケースを持った、尖った耳と尻尾に、オレンジがかった銀朱色の髪の、髪色以外はよく見覚えのあるダーダネルス百貨店外商部員が、にこにこ笑顔で立っていた。
 ヴィリの巣に来ていた外商部員と、髪色以外の違いが見いだせない。
「いらっしゃいませ。……初めてお目にかかります、私はリリアと申します」
 リリアは丁寧に挨拶し、銀朱を客間に案内する。
「私は銀朱と申します。とうとうレオーネ様も人を置く気になられたんですね。……さすがにお一人でこの屋敷の維持は大変でしょうしね」
「銀朱さんは、もうずっとレオーネ様のご担当を?」
 勧められるままに銀朱は客間の椅子に座りながら、大変、人の良さそうな笑顔を見せる。
「そうですね」
 顧客情報は相手がその巣の番人でも、漏らさないのか。
 少々リリアは感心する。レオーネについて知っている事を、銀朱はなにひとつ、リリアに話すつもりはなさそうだった。
 そして、唐突にレオーネの屋敷に現れたリリアの事も、詮索しようとしない。あくまでビジネスライクに接してくる。
「……ああ、ありがとう、リリア。お茶の用意を頼んでいいかな。準備が出来たら私が運ぼう」
 遅れて客間に現れたレオーネは、リリアを労い、それから続ける。
「きみの身の回りの物や、衣類ももっと頼んでおかないとね。今あるものは、君が酷く弱っていたから適当に頼んでしまったんだよ。……お茶を淹れたら、好きな物を選ぶといい。普段の家事の報酬だから、気にせずちゃんと選らばなければだめだよ」



 綺麗な服や可愛らしい小物なんて、久し振りだ。もしかしたら、百年ぶりくらいかもしれない。
 娼館で身に付ける服は、およそ服と呼べないような、淫靡な布きれやいやらしい下着か、普段身体を冷やさない為に纏うだけの粗末な服だけだった。
 レオーネがいうところの『適当に選んだ』服だって、とても綺麗で素敵なものばかりだった。
 それよりも更に、華やかで豪華なものばかり、レオーネと銀朱は勧める。リリアがまごついているうちに、どんどんレオーネは決めて買ってしまう。
 銀朱が帰った後も、リリアはどうしたらいいのかオロオロしていたが、レオーネはてきぱきとリリアの部屋に、買った衣類や小物を運び込んでいた。
「あの、レオーネ様」
 杖をつきながら後に続いていたリリアは、勇気を出して口を開く。
「私は、足も不自由で、家事も他の番人のようにできません。ちゃんとした番人でもないです……」
 とても、欠陥品の番人であると言えなかった。散々に人間の男達に弄ばれた穢い身体だとも、言えなかった。娼館から助けられたのだ。レオーネは何もかも知っているだろうが、とても自分の口からは言えなかった。
 声が震える。
「私、行くところがありません。……帰る場所がありません。どうか、置いて頂けたらと思っております……」
 レオーネは衣類の詰まった箱を並べながら、振り返る。
「私は言ったはずだよ。もう誰にも君を傷付けさせないとね。……きみがここにいたくない、と言うなら話は別だけれど、私は君にここに居て貰えると助かるんだ」
 リリアが箪笥に衣類をしまいやすいように、椅子とテーブルを寄せ、運び込んだ箱を積んでいく。
「きみがいてくれて、家事をやってくれるなら本当にありがたい。別に完璧でなくてもいい。私ひとりではとてもじゃないが家事なんて無理だからね。それに……ここは竜の巣でもない、竜もいない、私も竜ではない。家事をやってくれるだけでいいよ」
 積み終わると、杖をつくリリアの手をとり、寝台に座らせる。
「……噂を聞いたんだ。ライラの街に、竜の番人だった娘がいると」
 リリアは自分が囚われていた娼館のある街の名前すら、知らなかった。身体を売るだけの道具に、そんな情報は必要なかった。誰もリリアを人として扱う事はなかった。
 街の名前を知っていたところで、何も変わらない。リリアは娼館の格子越しの窓から街並みを眺めるだけだった。改めて、そんな名前の街だったのかと考える。
「君に会えてよかった。……生きて、無事に救い出せて、よかった。……君は私に救われたと思っているかもしれないけれど、それは違うんだ」
 リリアの目の前で、あの夜明けの空の色をした竜眼が、静かに瞬く。
「きみが私を出口のない迷路から、救い出してくれたんだよ」
 返す言葉が浮かばなかった。
 リリアを見つめるこの清冽な蒼い瞳は、リリアを見つめていない。
 誰か、別の人をリリアの中に見出している。

 私は、もう一度誰かの白い花になれるのだろうか。

 ぼんやりと、リリアはその瞳を見上げながら考える。
 何故かとても悲しかった。言葉に出来ないほど、胸が苦しく、悲しく、やるせなかった。
 誰かの白い花になんて、もうなれなくてもいい。

 こんなにも深く傷付いた魂を持つ人を、少しでも癒やせたなら。
 一時でも、その苦痛を和らげる事ができるなら。

 何故かとても泣きたくなった。
 もしも世界に神様がいるなら、感謝したかった。

 この人に出会う為に、生かされていたんだ。生き続けていたのは、この人に巡り会う為だったのかもしれない。
 白い花である必要なんて、なかった。美しく完璧な竜の宝物である必要は、もうなかった。

 この人の癒やされない魂に、寄り添って生きていけるなら、それでいい。白い花になんてなれなくていい。
 少しでもこの人の癒やしになれるなら。



2017/04/22 up

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