薄氷異聞

#03 豊穣の竜 前編

「ノア! 捕まえてよー! もう! アルヴァったら手当させてくれない!」
 ノアが居間の扉を開けて廊下に出ようとした瞬間、アルヴァがものすごい勢いで駆けていくのが見えた。
「たいした事ないからいいって! クラリサにやって貰うとめっちゃ痛いししみるしさあ!」
 そのアルヴァを、長く優美な金髪を振り乱してクラリサが追いかける。全く追いつけていないが、竜と番人ならこんなものだ。竜にはどうやっても敵わない。
「……あああ! もう、なんで捕まえてくれないのよー!」
 追いつけないクラリサは、ノアの目の前で立ち止まって、はぁはぁと荒い息をつく。まさに鬼の形相だ。妖精のように可憐で儚げな、いつもの美貌が台無しだ。
「……だって、僕がアルヴァを捕まえられるはずがない」
「まあ、そうなんだけれど……」
 廊下の曲がり角から、ひょっこりとアルヴァが顔を出し、二人の様子を窺っているようだった。
「アルヴァ」
 息も絶え絶えなクラリサの肩を抱いて支えながら、アルヴァに呼びかける。
「また怪我をしたの? 怪我をしたなら、手当しなきゃ。……放っておいても治るだろうけど、傷口は清潔にしておいた方が治るのも早いよ」
「そうなんだけどさあ、クラリサはなんだか知らないがしみて痛いんだよな。乱暴だから?」
「もう、じゃあノア! ノアならいい?」
 手にしていた薬箱をノアに押し付けて、クラリサは怒鳴る。
 クラリサはアルヴァの初めての番人だ。長く連れ添ったせいか、今では見た目こそクラリサの方が年下だが、関係は姉と弟のようにも見える。
 アルヴァのわがままを許したり、甘やかしたり、叱ったり。母のような姉のような妻のような、全てを兼ね揃えた番人なのだろう。
 おかげで最近、アルヴァはクラリサに逆らいっぱなしだ。何をしても何を言っても、どんなに甘えても許されると思っている節がある。
「……アルヴァ、そんな風にクラリサを無碍にしてると、いつかクラリサに嫌われるよ」
 相変わらず曲がり角から近寄る気配もなく、アルヴァは肩をすくめてみせる。



「……まあ、クラリサに心配させたくないっていうかさあ。……ノアは男だから俺の気持ちも多少分かってくれるだろ。クラリサはあんな鬼婆みたいだけど、か弱い乙女だからな一応」
 ぷりぷり怒ったクラリサは、夕飯の支度をするから! と言い捨てて厨房に籠もってしまった。
 残されたノアは、そんな憎まれ口を叩いているアルヴァの手当を始める。
 クラリサが必死で追いかけていたのもよく分かる。アルヴァの背中にも肩にも、大きく切り裂かれた傷があった。来ていた絹のシャツも、血に塗れている。
「そういう憎まれ口叩くから、余計にクラリサが怒るんだよ。……素直になったら?」
 居間の絨毯の上にアルヴァを座らせて、ノアは薬箱から消毒用の薬液と、清潔な布を取り出す。
「女に心配かけるなんて男の沽券に関わるんだ。……分かるだろ?」
「……また縄張り争い?」
 アルヴァのシャツを脱がせると、はっきり分かる。これは竜の牙や爪で裂かれた傷跡だ。人の姿になれるくらいなので、そう深い傷ではないが、それでもこれはかなりの大怪我だ。
「また、あの竜がちょっかい出してきてるんだよ。……この国が欲しくて諦められないんだろうな」
 アルヴァがもう百年ちょっと護っているこの国は、春にはたくさんの花に、冬には雪もちらつく美しい国だ。
 平原と山脈、深い森と豊かな大河の、水と緑に恵まれた美しくものどかな国で、アルヴァはこの国でクラリサを見初め、そしてノアを見初めた。
「アルヴァが百年かけて護って育てた国だものね。……誰かに譲れるはずがないね」
 アルヴァが棲みついた時、この国はとてもではないが美しいとも、豊かともいえない、粗末でみずぼらしい国だった。そんな貧しい国に、美意識の高い竜がよく棲みついたものだ、と思うが、それはクラリサと出会ったからだ。
 この、みすぼらしく貧しい国の王女が、クラリサだった。
 たまたま営巣地探しで立ち寄った竜と鉢合わせたクラリサは、自分の身と引き換えに、豊穣を願った。
 飢えた国民に慈悲を与えて欲しいと、恵みを与えて欲しいと願い、自分の命を捧げる為に竜の前に歩み出た。
 その時の稲妻を纏う雷竜が、巣立ったばかりのアルヴァだった。
「まあねえ、あの時のクラリサにほろっとしちゃってさあ。だって王女様が地面に伏して、怯えた涙声でこの国を助けてくれって言うんだよ? 美人にそんな事されたら聞くしかないじゃん。大事な初めての営巣地探しだったのに、ついついこんな貧しくて痩せた国選んじゃったよ。おかげでため込む財宝も最近になってやっと、ってくらいだ」
「僕を食べて構わないから、村に蔓延する疫病を止めてくれって言ったのも聞いてくれたものね。……アルヴァは人がいいな。人じゃないけど」
「俺は神様じゃないけど、まああのくらいの疫病なら。原因は土砂崩れで水場が濁っただけだったから、ちょっと水場の土砂避けて整地すれば収まるしな」
 酷い傷口に眉根を寄せながら、ノアは布に染み込ませた薬液で裂けた皮膚を拭う。
「竜は綺麗なものに弱いんだよね。そんな綺麗な人間に泣いてすがられたらさあ、もう拒めないじゃんか。まあ、巣にため込むお宝はあんまりないけど、クラリサとノアっていう宝物はあるし。……食べはしなかったけど、まあ違う意味で食べちゃったよね。……ノアは後悔してないのか?」
「……するわけないだろ」
 ノアも、願いと引き換えに竜に食べられて死ぬのだとばかり思っていた。まさかこんな、竜と交わって竜の番人として生きていく事になるなんて、思ってもみなかった。
 そもそも、まさか数十年前に竜に身を捧げて死んだはずのクラリサ王女が当時の姿のまま、竜の番人として生きているとも思わなかった。アルヴァの巣に連れて来られたばかりの頃は、本当に驚きの連続だった。まあ、今だってアルヴァに驚かされてばかりだが。
 消毒した傷口に、痛み止めと傷を塞ぐ効果のある薬草の塗り薬を塗りつける。しみたのか、アルヴァが小さな悲鳴を上げる。
「っいってぇ! もっと優しく頼むよ、ノア!」
「これ以上無理だよ。……薬がしみるのはどうにもならない。我慢して」
 アルヴァはぶつぶつ文句を言ってはいるが、大人しく手当を受けている。
「ま、俺もここまで大事に護って育てた国を、今更他の竜にとられるわけにはいかないんだよ。だから、クラリサが泣いてもノアが止めても戦うしかない。……竜なら生きてる間に何回かある事さ」
「竜ってそんなに簡単に人のものを欲しがるものなのか」
 一つ一つ丁寧に、傷口に薬を塗っていく。塗り終わったら、清潔な布と油紙をあてて、包帯を巻いていく。
 幾ら竜が治癒力が高いと言っても、傷を治すのに体力を激しく消耗する。薬も併用してその負担を減らすのは大切だ。
「俺もそうだけど、竜は単純なんだよ。欲しいものは諦めない、欲しければ奪う。そういう生き物。欲しいものは、誰かの番人だったり、誰かの財宝だったり、誰かの護る土地だったり。……こういう時に竜騎士持ちが羨ましいなあ。圧勝だからな、竜騎士がいれば」
「相手の竜は? どんな竜? アルヴァよりも年上なのかな」
 やっと手当を終えて、アルヴァは大きく安堵の息をつく。よほどしみたようだ。これだけの大怪我なら仕方ない。
「……あれは同じサンダードラゴンだな。だからこんなめったやたらに切り裂かれる。雷撃が効かないから殴り合うしかないしな。……ああ、クラリサに傷を見られると面倒だから、着替え持ってきてくれよ。うっかり見られたらまた泣かれる」
 ノアは言われるままに、着替えを取りに行き、戻ってくる。
 途中、厨房の前を通りかかると、可愛らしい歌声が聞こえた。クラリサは機嫌が治ったのか、小さな声で歌っていた。
 クラリサの涙が辛いのは、アルヴァだけではない。ノアもだ。クラリサは姉のようなもので、ノアにとっても護りたい女性だった。
「アルヴァ、クラリサは機嫌が直ったようだよ」
 アルヴァは窓際で、外の景色を眺めていた。
 高台のこの館は、古びていてあまり綺麗でも豪華でもない。竜にとって、巣というものは宮殿のように豪華で、財宝がたくさんつまった物こそが至上だ。それは出入りの百貨店の外商に貰った本にも書いてあった。
 あまり豊かでないこの巣は、やはりそれなりの姿だ。豪華さからはほど遠い。
 アルヴァは、クラリサやノアに約束した通り、彼らの身体と引き換えに、この国に豊穣をもたらしてくれた。
 今でこそこんなに美しく豊かな国になったが、あの頃のみすぼらしく貧しい国から奪えるものなんて、何もなかった。
 アルヴァは笑って、『立派な国に育ててから頂くから問題ない。俺の為にこの国は豊かに栄えて貰わないとな。あとで利子込みでしっかり頂く』と言っていた。
 ノアも、クラリサも知っている。
 アルヴァはこの国を愛しているのだ。
 自分で護り恵みを与えた国土が、潤い、栄えていく事自体が、彼の何にも代えがたい宝なのだ。
 こうして森や大河を眺めるアルヴァの目は、優しく、とても幸せそうに見える。
「……アルヴァ」
 外の景色を眺めたままのアルヴァの背中に、声をかける。
「クラリサや僕で、良かったのかな。……僕らが頼んだから、アルヴァは僕らを番人にしただけじゃないか。アルヴァこそ、後悔はないの?」
 アルヴァは背中を向けたままだった。
「竜は綺麗なものが好きなんだよ。……綺麗な顔と、綺麗な身体だけだと思ってるのか?」
 ゆっくりと振り返ると、ノアの手を取り、抱き寄せる。沈む夕陽を背にしたアルヴァは、いつもより妖しく更に綺麗に見える。アルヴァの金色の髪は夕陽を浴びて、目映いくらいだ。
 抱き寄せたノアの柔らかな黒い巻き毛に頬を寄せ、アルヴァは目を閉じる。
「……綺麗な心もだ。……誰かの為に自分の命を捨ててでも願える心は、どんな財宝よりも美しく尊いものだよ」
 アルヴァが時折見せるクラリサやノアへの深い愛情は、ノアをとても幸せにも、切なくもさせる。
「お前やクラリサが見た目の美しさだけだったら、こんなに愛さなかった。……お前達は俺の宝物だよ。この国と、お前達が俺の一番大切な宝物だ。どんなにたくさん財宝があったって、お前達には敵わないんだよ」
 ノアは両手でアルヴァの頬を包む。引き寄せ、その初夏の空の色の瞳を見上げながら、口付ける。
 アルヴァをどれほど愛しているのか、伝える言葉を知らない。どうしたらノアのこの気持ちを伝えられるのか、いつもそれを考える。
 愛している、だけでは伝えきれない気がしていた。
「……アルヴァ、気をつけて。……どうか、無事で」
 その言葉に、アルヴァは目を細め、微笑む。
 その微笑みは出会った頃から変わらない。優しく、無邪気な、少し子供っぽい笑顔で、ノアはいつもその笑顔を見ると、たまらなく胸を締め付けられる。
 どうか、無事で。
 もう一度、心の中で呟く。



2017/04 up

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