薄氷異聞

#05 この掌に 前編

 長い冬だった。今年は厳しい寒さで、春が遠く感じられた。
 レオーネの掌に落ちた霙混じりの雪は、一瞬で溶けて雫になり、荒れて無骨な指を伝い落ちた。
「……あれ、竜じゃないか」
 遠く雪に霞む山並みを、ラウルスが指し示す。降りしきる雪の中、白い影が悠々と羽ばたき、横切っていく姿が見える。
「ルネリッサ王国にアイスドラゴンが棲みついているらしいから……そのドラゴンじゃないかな」
 久々に王都の見張り塔に登り、ラウルスと並んで雪の空を眺めていたが、珍しいものを見た。この大陸に竜が棲みついたのは、恐らく有史以来初めてではないだろうか。
 これまでは、遠いどこかの大陸からの噂話か伝説かで伝え聞くくらいだった。本当に竜がこの世に存在していたなんて、ルネリッサに竜が棲み着くまで思ってもみなかった。
「ルネリッサは湖と森に恵まれた豊かな美しい国だっていうしな。……美しいものが何より大好きな竜が巣を作ってもおかしくはないな」
「竜は巣を作った国を護るらしいね。……自分の領土と見なすからかな」
 ラウルスとレオーネの髪や肩に降り積もった雪が凍り、小さな結晶を作っていた。それでもまだ、竜の影を追いながら、遠く蒼き山並みを見つめ続ける。
「この国に作ってくれたらいいのになあ。……こんな戦乱続きで荒れて貧しい国なんか、お気に召さないだろうけどな」
 あの山脈の向こう側、東の国は温暖な気候と肥沃な大地に恵まれていて、この西側の厳しく痩せた土地とは大違いだ。
 貧しさ故に、争いが絶えない。もう何十年もこの辺りの国々は少しでも豊かな土地を巡り、奪い合い、争い続けていた。
「それにしても、あの竜は何をしているんだろうね。……こちら側には竜の求めるような財宝なんて大してないだろうに」
 竜は美しいものを好むが故に、財宝目当てでしばしば村や街を襲う。ルネリッサ王国のある東側は豊かに栄えているが、こちら側はこの有様だ。竜が求めるようなものがあるとは思えない。
「人を攫うらしいからな。……竜は美しい人間も大好きで、攫った人間を巣で飼うらしいぞ」
 ラウルスはフードと髪に貼りつく凍った雪の結晶を払い落とす。いい加減身体も冷えたが、まだ二人とも立ち去らずに、雪の中佇んでいる。
「ものはなくとも美しい人間を探してるのかもな。……やっぱり伝説通りに、清らかな乙女を攫うのかな」
「人も物も貧しい国からは奪わないでいてくれる慈悲が、竜にもあるといいね。……ラウルス、そろそろ行かないか。このままでは二人揃って凍り付きそうだ」
 まだ遠ざかる竜の白い影を見つめるラウルスをレオーネが促すと、ようやく彼は振り返り、歩き出す。
「そういえば、魔導騎士団はいつから国境へ?」
 ラウルスは騎兵団の騎士だが、レオーネはこの大陸では稀少な魔法騎士だ。故に、所属部隊が違う。レオーネは主に前線に駐屯する魔導騎士団に属する。
 属する部隊は違うが、彼らは家同士の付き合いがあり、子供の頃から仲がよかった。大人になった今も、それは変わらない。
「冬が終わる前に第一魔導騎士団と交代しなければならないから、来週には出発するよ」
 見張り塔の長い螺旋階段を降りながら、二人は凍り付いた髪やマントを払うが、塔の中も外と変わらないくらいに冷え込んでいる。吐く息が凍える。
「また婚礼が延びちまうな。……まあ、俺はもうちょっと妹が育つまで待った方がいいと思うんだが、親父はいつお前が他の女に奪われるかと気が気じゃないんだよな」
 ラウルスの歳の離れた妹は、生まれた時からレオーネの妻になる事が決まっていた。いわゆる家同士の政略結婚だが、幸いな事に彼女は小さな頃からレオーネを慕っていた。幼いながらも、嫁ぐ日を楽しみにしているようだった。
「うちの両親も同じようなものだよ。……私が戦死する前に子を残して欲しいんだろうね。前線にばかりいるからかな」
「どこの国も前線に魔法騎士を配しているな。……お前らだって同じ人間で、万能なわけじゃないのにな……」
「騎兵団だって同じように前線に送られる事があるから、私たちだけが危険な任務を遂行しているわけではないよ。さて……今日は君の家に寄らせて貰おうかな。マリーツァに挨拶だけでも」
 いかつい兄とは豊かな黒髪と澄んだ青い瞳くらいしか共通点がない華奢な妹マリーツァは、今年十二歳になったばかりだ。まだレオーネの子供を残せるほど、成熟はしていない。
 それ故に、レオーネはまだ婚礼は先でいいと思っているが、彼らの両親は色々と思惑があるのか、とても急いていた。
「お前は本当にいいのか? 親父たちが勝手に決めた事だ、お前だって自由に選ぶ権利があって然るべきだ」
 マリーツァを女性として愛しているかと問われれば、レオーネも少々返答に困る。
 あまりに歳が離れすぎている上に小さい頃からよく知っているせいで、妹か娘のように思えてしまうのが本音だ。
「正直を言えば、妹のようだね。……だからこそ大事にしたいと思っている」
 嘘ではない。小さな頃からまるで兄妹のように慕ってくれていたマリーツァを、心の底から大切に思っている。
「他に好きな女がいるなら遠慮するなよ、と言おうかと思ったが、お前本当に浮いた噂ひとつないよな。……妹に遠慮してるわけでもなさそうだし。女に興味がないのかよ」
「妹の婚約者に浮気を進めるのかい? 興味がないわけでもないんだけれどね」
 思えば魔導騎士団に入ってから、任務と訓練に明け暮れていてそんな暇がなかったのかもしれない。騎士もだが、魔法騎士は更に努力が必要だった。剣技の他に魔術書も読み、学ばなければならない。時間が幾らあっても足りなかった。
「兄の俺がいうのもなんだけど、妹は優しい、いい子だよ。俺に似なかったおかげで、結構可愛いしな。……おまけに、小さい頃からお前が大好きだ。……お前さえよければ、どうか、幸せにしてやって欲しい」
「勿論だよ。……君がマリーツァを大切に思う気持ちには負けるかもしれないけれど、同じように大切にしたいと思っている」
 妹が可愛くて仕方ないのだろう。レオーネの真摯な言葉に、ラウルスは笑みを見せる。
「どうか、妹の為にも、俺の為にも……生きてくれ。恐らく冬が終わればまた激しい戦になるだろう。……妹だけじゃない。俺はいつもお前の無事を祈っている」
 この三歳年上の幼馴染みは、無骨でいかつい見た目とは裏腹に、とても心優しく、誠実な男だった。この男がレオーネの無事を祈るように、レオーネもいつも彼の武運を願っている。
「君も。……いつ王都から前線に送られるかも分からない。……どうか、無事で」
 誰もが好んでこんな風に争い、戦うわけではない。戦争なんて、ない方がいい。誰だって幸せに平穏に暮らしていたい。
 だが、この貧しく痩せた大地では綺麗事なんて何の意味もない。力がある者が全てを握る。
 奪われない為に、失わない為に、護る為に、戦い続けるしかない。



 荒れ地と岩場ばかりの国境も、この寒さ厳しい時期は雪に覆われ、美しく見える。
 国境と王都の間にわずかながら点在する平野と高山からの雪解け水が流れ込む大河を、もう何年も隣国と争い奪い合っていた。
 雪深いこの時期は休戦状態になるが、油断はできない。手薄な時に小競り合いが起こる事もある。
 レオーネの属する第二魔導騎士団が到着した時も、まだまだ雪は深かった。こんな風に雪が行く手を阻むせいで、この時期にここまで移動できるのは、魔法騎士の部隊くらいしかない。それは同じように雪深い隣国も同じだ。
 今年は雪解けが遅いせいか、小競り合いも多かった。早く冬を越えなければ、備蓄した食料も尽きる。皆、遠い春に苛立っていた。
 数日前にも夜戦があり、レオーネはこの夜、警戒して見回りに出ていた。久し振りの雲一つない夜で、降り積もった雪を月明かりが照らしている。岩ばかりの荒れ地を神秘的に見せるような、冬の終わりの穏やかな夜だった。
 こんな明るい、闇に紛れる事もできそうにない夜に攻め入られる事態はないような気もしていたが、何か、言い知れない空気をレオーネは感じていた。
 違和感といえばいいのか。
 胸騒ぎでもない、不穏な空気でもない。けれど何かに導かれるように、夜の雪原を歩き続けていた。
 明日に備えて帰って横にならなければ。
 いつもと変わりない国境を確かめ、踵を返して歩き出した時だった。
 それまで足下や木々に降り積もった雪を明るく照らしていた月が、不意に翳った。
 雲一つ無かったはずの夜空を、レオーネは振り仰ぐ。
 月明かりを浴びて白く輝く巨大な何かが、悠然と頭上を横切る。
 言葉もなく、レオーネは見上げる。
 大きな白い羽を広げたそれは、すぐ傍の切り立った岩の崖の天辺に舞い降りた。
 雪のように白く輝く、水晶のような鱗と全身から立ち上る冷気は、月明かりを弾き、キラキラと輝く。
 その純白の竜は、鮮血のような真紅の瞳でレオーネを凝視していた。
 美しかった。
 どんな言葉でも言い尽くせない。
 清らかにも見える。聖なるもののようにも見える。そしてどこか、異形の禍々しさも併せ持つ。
 これほど美しくも妖しい生き物がこの世に存在するなんて、レオーネは信じられないような気がしていた。
 雪の中、静かに佇む真白のドラゴンは、レオーネを見つめたまま、鋭い牙を持つ口から氷の吐息を吐き出す。
 物言わぬ竜の、声なき声が聞こえるような気がしていた。


 力が欲しくないか、人間の騎士。

 どんなものにも屈しない、圧倒的な力が。

 その掌にあるものを失わない為に、守り抜く為に、力が欲しくはないか。


 この生き物は、きっと、魔物だ。
 レオーネは白き竜を見つめたまま、思う。
 人間の弱い心につけいろうとする、魔物だ。
 そうでなければ、これほど美しくも禍々しい生き物であるはずがない。これほど人の心を惑わすはずがない。
 何の代償もなく、そんな力を得られるはずがない。

 静かだった。
 この世に、レオーネと、この真白の竜しか存在しないかのように、風の音すらしない、静かな月明かりの夜だった。
 これは雪原が見せたゆめまぼろしだと、そう、思えていた。



2017/08/06 up

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