薄氷異聞

#06 この掌に 後編

 あれはやはり夢か、幻を見たのではないだろうか。
 長く続く戦乱で荒み、疲弊した心が見せた幻だとしたら、えらく鮮明ではある。けれどこれが現実だとは思えなかった。
 剣を握り直しながら、レオーネは月明かりの雪原で出会った真白の竜を思い返す。
 降り積もり凍った雪は、敵にも味方にもなるが、今この国境の岩場で戦うには、あまりに足場が悪い。小さく呪文を呟き、足下に火炎の渦を巻き起こす。足下の岩場から、炙られ溶けた雫が滴り落ちた。
 溶けた雪の岩肌を駆け上がる。こんな足場の悪い、見通しの悪い場所では騎兵も白兵戦になる。夕暮れは迫っていた。
 雪のちらつく黄昏の雪原を前線目指して駆けながら、もう一度、レオーネは考える。
 力さえあれば、こんな終わりのない争いから大切なものを守れるのだろうか。
 あの純白の魔物と取り引きしてでも、魂を売り渡してでも、力を手に入れたなら、何かを変えられるというのだろうか。
 この終わりが見えない戦乱も、強大な力さえあれば終わらせる事ができるというのだろうか。
 日没が近いというのに、寄せ手の部隊は一向に引く気配がなかった。こんな凍った岩場で夜戦だなんて、正気の沙汰ではない。何か裏があるとしか、レオーネには思えなかった。
 交戦中の部隊を矢から護る為に、凍った雪の上に剣の切っ先で呪文を刻み、祈りの言葉を呟く。オーロラのような天蓋が頭上に広がり、矢を弾き落とし始める。その虹色の天蓋の中に第二魔導騎士団の団長が駆け込んでくるのが見えた。
「……これは陽動だ! 奴らはここで我々の足止めをしているだけだ!」
 レオーネは再び、雪原に呪文を刻む。数分しか持たないが、この天蓋に外から侵入を防げるようになる。壮年の団長はレオーネに駆け寄る。
「北の国境を破られた! ダグザの街が襲われている! ……雪が溶ける前に、山を越えたんだ。まさかそんな無謀をするなんて思いもしなかったが、あいつらは多分、もう食料がない。備蓄した食料が春まで持たないのだろう。だから地方都市を襲って奪うしかなかったのかもしれない……」
 ダグザの街はレオーネとラウルスの出身地だ。北の国境と王都を結ぶ、地方都市でもある。国境からは少し離れているが、王都からそう遠くはない。この街が襲われるなんて、かつてなかった事だ。レオーネも驚きを隠せない。
 団長の声から、怒りや憤りを感じられなかった。我々も、彼らも、分かっているのだ。誰もが争いたくて争っているわけではない。
 やるせなかった。空しかった。
 追い詰められた厳しい荒野では、生きる為に、奪い合うしかなかった。殺し合うしかなかった。
 こんな貧しい荒野で生きていくには、分け合うなんて綺麗事でしかなかった。



 荒れ地の国境から第二魔導騎士団が王都へ帰還し、ダグザの街へ到着したのは、あの黄昏の白兵戦から数日が過ぎてからだった。王都やダグザの街への道のりはいつものように雪深く、悪路だった。
 略奪を終えた隣国の軍は、第二騎士団が王都へ到達と入れ違いに引き上げていた。
 彼らも奪った食料や金品を一刻も早く自国へ持ち帰りたかったのだろう。それくらいに切羽詰まっていたのかもしれない。
 今までにも国境近くの村や街道の街が襲われる事はあった。隣国の略奪はよくある事だった。こんな王都近くの地方都市にまで侵入したのは、もう既にこの冬の小競り合いで街道の街の備蓄が奪い合われ、到底足りる量ではなかったからか。前線ではないこの街に駐屯する部隊はない。国境や近隣の駐屯地から援軍が来るまで、持ちこたえられるはずがなかった。
 レオーネが生まれ育った故郷の街は、見るも無惨な姿に変わり果てていた。奪われ、壊され、火を放たれ、質素ながらも綺麗で穏やかだった街並みは、見る影もなかった。
 焼け落ちた市場の前で呆然と立ち竦むレオーネに、第二騎士団の団長が声をかける。
「お前の実家はこの街だったろう? ……ここは俺達に任せて、家族に会いに行ってやれ。……無事である事を祈っている」
 もう隣国の部隊は逃げ出した後だ。あとは、負傷者の手当、街の被害状況の調査や、万が一、潜んでいるかも知れない敵国の兵士のあぶり出しが騎士たちの仕事だ。
 レオーネは勧めを固持し自分の仕事を優先しようとしたが、それは団長が許さなかった。
 団長の心遣いに深く感謝しながら、レオーネは市場の焼け跡を抜け、自宅のある南通りへ向かう。
 父母は無事だった。軽症を負って疲れた顔をしてはいたが、屋敷はそれほど被害にあっていなかった。退役した魔法騎士である父は、庭先を解放し、運び込まれる負傷者の手当で忙しく働いていた。
「レオーネ!」
 レオーネの姿を見るなり、父親は治療の手をとめて駆け寄る。
 初老手前のこの父親は怪我で退役を余儀なくされたが、腕のいい魔法騎士だった。恐らく今回も、街の防衛戦に参加していただろう。
「こっちはこの通り、無事だが忙しい。……攻め入られた時にラウルスが帰省していたんだが、あれから見掛けない。なんだか……嫌な予感がする。……探してくれないか」
 その言葉に、レオーネも言い知れない不安を感じる。
 団長は、南通りよりも中央通りの被害が甚大だったと言っていた。ラウルスの屋敷は中央通りから少し離れたところだ。
 ざわざわと背筋が冷たくなる。
 ラウルスは知略に長けた騎士だ。きっと今回も、無事に乗り切っているはずだ。
 それなのに、胸に重くのし掛かるように、不安が広がっていく。言葉にしようが無いほどの焦燥感と胸騒ぎに急き立てられるように、レオーネは中央通りに向かって駆け出す。



 焼け落ち、荒らされた中央通りの家々と同じように、ラウルスの屋敷も変わり果てた姿になっていた。
 鎧戸も門扉も破壊され、家財や家具が庭にまで投げ捨てられていた。
「……ラウルス! マリーツァ!」
 壊れた扉を押し開け、物音一つしない屋敷の中に踏み込む。
 割れた陶器の破片や、壊された家具が散乱し、ひどい有様だった。優しく穏やかな空気に満ちていた屋敷は、今は廃虚に成り果てていた。
「返事をしてくれ、ラウルス!」
 なぎ倒され壊れた棚を踏み越えようとして、レオーネは気付く。
 倒れた棚に足を挟まれたまま息絶えているのは、この家に古くから仕えていた女中頭だ。老いてもまだまだ元気に働いていたこの女中頭をレオーネもよく知っていた。
 傍に投げ捨ててあったショールを拾い上げ、冷たい彼女の身体をそっと包む。
 陶器や家具の破片を踏み分けながら、レオーネは階段を上る。ぷんと血なまぐさい匂いが漂っていた。
 階段を上がりきり、一つずつ部屋の扉を開け、声をかける。返事はなかった。物言わぬ骸になったこの家の使用人の遺体に祈りを捧げながら、レオーネは進む。
 五つ目の扉は、ひどく重く、そして胸が悪くなるような血の匂いを強く漂わせていた。
 恐らく、予感していた。
 この扉の向こうにどうしようもないくらいの絶望があると、レオーネも察していた。
 重く軋む扉を開くと、ぼたぼたと音を立てて、どす黒く変色した血が伝い落ちる。
 樫の扉に、鉄の杭で両の掌を打ち付けられ、絶命している親友の姿を見ても、レオーネは声も上げなかった。涙さえ、出なかった。
 ここはラウルスの部屋だった。
 子供の頃から何度もこの部屋を訪れ、共に語り、学び、過ごした思い出が走馬灯のように蘇る。
 鉄の杭をなんとか引き抜き、ラウルスの身体を降ろそうと手を伸ばして、気付く。
 部屋の奥の寝室への扉は、開け放たれていた。
 寝台の絹の天蓋は、引き裂かれ、血にまみれていた。その、寝台の端から力なく垂れ下がる剥き出しの細い手足が見える。
 その小さく華奢な青白い手足を濡らすのは、血だけではなかった。
 力があったなら、守れたのだろうか。
 ラウルスもマリーツァも、あの女中頭たちも、街の人々も、この国の人々も、全て守り抜く事ができたのだろうか。
 呆然と立ち竦む事しかできなかった。泣き叫ぶ事すらできなかった。
 気が狂いそうだった。
 何を憎んだらいいのか、何を恨んだらいいのか、この世の全てを憎み、滅ぼせばこの行き場のない怒りと空しさと悲しみから、逃れられるのだろうか。
 無力である事が、許されるのだろうか。



 あれからどのくらいの時間が経ったのか分からない。
 レオーネは荒れ果てた庭先に立ち、主を失った屋敷を見上げる。
 雲一つない冷たい夜空に、折れそうに細い月が浮かんでいた。
 レオーネは短く呪文を呟く。
 屋敷の四方に刻み込んだ文字はレオーネの祈りを聞き届け、一瞬にして火柱を上げる。凍るような夜空を焦がすように、業火は屋敷を包み、燃え上がる。
 ラウルスの痛ましい骸も、マリーツァのあまりにむごい姿も、誰の目にも触れさせたくなかった。人々の記憶の中でだけでも、幸せで穏やかな兄妹であって欲しかった。
 燃え上がる屋敷を見つめるレオーネの背後から、不意に誰かの声が聞こえた。

「力が欲しくないか、人間の騎士」

 聞き覚えのある言葉だった。それははっきりと、人の言葉で惑わそうとしている。レオーネは咄嗟に振り返る。
 物音一つさせずに、静かに、その男は最初からそこにいたかのように、壊れた門扉の前に立っていた。
「どんなものにも屈しない、圧倒的な力を得たくはないか? 欲しいものはきっと、全て手に入る」
 見た事も無いほど、美しい男だった。
 真っ白な髪に、鮮血のように赤い瞳をしていた。異様なほど整った美しい顔は幼さも残していたが、一目でこれは人ならざる異形の生き物だと分かる。
 こんな禍々しくも美しいものが、人であるはずがない。
 人の悲しみや怒りに付けいろうとするかのように、惑わしたりもしない。
 真白の魔物は微笑む。
 この男を見た事がある。レオーネはぼんやりと考える。
 どんなに人のふりをしようとも分かる。こんな禍々しくも美しく、人の弱い心を惑わすような魔物が、人であるはずがない。
「ずっと探していたんだ。……一生をかけられるような、命を捧げられるような、そんな気高く強き魂を持つ騎士を」
 気高くもない。強い魂なんて、持ってもいない。こんなにも脆く弱く、無力だと、己が一番よく分かっている。
 差し出された異形の青年の指先を見つめたまま、レオーネは立ち竦む。
「悲しみと怒りが満ちてる。……その掌にあるものが零れ落ちていくのに、耐えられないんだろう?」
 差し出されていた指先から、仄白い冷気が立ち上り始める。ぴしぴしと小さな音を立てながら、冷気は真白の魔物の身体を包んでいく。
「……剣を取れ、騎士。力が欲しいなら、俺を倒せ。俺に打ち勝て。……俺と一緒に行こう。千年先の世界を、一緒に見よう」
 真白の魔物は子供のように無邪気に笑う。
 魔物を包む冷気は小さな雪の花を生み出す。そして吹雪のように勢いを増していく。目の前で生まれた雪嵐の中に、純白に輝く水晶のような鱗を纏った妖しくも美しい生き物の姿が浮かび上がる。
 力があれば、何もかも守れるというのか。
 レオーネは静かに鞘に手をかけ、剣を解き放つ。
 もしもあの月明かりの夜に、この魔物に魂も身体も売り渡していたなら、ラウルスを、マリーツァを、この街の人々も、救えたのだろうか。
 もしもこの魔物を倒し、力を手に入れたなら、その答えが、その先が、その未来が見えるのだろうか。
 純白のドラゴンが、小さな吹雪を纏いながら、燃え盛る屋敷の庭先に降り立つ。
 聞いた事も無い不思議な声で、翼を広げた真白の魔物は一声、火の粉の舞い上がる夜空に咆哮する。
 レオーネは剣を握り締め、呪文の詠唱を始める。
 力さえあれば何もかも守れるなんて信じられるほど、聡くも愚かでも、いられなかった。


2017/08/07 up

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