竜の棲み処 君が僕の永遠(とわ)なる希望

#15 帆布と木箱と雪の庭

 暗い明け方に目覚めたユーニは、いつものように起き出して厨房のキッチンストーブに火を入れ、朝食の支度を始めた。夕べのうちに材料を量り用意してあったパンの生地を作り、お湯を沸かし、その合間に洗濯物の仕分けを済ませる。
 鎧戸を開けると、外は薄く雪が降り積もり、粉雪が舞い降りていた。まだ寝ぼけているクーがユーニの肩の上で丸くなったまま、吹き付ける風の冷たさにぷるぷると身震いする。再び鎧戸を閉め、天板の上で発酵を終えたパンをキッチンストーブのオーブンに入れたところで、クアスがいつもと変わらない素振りで、厨房に顔を出した。
「もう出掛けるから朝食はいらない。……今日も帰るのは遅くなるから、夕食もいらない。お茶だけ用意しておいてよ」
 ユーニが返事をする前に、クアスはさっさと厨房を出て行ってしまった。ここ数日、クアスは夜遅く帰って来ては、ろくに口も利かず食事も取らずにお茶を飲んで寝てしまう。夜だけではない。朝もお茶すら飲まずに出掛けてしまう。
 クアスは『人間の食事は竜にとってはおやつのようなもの。主食は人間の言うところの霞』と言っていたが、それでもユーニは心配していた。
 数日前に険悪になってから顔を合わせたくないのかとユーニは思っていたが、そうではないらしい。言葉数が少なくなっているが、不機嫌な様子はなかった。とても忙しそうで、ひどく疲れているようだった。
 余計な事かもしれないが、今日は休んでは、と声をかけようとクアスの後を追って居間に入った時には、もうクアスは竜の姿に戻ったところだった。中庭へ通じる大きな掃き出し窓越しに、翠玉の巨大な翼を広げ、今まさに飛び立とうとするウィンドドラゴンの姿が見える。
 クアスの翼は、新緑の色だ。日に透ける初夏の若葉のような、生命力に満ち溢れた眩さがある。その美しいみどりの翼に、真っ白な粉雪がはらはらと降り積もる。
 幻想的に美しいのは、人の姿のクアスだけではない。竜のクアスもだ。大きな身体は信じられないくらいに、軽やかに静かに、雪の花降り注ぐ空へと舞い上がる。



 結局ユーニは何も言えずにクアスを見送って、いつものように家事に戻るしかなかった。
 昼食は元々ユーニひとりだが、朝食も夕食もクアスが摂らないなら、作ろうとは思わない。自分の為に作るなんて材料がもったいないと思ってしまうのがユーニらしい。半端に残っているパンや痛んでしまいそうな果物や野菜をクーと一緒に食べるくらいでいいと思っている。特に用意しないとなると、掃除や洗濯、お茶の菓子の用意が済んでしまうとやる事がない。
 余った時間でメレディアが教えてくれた簡単な読み書きをおさらいしつつ勉強する事にして、クーと一緒に厨房を出て部屋に向かおうとすると、山吹の元気な声が響いた。
「こんにちはー! ダーダネルス百貨店外商部の山吹ですー! いつもありがとうございますー!」
 珍しく、玄関からではなかった。今朝クアスを見送った中庭からだった。
 ユーニが居間に入ると、例の掃き出し窓越しに、紺色の外套にも山吹色の髪にも雪を積もらせた山吹がニコニコ笑顔で立っていた。
「本日は中庭から失礼させて頂きます。クアス様のご注文の品を急ぎご用意致しました」
 窓の鍵を開けて中庭に出ると、山吹は庭の片隅を指し示す。
 そこには布をかけられた木箱が積まれていた。大変な量だ。これを山吹はひとりでどうやって運んできたのか。
「木箱には帆布をかけてありますので、雪に濡れる心配はございません。……帆布をご存知ですか、ユーニさん。船の帆に使うものですが、大変水濡れに強いのでございます。帆布は濡れる事によって目が詰まり、水を通しにくくなるのです」
 山吹は積まれた木箱の山に歩み寄り、いつもの巨大な黒いトランクから更に帆布を取り出し、木箱にかける。これで完全に木箱は帆布で覆い尽くされた。
「ご注文頂いた砂糖と塩でございます。クアス様のご指定通りに砂糖と塩を組み合わせて一箱ずつ詰めてあります。……クアス様はご在宅ですか?」
 この屋敷に出入りし始めたばかりの山吹はまだまだ新人らしくたどたどしかったが、最近はすっかり立派なダーダネルス百貨店の外商部員らしい風格になっている。ユーニから見てもとても落ち着いて、頼りになる雰囲気だ。
「ここ数日、とても忙しいみたいで、朝も早いし帰ってくるのも夜遅いです。……受け取りのサインですか?」
「いただけたら助かりますが、クアス様がご不在ならば」
 思わずユーニはにこっと笑ってしまう。ここで初めて、勉強の成果が生きるのだ。
「ぼくも、クアス様の名前と自分の名前なら、書けるようになりました」
「それは素晴らしいですね……! 『読み聞かせフクロウ』は、お役に立てましたか? きっとこの子は、ユーニさんと仲良くなれると思っていました」
 山吹も嬉しそうにぱあっと笑顔になる。ユーニは知らないが、ダーダネルス百貨店の従業員がこんな人間のように感情を露わにするのはとても珍しい事だ。いつも彼らはとてもビジネスライクで、そんな姿を見せる事はない。山吹がまだまだ新人だからこそだ。
「はい。クーはとても賢くて、いつも傍にいてくれて……それに、とても優しいです。ぼくはいつもクーに助けて貰っています」
 褒められていると分かるのか、クーはユーニの肩の上で丸くなって、ユーニの頬にすり寄る。そのクーの姿に山吹もとても嬉しそうだ。
「それはよかった……!」
 思わず無邪気に素に戻ってしまった山吹は、慌てて言い直す。
「……お客様に当店の商品やサービスにご満足頂ける事は大変な喜びです。では、サインをお願い致しますね」
 居間のテーブルについて、山吹の差し出す書類に、渡された羽根のペンでしっかりと、自分の名前とクアスの代理である事を記す。この羽根のペンも不思議なペンだった。インクがなくとも文字が書ける。
「ところで、あの外の木箱の、あれは全部砂糖と塩なんですか?」
「はい。本日は急ぎ用意して欲しい、とご依頼がありまして。他の注文は後回しで、これだけは最速でと仰っていました」
「あんなにたくさん、何に使うんだろう……?」
 ユーニのいた村では、砂糖は高級品だった。塩は海に隣接する街から持ち込まれるのでそれほどではなかったが、砂糖は特別だ。この地方ではサトウカエデの樹液から作る事ができたが、それはごく少量で貴重だった。ユーニにとって砂糖と言えばその貴重なサトウカエデの茶色い砂糖で、この屋敷に来るまで白砂糖を見た事がなかった。あるところにはこんなにたくさんあるものなのだと思い知らされる。
「以前、メレディア様からもご注文頂いた事があるそうですよ。何十年かに一回くらい、こんなご注文があるそうです。決まって冬場ですね。……ダーダネルス百貨店では、お客様がご使用目的を仰らない限りは、お伺いしない事になっているので、私も何にお使いになられるのかは分かりませんね……」
 てきぱきと書類をしまい、代わりにトランクから新しいカタログを取り出して並べながら、山吹も首を傾げる。カタログを並べ終えると、山吹はまたトランクの中を漁り、小さな布の小袋を取り出す。いつか山吹に貰った、不思議に綺麗な飴の袋だ。
「……これは、私からユーニさんに。文字を書けるようになったご褒美に、というのは大変におこがましく失礼でございますが、ユーニさんを応援したいのです。よかったら受け取って頂けますか」
 「失礼だなんて、そんな事ないです! とても嬉しいです……! この飴、大好きです。不思議に綺麗で、とてもおいしくて、クーと一緒に大事に食べます」
 差し出された飴の袋を、ユーニはありがたく受け取る。何より、山吹の気持ちが嬉しかった。こんな風に励ましてもらえるなんて、とても幸せな事だと思う。
 クアスもいつもよくできた時は褒めてくれた。誰かにこんな風に認めてもらえるのは、とても嬉しくて励まされて、もっと頑張ろうと前向きな気持ちにしてくれる。
 山吹を見送って、それからユーニは再び、窓の外の帆布に包まれた木箱を眺める。
 本当に、こんな大量の砂糖や塩を、何に使うのだろうか。幾ら考えても、さっぱり思いつかなかった。



2017/11/23 up

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