竜の棲み処 君が僕の永遠(とわ)なる希望

#16 砂糖と水と塩と

 予告通りにクアスは夜遅く帰って来た。
 クアスはずぶ濡れのまま厨房に入ってくると、本を広げてクーに読んでもらいながら字の練習をしていたユーニに、羽織っていたマントを手渡す。これは初めて出会ったあの夜明けにクアスが来ていた露草色のマントだ。
「ずぶ濡れになった。洗っておいてよ。……あと、お茶の用意も頼んだ」
 怒っているような、不機嫌な口調ではなかったが、やはり疲れているように見える。
 「山吹さんが砂糖と塩の木箱を持ってきてくれました。……すごくたくさんの。風邪引いちゃいますよ、早くお風呂にはいって暖まった方が」
 金色の髪もぐっしょりと濡れそぼって、マントを受け渡すその手も冷たく凍えていたが、クアスは適当に頷くだけだ。
「ああ、見たよ。よかった、予想より早く用意してくれた。……ユーニ、お茶は僕の部屋に用意して。悪いけど今は時間がないから」
 何をそんなに急いでいるのか分からないが、とにかくクアスは時間が惜しいようだ。ずぶ濡れのまま、足早に自分の部屋に行ってしまった。
 慌てて小さなティーワゴンに茶器と茶菓子を用意しながら、キッチンストーブにやかんをかけて、ユーニはリネン庫に駆け込む。
 いくつかタオルを持ってクアスの部屋へ向かうと、クアスは書斎机に座って何か書き物をしていた。
「せめて着替えだけでも」
 そう声をかけても、クアスは書き物から目を離さない。
「竜は風邪なんかひかないから大丈夫。……ああ、でも紙が濡れる。ありがとう」
 やっとクアスは書き物から目を離し、タオルを受け取って濡れた髪を拭きはじめる。ユーニは急いで着替えを用意して、書斎机の傍のテーブルに置く。
 文字の勉強を始めたとはいえ、まだまだそんなにたくさんの言葉は分からない。クアスが何枚も散らかしている紙に書かれた文字が人間の文字だというのくらいは分かるが、内容はさっぱりだ。かろうじて読めたのは、砂糖、水、塩くらいか。
 木箱の中身も砂糖と塩だ。この紙と木箱。一体クアスは何に使おうとしているのか。
「あとでユーニにも仕事を頼むから、今日はしっかり寝ておいて。……明日は朝早くから頼むと思うよ」
 ユーニは忙しそうなクアスの邪魔をしないように再び厨房に戻り、カンカンに沸いたやかんからティーポットにお湯を注ぐ。
 本当に、一体クアスは何をしようとしているのだろう。



「……ユーニ、起きろ。できたから手伝え」
 揺すり起こされて、ユーニは慌てて跳ね起きる。
「ごめんなさい、寝過ごしました!」
 まだ夜中といっていいだろう。枕元の籠の端っこでいつものように寝ていたクーも突然起こされて寝ぼけているのか、むー、とも、くー、ともつかない、普段聞かないような変わった鳴き声をあげている。
「寝過ごしてない、早く終わったから起こしたんだ。早く着替えてコートを着て、中庭に来るんだ。手伝え」
 なんだか分からないが、急いで手伝わなければ。ユーニは飛び起きて着替えると、クーを懐に入れて中庭へ向かう。
 まだ夜も明けきらない。真っ暗だ。けれど雪はやんでいた。今は中庭を煌々と幾つものオイルランプが照らしている。
「この紙を一枚ずつ、全部の木箱に入れる」
 言いながら、クアスは雪の降り積もった帆布を引き剥がす。木箱を器用に開けてどんどん並べながら、ユーニを振り返る。
「箱を開けていくから、ユーニは紙を一枚ずつ入れて蓋をしめてくれ」
 その紙は夕べクアスが書いていたものだ。砂糖、水、塩など、見覚えのある文字が並んでいる。
「……これ、何に使うんですか? どうしてそんなに急いで用意を」
「あとで纏めて話す。今は説明するのが面倒だ」
 砂糖と塩が詰まった木箱は重いはずだが、クアスは積み上げられた山から軽々と持ち上げて降ろす。人に化けていても屈強な竜なのだとこんな時に思い知らされる。明らかに人とは異なる腕力に体力だ。こんな湖の精霊かと見まごうほど繊細に美しいクアスも、考えられない力強さだ。
 色々よく分からないがとにかく急いで作業しなければならない。ユーニは降り積もった雪を踏みしめながら、手早く正確に仕事をこなしていく。



 全部作業が終わり、木箱を閉めて積み終わった時には、もう夜が明け始めていた。
 冬の夜明けは厳しい寒さだ。けれどミルクを流したような靄の中で、昇り始めた朝陽を受けきらきらと輝く白く凍った木々や遠くに霞む雪山の美しさは、筆舌にしがたい。クアスがこの湖の美しさをこよなく愛する理由がよく分かる。
「じゃあ僕は出掛ける。……ユーニも疲れただろ。朝食をとったら横になるといい」
 確かにくたくただった。厚着していたしよく動き回ったおかげで寒さはそれほどではなかったが、びっしりと詰まった木箱は、人間で、更に体格がいいどころか、貧相に痩せ細ったユーニには重すぎた。
「クアス様も、ずっと忙しそうで疲れてるし、寝ていないのに。少し休んだ方がいいです」
「竜がそんなやわなわけないだろ。竜の寿命は長いんだ。軽く千年は生きる。だから無駄に丈夫なんだよ。……だからユーニは付き合わなくいい。人間が竜と同じにできるはずがないんだから、休んでおくんだ」
 そう言っている間に、クアスの足下から小さな風の渦が這い上がる。降り積もった雪がその風に煽られ、舞い上がる。
 粉雪舞う小さな嵐はあっと言う間に巨大な暴風へと成長する。その雪嵐の中から現れた翡翠の鱗を纏った竜は、小さな鳴き声を上げ、木箱の山を鋭い爪に覆われた前脚で掴みあげると、翼を広げる。いつものように静かに風のように、巨大な身体は空に舞い上がる。
 白く煙る空に消えていくみどりの影を、ユーニは静かに見送る。
 疲れてくたくたで、とても眠たかった。懐の中でクーも眠たげに目を細めている。
「ご飯食べて寝ようか。……クーは寝かせてあげればよかったね、つい連れて来ちゃった。ごめんね」
 クーはくちばしをユーニの胸元に埋めて、小さくいやいやするように、身じろぐ。
「一緒にいたいって思ってくれた? ……ありがとう、クー。いつも傍にいてくれて」
 ふと、さっきクアスが何気なく言っていた言葉を思い返す。
『竜の寿命は長いんだ。軽く千年は生きる』
 流れる時間が違う事は分かっていた。
 きっとその竜の長い生の中で、ユーニが存在した時間なんて、ほんの一瞬だろう。瞬きのようにあっと言う間に過ぎ去ってしまう時間だ。
 そんな出会いと別れを繰り返していくなら、竜はさみしくないのだろうか。悲しくはないのだろうか。
 疲労と睡魔でぼやけた頭の片隅で、そんな事を考える。



2017/11/24 up

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