竜の棲み処 君が僕の永遠(とわ)なる希望

#19 雪の来訪者・後編

 中庭を一巡しても、まだクーは鳴いている。ユーニはクアスの指輪に祈りながら茨の森を開き、森の中にも踏み込む。
 茨も木々も今は真っ白に凍った樹氷になっている。滑りそうなくらいに硬く積もった雪を慎重に踏みしめながら、ユーニはクーに導かれるままに、湖へ向かって歩き続ける。
 細い歌声が聞こえる。寒さにかじかんだ、かすれた声だ。けれどこの声には聞き覚えがあった。
 ララが小さな我が子に歌い聞かせていた、あの歌声だ。
「……ララさん!」
 ユーニは弾かれたように駆け出す。まさかララの小さな子供達に、何かあったのか。クアスの救いの手は、間に合わなかったのか。
 いつかララと話した切り立った崖まで出ると、ララのか細い歌声は途切れた。
「……いた! やっと会えた!」
 ララの元気な声だった。粗末な小舟に毛布に包まって座り込む、ララの姿があった。その髪にも古ぼけた毛布にも、真っ白に雪が降り積もっている。
「竜に頼んでくれて、ありがとう! みんな、元気になったよ! あんたと、みどりの竜のおかげで! ありがとう、あたし、どうしてもお礼を言いたくて!」
 こんな真っ白に雪に覆われるまで、ララはずっとここでユーニを待っていたのか。会えるかも分からないのに、ずっと。
「ララさん……。風邪引いちゃいます。病気になっちゃいますよ。……お礼なんて、いいんです」
 目頭がじわっと熱くなる。泣き出したくなるくらい、ララは生真面目で、優しい。ララは凍えているだろうに、それでもにこにこ笑顔で崖の上のユーニを見上げ、毛布の中から、小さな籠を取り出す。
「……村の皆にも、あたしの亭主にもあんたの事、内緒にしてるから……。こっそり準備したから、大したお礼ができないけど、どうしても、あんたと、竜にお礼がしたかったの」
 少し恥ずかしそうに、手にした籠をユーニに差し出す。。
「これ、前にあんたがおいしいって言ってくれた、そば粉のビスケット。……こんな粗末なもの、竜は食べないかもしれないけど。他に何もいいもの用意できなくて。何にも竜に捧げられるようなものがないけど、こんなので恥ずかしいんだけど、一生懸命作ったから……」
 豊かな生活をしている人から見れば、粗末なものかもしれない。けれど村ではこんな甘いお菓子は、贅沢なものだった。ララが自分の分を削ってでも、このビスケットをユーニに分けてくれていた事を、忘れるはずがない。これをララが必死に工面して作ったと、ユーニが分からないはずがなかった。
「ララさん……」
 受け取ろうか、一瞬迷う。ララが厳しい生活の中でなんとか作ってくれたお菓子だ。それを受け取ってしまっていいのか。ララやララの子供達に食べて欲しいとも思うと、迷わずにいられない。
 けれどこれは、ララの気持ちなのだ。村を救ってくれた竜に、捧げる為のものなのだ。
「ねえ、いつものチビちゃんは? チビちゃんに、手伝ってもらおうと思って」
 ララは取り出した縄を器用に籠に結びつけ、その端を見せる。
「この子の事かな。……クー、ララさんが、お手伝いして欲しいって」
 懐のクーを掌に載せてそう話し掛けると、クーは理解したのか、すぐに飛び立ち、崖下の小舟の上、ララの船縁まで飛んでいく。
「チビちゃん、この縄の端っこを、あの子に持って行ってあげてね」
 ララがそう言い聞かせると、クーは縄の端を掴み、ユーニのところまで飛んで戻る。ユーニの手に、無事に縄は渡された。
「ゆっくり引き揚げてね!」
 ララの手元から、縄を使って籠はしっかりと、ユーニの手元まで届けられた。ララの纏っていた毛布にくるまれていたはずなのに、籠はひんやりと冷たい。ララはこの極寒の湖上で、どれほどの時間、来ないかもしれないユーニを待ち続けていたのだろう。
 籠の中の布に包まれたビスケットを受け取り、それから籠をララに戻そうとして、思い出す。このコートは外仕事の時に着ていた。だから喉が渇いた時の為に、あの山吹に貰った飴玉を持ち歩いていた。そのままポケットにしまったままだったのを思い出し、あの飴玉をビスケットの代わりに、籠の中にそっと入れておく。
「ララさん、ありがとうございます。……竜に、クアス様に伝えておきます。きっと、喜んでくれます」
 再び縄を使ってララの手元に籠は戻った。ララは笑顔でユーニを見上げる。
「ララさん。……ぼく、名前をつけてもらいました。ユーニって名前です」
 ララは笑顔のまま、頷く。
「すごく大事にされてるんだね。……ユーニかあ……。すごく優しい響きね。あんたに……ユーニぴったりの名前」
 笑うララの眦に、涙が浮かんでいたのはユーニの気のせいではないだろう。
「……優しいユーニと、優しい竜に、祝福があるように。幸いがあるように」
 ララはそう祈りを捧げ、小舟を漕ぎ出した。
 冷たい湖の上に、真っ白な雪の花びらが落ち、溶けて消えていく。とても冷たい風が吹き抜けていても、ユーニは心から暖かく幸せに思えていた。



「お礼」
 いつものように雪の中帰って来たクアスは濡れた髪を拭いながら、お茶のテーブルに置かれた、煤けて地味な色合いのビスケットを眺める。
「そば粉のビスケットです。松の実やしいの実が入ってます。ぼくの村では、これがすごいご馳走だったんです。……ちょっと地味かもしれないけど、すごくおいしいと、ぼくは思います……」
 メレディアが籠いっぱいに持ってきたお菓子を思い出すと、語尾がだんだん小さくなってしまう。あんな華やかでおいしいお菓子に比べたら、とても見劣りするし、貧しくつましい食べ物だ。
 こんな粗末なものを捧げられて、クアスは不愉快に思わないだろうか。一瞬不安になるが、クアスは何の躊躇もなく、ビスケットに手を伸ばした。
「どうせ食うや食わずの貧しい村なんだろ。そんな貧しいのに、竜に貢物なんかやってる場合じゃないだろ。家族に食べさせてやればいいのに」
 そう言いながら、クアスはビスケットを一口囓る。ゆっくり噛み締め、それから再び口を開く。
「……ああ、噛み締めると素朴にうまいな。じわじわ甘みとなんだろう、しいの実と松の実かな。硬いけどこの実がおいしい。喉渇くけど」
 言いながらユーニにお茶のおかわりを催促する。
「これ、ご馳走だって言ったけれど、ララさんは自分の食べる分を削って、ぼくにも分けてくれてたんです。小さい子供もいるのに、他人のぼくにも。……だから、悪い人ばっかりじゃないんです」
 クアスはビスケットを囓りつつ欠片をクーに与えながら、黙って聞いていた。何を考えているのか、ユーニにはさっぱり分からないけれど、不機嫌そうには見えなかった。
「ララさん、皆元気になったって、とっても喜んでました。……ありがとうございますって」
 それから、素敵な名前だって褒めてくれました。クアス様がつけてくれた、ぼくの名前の事。
 そう言いたかったけれど、気恥ずかしくて言い出せなかった。『大事にされてるんだね』というララの声を思い出す。
「ララって女は、ユーニみたいに生真面目だな。……そういうバカみたいに真面目なのも、こういうビスケットも、嫌いじゃない。一生懸命作ったものがまずいはずがないし。……ユーニも食べるといい。きっとその女も、ユーニに一番、食べさせたかったんだろう」
 クアスは摘まんだビスケットを、ユーニの掌に載せる。ユーニは素直に受け取り、口に運ぶ。
 そんな昔の事ではないのに、懐かしい味に感じられた。いつも空腹を抱えていたユーニに、ララがそっと手渡してくれたビスケット。今食べても、じんわりと甘く穏やかで、優しい。
 あれほど嫌っていた村の人々を救ってくれた事も、ララを嫌わずに認めてくれた事も、この、ララの精一杯のお礼であるビスケットを受け取ってくれた事も、何もかもが、嬉しかった。



2017/12/02 up

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