竜の棲み処 君が僕の永遠(とわ)なる希望

#20 三つの仕事

 毎日のように降っていた雪は厳冬を越え、緩やかに霙や雨へと変わっていく。暗く沈んだ分厚い雲に覆われていた空は、時折、気まぐれに晴れ間を見せるようになった。
 真っ白に凍り付いていた中庭も茨の森も、今はその雪化粧を剥ぎ取られ、元の少し寒々しい姿に戻っている。葉を落とし緑を失い枯れたように見える木々も茨も庭先も、密やかに小さな新芽が息づいている。
 長く厳しい冬が終わり、この茨の湖に高山からの雪解け水が流れ込む、穏やかな春がやってくる。
 また花や草木が生き生きと生い茂る、光に満ちた穏やかな季節が来ると思うだけでユーニはうきうきせずにいられないが、その幸せそうなユーニとは対照的に、クアスはなんだかとても、機嫌が悪い。
「雪解けは大歓迎だけど、気が重い」
 機嫌が悪いというか、憂鬱そうだというか。クアスの周りだけ冷たい風が吹き付ける暗雲の冬天のままのような雰囲気だ。
「寒いの大嫌いだって言ってたのに……。もうすぐぽかぽかの春になりますよ。嬉しくないんですか?」
 ユーニは居間の暖炉の前で真冬用のコートやブーツ、手袋などの防寒具の手入れをしていた。少しずつ冬物の片付けをしているが、これも春を迎える準備のひとつだと思うと楽しくて仕方ない。が、相変わらずクアスは仏頂面でお茶を飲んでいる。
「春はめんどくさい時期なんだよ、竜にとって。気が重い季節だ。……そういえばこの前、初めて人間の娘が貢物に捧げられてたな。知るか、あんなのいらない」
 クアスは忌々しげに吐き捨てている。やっぱり他の街でも竜に人間を捧げるのは当たり前のようだ。ユーニも思えば最初は竜の貢物になるはずだった。
「春が近いからっていう余計な気遣いか。本当に余計なお節介だ。あの程度の美人で竜が満足すると思うなんて、人間は美意識が低すぎじゃないか」
 話の流れから察するに、普通は竜に食べられる為に捧げられるものではないのかもしれない。
 クアスは『竜は人間なんか食べない』と言っていたが、では、捧げられた人間はどうなるのか。
 ユーニはクアスが以前言っていた事を思い出す。
『心から綺麗だと思える人間でなければ、番人にする意味がない』
 綺麗な人間だけが『番人』になれる。捧げられた人間が美しいなら、竜の『番人』になるのか。
 春と人間を捧げる関連性が分からないが、とにかくクアスが何もかも気に入らず苛立っているのはユーニにも伝わった。いつも以上に辛辣でわがままだ。
「……どうしてそんなに春が嫌なんですか?」
 思い切って聞いてみる。元々クアスは綺麗な顔とは裏腹に、ちょっぴりひねた物言いだが、こんなにむやみに苛立っているのは、あまりに不自然だ。
 クアスはテーブルに頬杖をついて、やや膨れたような顔をしていた。やっぱり不機嫌なまま、口を開く。
「……春は繁殖の時期なんだ。いわゆる発情期が来る。……言っただろ。竜は神様じゃない、動物だって。本当に動物なんだよ」
 発情期。
 それが何なのかくらい、ユーニも知っている。家畜小屋で寝起きしていた事もあったし、盛りのついた犬や猫なら村でもよく見かけていた。
 この、湖の精霊のような、浮世離れした美貌のクアスに、あの、翠玉の鱗を持つ幻想的なエメラルドの竜に、動物のような発情期がある。
 革のブーツを磨いていた手を止めて、思わずユーニは考え込む。とても、結びつかない……。
「忌々しい事に年二回、必ず来る。そのたびに急かされるようで、本当にイライラする。……妥協なんか絶対したくないのに、まるで追い立てられているような気さえしてる」
 クアスは中庭へ通じる窓に歩み寄って、開け放つ。晴れ間が覗いているとはいえ、まだまだ風は冷たい。その凍えた風の中にクアスは踏み出す。金色に波打つ髪と、少し華奢な印象さえ与える線の細い横顔は、何度見ても目を奪われずにいられないくらいに、優美だ。
「…………より…綺麗な番人なんか……」
 クアスの足下から這い上がる風の渦に、言葉はかき消された。クアスを包む風はいつものように、小さな嵐から、巨大な暴風へと一瞬で成長を遂げる。
 厚い雲の波間から差す穏やかな光の中に、翠玉の鱗が煌めく。風纏うみどりの竜は、新緑の翼を広げ、静かに舞い上がった。



 自分の寝台の上に寝転んで、一冬越えても変わらず小さいままのクーを両手で包んでもふもふしながら、ユーニは考える。
 色々な事が繋がってきた。
 竜の番人は、美しくなければならない。番人は竜の生命力を分け与えられ、巣作りを手伝う。財産を管理し、家事をし、竜と共に生きていく。
 竜には、繁殖期がある。
 ユーニは寝台から起き上がり、クーを枕元に離す。部屋の隅の本棚にびっしり並んだ本を眺める。一冬を越える間に、この本棚いっぱいの本を読破した。今では屋敷の書庫の本のも少しずつ読めるようにまでなった、
 並んだ背表紙を眺めながら、この屋敷に来たばかりの頃に山吹にもらった本を思い出していた。その『竜と暮らす幸せ読本』は、番人の為の本だと山吹は言っていた。慌ててライティングデスクに飛び付く。そこにしまい込んだまま、忘れていた。
 寝台に座って、引っ張り出した本をぱらぱらとめくる。あの時は全く読めなかった。ただ挿絵を眺めるだけだった。時折ある小さな挿絵は、人と竜が仲睦まじく寄り添う挿絵ばかりで、それがとても幸せそうだった事を思い出す。

『竜の巣での番人の仕事は、どこの巣でも同じです。
家事、財産管理、交尾。この三つはどこの巣でも、番人の重要な仕事です』

 そう書かれたページを見つめながら、ユーニはメレディアの言葉を思い出す。
『あの子はね、ずーっと前に失恋してから、意地になってるの。手に入らなかった綺麗なものより、もっと綺麗なものをって、こだわらずにいられないのかもしれないわね』
 クアスに愛されて、クアスを選ばなかったその人は、どんなに綺麗な人だったのだろう。
 こんなに美しいクアスが忘れられないくらいに綺麗だった、手に入らなかった人は、何故クアスを選ばなかったのだろう。
 ユーニはぼんやりと文字を凝視したまま、考える。
 美しくもない。賢くもない。少しも綺麗ではない。繁殖もできない同性だ。そしてどこの誰かすらも分からない自分が、クアスに愛されるはずがないと、番人になれるはずがないと、思い知らされる。
 ただ憐れまれただけだと分かっていたはずだ。
 優しいクアスは、見捨てられなかっただけだ。だからユーニに仕事を与え、文字を教え、生きていける術を与えてくれた。
 好きなんだ。
 息が詰まりそうなくらい、胸が痛かった。溢れた涙がポロポロと頬を伝い落ち、本を持つユーニの手を濡らす。
 クアス様が大好きなんだ。
 誰からも必要とされていなかったユーニに、手を差し伸べてくれた。どこの誰かも分からない、どこにも行く当てがない。みすぼらしく薄汚れたユーニに、居場所を与えてくれた。
 名前すらなかった。誰にも名前でなんて呼ばれなかった。もののように、家畜のように扱われていたユーニに、『夜明けユーニ』という名前を与えてくれた。
 それが憐れみだと分かっていても、ユーニの小さな世界に現れた風纏うみどりの竜は、ユーニの全てだった。


2017/12/04 up

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