竜の棲み処 君が僕の永遠(とわ)なる希望

#24 それでも、誰も憎まないのか

「……何を言って……」 
 荒々しく馬車の荷台の扉が開き、数人の男が飛び出してくる。男達は一瞬でララを捕らえた。
「な……! 離してよ! 一体、何が!」
 ユーニの手を掴んでいた男は、素早くユーニのもう片方の手を掴み、後ろ手に拘束する。
「ララさんに乱暴な事しないで下さい! ……ララさん!」
「宿屋の奥さんは帰す事になってたんだが、さて、どうするか。……おい、お前ら」
 男は背後の森を振り返る。
「……騙したの!? 嘘だったの!?」
 暴れるララを男達は簡単に押さえ込む。林道の傍の木立から、見慣れた男達が数人、走り出てくる。
 ユーニもララも出て来た男達を見て、言葉をなくしていた。見間違えようがない、村の男達だ。
「ララは返してくれ。そいつを無事売り払うまでは、村で責任もってどこかに閉じ込めておけばいいだろ。ララは村の人間だから、返して貰わなければ困る」
「嘘よ! なんで、なんでなの! この子をどうするつもりなのよ!」
「仕方ないだろう!」
 村の男はララを怒鳴りつける。
「俺達だって竜の番人になんか、手を出したくねえよ! ……けど、こいつを売れば、娘や女房を街に売らないで済むんだよ!」
「ララ、お前だって小さい娘がいるだろう。金の為に娘を売りたいか? こいつを、竜の番人を売れば、凶作が続いても村は何十年も食いつなげる。何十年もだぞ? 竜の番人は高く売れるんだ! こいつひとりが犠牲になるだけで、何人の娘達が助かると思ってるんだ!」
 ララは取り押さえられたまま、声を上げて泣き出す。
「……やめて! この子は……この子は、村を、皆を助けるために、竜に頼んでくれたのに……! この子が竜に頼んでくれなかったら、この冬の疫病で皆死んでたのに!」
「おい、ララを連れて行け!」
 引き摺られるようにララは村の男達に引き立てられる。必死でララはあがき続けるが、敵うはずがなかった。渾身の力で逃れようともがきながら、ララは叫び続ける。
「なんで知ってるのよ! なんでこの子が、竜のところにいるって、なんで知ってるの! あたし、あんなに隠してたのに! なんでなのよ!」
「……お前の子供、飴を持ってただろ」
 ララを羽交い締めにしていた男が呟く。
「見た事もない、不思議な飴だった。あんな高価そうな不思議なもの、どこで手に入れたのかって、誰だって思うだろ」
 ララもユーニも、呆然とするしかなかった。山吹にもらった、不思議に綺麗で、甘くとろけるようにおいしい飴。ユーニはあの飴を、ララとララの小さな子供達に食べさせたかっただけだった。今までララが自分の食べる分を削ってでもユーニに甘いお菓子を分けてくれたように、ララ達と分け合いたかった。それがこんな事になるなんて、ふたりとも、思いもしなかった。
 ララは羽交い締めにされながら、震える声で叫ぶ。
「……お願い、この子を竜に返してあげて。……この子はこんな酷い目にあっても、村の為に竜に頼んでくれた優しい子なのに……! ……ユーニ! ユーニ、ごめんね……! あたしがバカだった! ユーニ……!」
「ララさん! ララさん……!」
 引き摺られ、連れて行かれるララを、ユーニは為す術もなく見送るしかなかった。男に掴まれたままの両手は、痺れるように痛む。
「さて、坊やはこっちだ。……竜の番人は絶世の美形ばかりだっていうが、これはまた随分地味だな」
「……竜の番人なんかじゃないです……。ぼくは……ただの下働きです……」
 こんなところでも、この言葉を聞くとは思いもしなかった。竜の『番人』なんて、今は聞きたくない言葉だった。ユーニがなれるはずがないものだ。
「嘘ついたって誰も騙されねえよ。竜が人間を囲うなんて、番人にする以外ないからな。……さて、さっさとこの国を出ちまおう。竜に気付かれたら厄介だ」
 幾らあがいたところで、小柄なユーニがこんな大人の男達に敵うはずがなかった。もみ合ううちに、クーが鋭い鳴き声をあげる。聞いた事もないくらい、激しい威嚇の鳴き声だ。
つんざくような鳴き声を上げながらクーは激しく羽ばたき、ユーニを捕らえる男の顔に鋭い爪を立て、掴みかかる。
「いってぇ! なんだこのフクロウ、邪魔しやがって! おい!」
「クー、だめだ、逃げて!」
 傍にいた別の男が、腰に下げていたナイフを引き抜く。ナイフといっても刃渡りは蛮刀のように大きく長い。男は躊躇せず、その物々しいナイフを振り上げた。
「……だめだ、クー!」
 渾身の力でユーニは男を振りほどき、クーを庇うように両手を広げる。
「どけ、小僧!」
「逃げて、クー! 早く!」
 一瞬だった。クーの翼を切り裂こうとしたナイフは、立ちはだかったユーニの背中から腰骨の辺りまでをあっさりと切り裂いた。溢れ出た鮮血はあっと言う間にユーニの背中から滴り、足下まで伝い落ちる。
「まずい、小僧をやっちまった!」
「待て、番人なら死なない! すぐに傷なんか塞がる! こいつらは頭を潰されない限り、死なないんだ!」
 崩れ落ちるユーニの耳に、男達の声が聞こえる。背中は焼けるように熱かった。痛みというより、例えようのない不気味な感覚があった。身体からすっと力抜け落ちていく。
「……クー……逃げて……」
 地面に倒れ込みながら、ユーニは必死で叫ぶ。叫んでいるはずなのに、声は細く震え、身体は恐ろしいほど、重く感じられた。
「……番人じゃない」
 男の声が聞こえる。
「……番人じゃない。……ただの、人間だ……」
 薄れていく意識を必死に繋ぎ止めながら、ユーニは再び、声を絞り出す。
「逃げて……。クー、どうか、逃げて……」



 ユーニを乗せた小舟が見えなくなって屋敷に戻ってからも、クアスはぼんやりと中庭のガーデンベンチに座り込んでいた。
 中庭はユーニが雪解けから一生懸命手入れをしていたおかげで、これでもかとたわわに絢爛に、大輪の花を咲かせている。
 その狂おしく咲き誇る美しい花たちも、今はクアスの心に響かない。
 夕暮れは近かった。何もする気が起きなかったが、このままここにいても仕方がない。ようやくクアスは重い腰をあげる。
 居間への扉を開こうと手を掛けた時、鋭い猛禽類の鳴き声が湖上に響き渡った。驚いて空を見上げると、真っ白な翼を広げたフクロウが激しく羽ばたきながら飛んでいた。
「……クー!」
 呼びかけると、狂ったように旋回していたクーは、真っ直ぐに差し出されたクアスの左手に舞い降りた。
「クー、どうした。何があった」
 クーはクアスを見上げ、震えるくちばしを開く。逆立った羽毛も、見開かれた瞳も、尋常ではない。
「………………ク、ウ……」
 クーは絞り出すように、必死に、声を、言葉を絞り出す。鳴き声ではなかった。読み聞かせフクロウが、生まれて初めて、自分の意思で、言葉を発しようとしていた。
 くちばしが震えている。血の滲むような『声』だった。
「…ヴ……ゆ……ゆー……に…っ…ゆう…に……!」



 静かだった。あれほどさえずっていた小鳥の声も、木立を渡る風の音も、湖上の波の音も、何も、ユーニの耳には届かない。音一つない、静寂だった。
 ユーニを捕らえていた男達も、もう誰もいない。クーも無事に逃げ出せたようだった。
 身体中の血が失われていっているのだろう。とても寒くて、震えが止まらなかった。ユーニは地面に横たわったまま、血塗れの自分の右手を見つめる。
 小指には、銀色の指輪がある。茨の森を開く為に、クアスがくれた魔力の籠もった指輪だ。ぼんやりとその指輪を眺める。痛みはもう感じなかった。 
 どうして、言えなかったのだろう。
 もう二度とクアスに会えないなら、伝えたかった。綺麗でなくても、賢くなくても、伝える言葉は持っていた。
 あなたが好きです。
 あなたがぼくに与えてくれたのは、名前だけでなく、生きていく喜びと希望もでした。
 誰よりあなたを、愛しています。
 どうして言えなかったのだろう。こんなに後悔するなら、伝えておけばよかった。
 ゆっくりと目を伏せ、ユーニは願う。
 最後に、会いたかった。もう一度、一目だけでも、会いたかった。
 精霊のように美しいクアスが時々見せる、あどけなくも思えるくらい、無邪気で無防備な笑顔が好きだった。どんなに厳しい事を言っていても、本当は困っている人を見捨てられない、優しい人だとよく知っている。
 穏やかな風を纏う、エメラルドの鱗を持つ美しくも力強い風竜に、もう一度、会いたかった。
 人のクアスも、竜のクアスも、夢のように美しく、きらきらと輝いていて、大好きだった。世界で一番、強くて綺麗で、とても優しい竜だと心から思う。ここで死んでしまうなら、最後にもう一度、会いたかった。
 バカだ。伝える機会は幾らでもあったのに、どうして言えなかったのだろう。
 温もりを失っていく頬に、何か温かな雫が零れ落ちた。雫は穏やかな雨のように、優しくユーニの頬を濡らす。
 滲む視界に、光を弾いて輝く水晶のような鋭い爪と、目映いほど煌めく翠玉の鱗が見える。
「……クアス様……?」
 これが幻でもいい。命が終わるまでに、伝えたかった。言葉にしたかった。
 目の前の翠玉の竜の爪に、震える手を伸ばし、そっと触れる。
「……夢みたいだ。最後に、会いたいって願ってました……」
 降り注ぐ温かな雫は、もしかしたら、クアスの涙なのかもしれない。ユーニはぼんやりと考える。ユーニの頬を濡らす雫は、伝い落ち、小さな鈴のような音を立てた。雫は翡翠色の小さな珠になり、横たわるユーニの身体に降り積もる。
「あなたが好きです」
 やっと言えた。最後に勇気を持つ事ができた。
「……ぼくは……少しも綺麗じゃないし、賢くもないです……。でも、あなたの事が、大好きです。……大好きです」
 柔らかな金色の髪が触れる。いつの間にか、翠玉の風竜は、人の姿になっていた。
 初めて湖畔で出会った時と、変わらない。湖の精霊のように、この世の物とは思えないくらいに美しいクアスが覆い被さるようにして、冷たい大地に伏したユーニを見つめていた。
「……ユーニ……」
 うつ伏せたユーニの背中の傷に、クアスの優しい手が触れている。泣きたいくらいに嬉しかった。もう死んでしまうとしても、クアスが傍にいてくれるなら、何も怖くないと思えた。
「こんな目に遭わされても……。それでも、誰も憎まないのか。誰も恨まないのか」
 誰を憎むというのだろう。恨むというのだろう。
 誰もが幸せになりたかっただけだ。大切な人を失いたくなかっただけだ。
 もしも世界がこんなに貧しく、厳しくなかったなら、こんな事にはならなかったはずだ。
 そう、信じたかった。きっとクアスは、馬鹿だと言うだろう。自分でも、愚かだと思う。それでも信じたい。誰もが生きる為に、家族を守る為に必死だっただけだと、そう信じたかった。
 もう意識は保てそうになかった。ユーニは微かに頷く。
「……あなたが好きです」
 何度でも、言葉にしたかった。他の言葉を知らないように、ユーニは同じ言葉を繰り返す。憎しみも悲しみも、苦痛も、どこか遠くにあった。今ユーニの胸には、クアスへの思いしかなかった。命が終わるこの瞬間に、クアスが傍にいてくれる事がとても嬉しかった。他には何もいらないとさえ、思えた。
 降り注ぐ温かな翡翠の雨は、ユーニの頬を濡らし続ける。
「……あなたが……好きです……」
 最後の力を振り絞って、もう一度、呟く。言葉は声にならなかった。ただ細く途切れそうな吐息だけが、零れ落ちる。もう、深い傷の痛みは感じなかった。
 消えゆく意識の片隅で、空を引き裂くような竜の慟哭が聞こえたような気がしていた。



2017/12/14 up

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