竜の棲み処 君が僕の永遠(とわ)なる希望

#25 許せなんて、僕は言わない

 柔らかな羽毛が頬に、額に触れる。
 真っ白い羽毛のふわふわが、ユーニの肩や胸元を心配そうに歩き回っている。
 どうしてクーがここにいるのだろう。無事に逃げ出せたはずなのに。
 身体に感じるのは、冷たく硬い地面ではなかった。なめらかな絹と穏やかな温もりの肌触りだ。ここはどこなのだろう。そう考えていると、少し冷たい指先が額に触れ、やんわりと撫でていく。この手は誰の手なのか、伏せていた目を開く。
「……動かない方がいい。傷は塞がったけど、まだ動くのは無理だよ」
 聞き慣れたクアスの声だった。ユーニは恐る恐る、見上げる。
 はちみつのような波打つ金色の髪が頬に触れる。クアスの綺麗な顔は吐息が触れそうなくらい、傍にあった。
 ユーニの目の前で、かたちのいい綺麗な唇がゆっくりと動き、囁く。
「死んだ人間を生き返らせるなんて真似はできない。竜は神様でもなんでもない。……消えていこうとする命を繋ぎ止めるには、こうするしかなかった」
 クアスは投げ出されていたユーニの掌に、翡翠色の小さな珠を載せる。あの時、ユーニの頬を濡らし、伝い落ちて鈴のような音を立てていた小さな珠だ。
「これは竜の涙。……竜が絶望した時や、耐えられない悲しみを感じた時に流すものだよ。……竜の長い一生のうち、何度そんな事があるだろうね」
 翡翠の珠はユーニの掌でゆっくりと溶け、皮膚へ吸い込まれるように消えていく。それはとても温かく、穏やかな感触だった。
 「もう、君は成長も老化もしない。人の世界にも帰れない。……竜の涙を身体に取り込んだ人間は、人間でなくなる」
 ユーニはやっと気付いた。触れていた穏やかな温もりは、クアスの体温だ。クアスの胸に頬を押し当ててもたれかかったユーニの髪に、クアスのしなやかな指先が触れる。
「竜の生命力を分け与えられ、竜の番人として、身体を作り替えられる。……人でないものにしてしまった事を許せなんて、僕は言わない」
 身体は動かせそうにないくらい重く感じられたが、背中の焼け付くような痛みも、寒さももう感じなかった。触れるクアスの穏やかな温もりがとても心地よく思える。
「竜の番人は、竜の庇護なしに生きていけない。……それでも君を死なせたくなかったんだ」
 再び、ユーニの頬に温かな雫が零れ落ちた。ユーニの丸い頬を伝い落ちた雫は、翡翠の珠となり、ユーニの身体に触れ、溶けるように吸い込まれていく。
「……人としての幸せを奪った事も、これからの長い命をその未熟な身体で生きていかなければならない事も、謝らない。……君に恨まれてもいい。生きていて欲しかった」
 零れ落ちる竜の涙は次々と翡翠の珠に変わって、ユーニの頬を、胸元を、滑り落ちていく。
 このゆめまぼろしのように美しい人は、こんなに幼く、子供のようだっただろうか。あんなに強く賢く、美しいクアスが、今は子供のように頼りなげにユーニには思えていた。
「……ぼくは、綺麗でもないし、賢くもないです……。どこの誰かも分からないし、竜の子供も産めません……」
 クアスの頬を滑り落ちる雫に、ユーニはそっと指先を伸ばす。自分の腕とは思えないくらいに、重く感じられていた。
「……人でなくなっても、人として生きられなくても、。……あなたの傍にいたいです。。……あなたが好きです」
 人としての幸せも、人生も、いらない。クアスの傍にいられるなら、何もかも捨て去れるとユーニは思う。
 降り注ぐ竜の涙は、穏やかな春の雨のように優しくて、切なくなる。伝い、零れ落ち、小さな音を立て、ユーニの身体の深い傷を癒やす。
 震える両手でクアスの背中を抱いて、ユーニはそっと目を閉じる。



「……ユーニがそう言うから、やらないだけだ。あんな村、羽ばたきだけで消し飛ばせる」
 ユーニの寝台のすぐ傍に椅子を置いて本を読んでいたクアスは、不機嫌に口を開く。クーはそのクアスの肩の上から降りて、ユーニの枕元で丸くなってうとうとしていた。
「川を氾濫させて流してやったっていい。……あいつら、どれだけユーニに救われてると思ってるんだ」
 ユーニの怪我は随分よくなったが、まだ暫くは臥せっていなければならない。番人が幾ら強靱な身体を与えられていても、傷を塞ぐには体力を使う。大半の血を失った身体はまだまだ快癒にはほど遠い。
 やっと起き上がれるようになって気付けば、窓の外は激しい嵐だった。竜は天候を操る。誰がこの嵐を起こしたのか、聞くまでもない。クアスの怒りはなかなか収まらず、ユーニが止めなければこの嵐はいつまで続いたか。
「あの、ララさんに連絡を取りたいんです。……きっととても心配してるから」
 暫くの沈黙があった。クアスは渋々、という顔だ。
「……ララなら来た。嵐だっていうのに小舟でここまで来ようとしてたよ。クーが気付かなかったら、死んでたかもな」
「……! 無事でしたか!」
「無事だよ。ユーニが連れて行かれた、助けてくれって泣いてた。……ちゃんとユーニは連れ戻したって言っておいたよ」
 ララは村の人間だ。酷い事はされないとは思うが、どうしているか心配だった。
「……よかった。ララさんにも、心配かけてしまいました……」
 思わずほっと安堵のため息をつく。そのユーニの顔を、クアスはじっと見つめていた。
「……あ、な、なんでしょうか……」
 あまりにじっと見つめられて、ユーニはかあっと赤くなってしまう。こんなに見つめられていると、どきどきしすぎて落ち着かない。
「僕も心配した」
「あ、そ、それは……ごめんなさい。たくさん心配も、迷惑もかけてしまいました……」
 枕元で寝入っているクーを起こさないようにしながら、慌てて起き上がる。クアスはまだ見つめていて、ユーニは心臓が飛び出しそうなくらい、ばくばく脈打っているような気がしていた。こんな綺麗な目で見つめられていたら、心臓がどうにかなりそうだった。
「……そうじゃなくて」
 なんだかクアスはいらいらしているというか、焦れているというか。そわそわしているようにも見える。
「……あ! ありがとうございます! ……元気になったら、また頑張って働きます!」
「……もういいよ」
 完全に拗ねた口調だ。よく分からないが機嫌を損ねたのは間違いない。
 ユーニは必死で考える。クアスが何を求めているのかさっぱり分からないが、なんとかしなければならないような気がする。
「ええと……ええと……」
 うろたえながら必死に考えるユーニを見て、クアスは目を細めて、笑う。子供のように素直な、あどけなささえ感じさせるクアスの笑顔に、ユーニは余計にどきどきしてしまう。
「……笑ってよ」
 クアスの指がユーニの痩せた頬に触れる。
「笑って。……もうずっと、ユーニの笑顔を見ていない。……僕の為に、笑ってよ」
 深い森の色の竜眼が、すぐ目の前で瞬いた。
 その綺麗なみどりの瞳に、自分の姿が映っている。やっぱりとても綺麗だ、そう考えた瞬間に、柔らかにクアスの唇が、ユーニの唇に触れた。
「……目が覚めたら伝えようと思っていたのに」
 一瞬触れた唇が、唇が触れそうな距離で、囁く。
「君が好きだよ」
 ユーニの唇が震える。嬉しいのに、何故かとても泣きたくなった。こんなに幸せなのに、胸が痛かった。
「……ぼくは、ちっとも綺麗じゃないし、賢くもないです……」
「僕は綺麗だと思ってる」
「……どこの誰かも、分からないです……」
「……僕の『夜明け(ユーニ)』だけじゃだめなのか? それから、そろそろ僕の番人を悪く言うのはやめてもらおうか」
 クアスの柔らかな両手に抱きしめられて、耐えきれなかった。ユーニは小さくしゃくり上げながら、泣き出す。
「……クアス様の子供も産めないです」
「僕もユーニの子供を産めないな」
 耳朶に触れるクアスの唇は、小さな笑い声を洩らしていた。
「怒ればいいのに。……もう一生背が伸びなし、身体が小さいままなんて、ひどいって」
 クアスはユーニの額にこつん、と額をあてて、囁く。
「笑って。……僕の夜明け(ユーニ)


2017/12/15 up

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