竜の棲み処 君が僕の永遠(とわ)なる希望

#26 竜の番人

 以前と同じようにユーニが歩き回れるようになった頃には、もう茨の森にも屋敷の庭にも、夏の兆しが訪れていた。
 幾ら番人になったとはいえ、ユーニは元々が痩せて小さくて、体力がなかった。瀕死の重体から健康になるまで時間がかかるのは仕方がない。
 番人になって変わったところと言えば、妙に体力がついたところか。痩せすぎで小さかったユーニは、力もなければ体力もあるとは言い難かったが、今は疲れを感じるような事がほとんどない。
 ユーニは小分けした生地をひとつずつ丁寧にのばしながら、考える。
 今作っているのは、ナッツをぎっしり挟んで焼き上げて、蜜をたっぷりかけた甘いパイ。これはクアスの好物だが、作るのがとても大変な菓子だ。薄くのばした生地を何層にも重ねて、溶かしバターとナッツを挟む。この『薄くのばした生地』を幾つも作るのが大変な重労働だったが、今は全く苦にならない。軽々と作れるようになった。思えば、毎朝のパン作りも楽になった。生地を捏ねるのは体力が要ったはずだが、今は楽々とこなせる。
「普通の人間より体力も腕力もあるはずだ。竜と暮らすには、ある程度竜の屈強さに付き合えないとならない。だから竜の生命力と体力を分け与えて、番人にするんだよ。詳しい事は僕も知らないけど。そういうものだと聞いて育った」
 ちょうどパイをキッチンストーブのオーブンに入れたところに、クアスは帰って来た。いつもより早い帰巣でお茶の用意ができておらず、ユーニは大慌てだが、クアスは全く気にしていないようだ。厨房のテーブルについて、テーブルの上にあった木苺をクーと仲良く一緒に食べている。
「多分、番人になる前に身体にあった小さい傷跡なんかも消えたはずだ。元々あった大きい傷は消えないけど。父さんも番人になる前は騎士で、顔や身体に大きな刀傷があった。それはさすがに今も消えていない。まあ母さんはその傷も色っぽくて素敵だって喜んでるからいいのかな」
 元騎士で顔にも身体にも刀傷があって、料理やお菓子作りが得意。ユーニが想像していた『息子にパンケーキを作ってあげるお父さん』という人物像から大きくかけ離れていて、どんな人なのか想像できなくなった。
 村にいた頃はユーニも生傷が絶えなかった。手足には小さな火傷の痕や、ナイフや鉈でつけた切り傷があったが、言われてみればそれらがひとつも残っていない。
 あの蛮刀で切り裂かれた背中も、綺麗に何事もなかったかのように、治った。全く跡形もない。
「よく分からないけどすごいです。……何より、掃除や洗濯が楽になったので助かります」
 今のところその恩恵が一番、ユーニにとって分かりやすい。せっせと茶器を並べながらユーニは応える。
「いい事ばかりじゃないんだ。……人間とは一緒に生きていけなくなるという意味を、これから思い知らされるよ。きっとね」
 それはユーニも分かっていた。ララやユーニを騙して連れ去ろうとしていた男達は、『竜の番人は高く売れる』と言っていた。ユーニは平凡な顔立ちだが、これで美貌だったなら。
 美貌で、長い命があって、歳も取らない。大怪我を負っても死なないし、綺麗に治る。永遠に若く美しいままで、強靱な身体を持っている。
 邪な考えを抱く悪い人間がいないなんて、言えるはずがない。現にユーニは死ぬところだった。
「まず、言わなければならない事がある。……ララとはもう二度と会わない方がいい」
 暫くの沈黙があった。言われるまでもなく、ユーニもそれは予感していた。
「……ユーニが無事だという事も、番人だと言う事も、馬鹿な人間たちに知られたら、ユーニだけではなく、ララの身にも危険が及ぶ」
 あの時、村の男達はララを騙してユーニを連れだそうとしていた。もしもユーニが生きている事、番人になった事を何かの折に知られたら、またララに危害を加えるかもしれない。
 ユーニを、番人をおびき出すためにララを利用しようとする者は、村の男達だけではないだろう。あの馬車の男達のように、人買いは存在するのだ。
「……それは……仕方のない事だとぼくも思います……」
 お茶を淹れる手を止めて、俯く。決してクアスを責めるつもりはない。そうしなければ、ユーニは死んでいくしかなかった。
「嵐の日にララが来たと言っただろう。……ララも、これで最後にすると言っていた」
 それでいい。ララや、ララの家族を危険にさらすなんて、ユーニも望んでいない。それを恨もうなんて、思うはずがなかった。ユーニは小さく頷く。
「ララさんにもたくさん迷惑をかけました。……これ以上、ララさんの負担になるわけにいはいかないです」
 人間の世界になんて、元から居場所がなかった。
 クアスに出会うまで、ユーニはひとりぼっちだった。ララのように時々は優しくしてくれる人はいた。それでも、暖かい家庭なんて縁遠かった。毎日、真っ暗で隙間風の吹き込む小屋のささくれだって傾いだ床に、ボロボロの毛布に包まってひとりぼっちで眠っていた。
 元から失うようなものなんて、何もなかった。安らぎも、生きている喜びも、誰かをこんなに愛する気持ちも、クアスが与えてくれたものだ。
「それを恨む気持ちもないです。……ぼくは、クアス様の傍にいられれば、他に何もいりません……」
 それが全てだった。他に欲しいものなんてなかった。
 少しの沈黙の後、クアスはゆっくりと口を開く。
「もうひとつ、君に知らせなければならない事がある」
 クアスの口調は重い。不機嫌と言うよりは、言いあぐねているように見えた。
「君を捜している人物は、本当にいる。……あの人買いどもは、その噂を利用しただけだ」
 あまりに突然で、ユーニはすぐに言葉が出てこなかった。何を言えばいいのか、分からない。
「調べたんだ。……他にいる。今も十五年前に行方不明になった男と赤ん坊を捜してる。……ユーニ。君を捜してるんだよ」
 全部嘘なのだと思っていた。捜している人なんていない、これで終わったのだとばかり、思っていた。予想もしていなかったクアスの言葉に、ユーニは混乱せずにいられなかった。
「……だって、嘘だって」
「あいつらはそれを利用しただけだ。……まだ僕も調べている最中で、君を捜している人物が何者なのかまでは分からない。もうそろそろ、向こうも僕が嗅ぎ回っているのに気付くかもしれないな。……多分、あれはこの国の人間じゃない。他国の者だ」
 言葉が出てこない。これが嬉しい事なのかそうでないのかすら、ユーニには分からない。
「……彼らの目的が何なのかは分からないが、かなり焦っているようだった。……ユーニ」
 呼びかけられ、ユーニは慌てて顔をあげる。
「もしも本当の母親が捜していたら、会いたいんじゃないのか。自分が本当は何者なのか、知りたくはないのか?」
 動揺せずにいられなかった。会いたくないと言ったら、知りたくないと言ったら、嘘になる。けれど人でなくなった今、そんな事が可能なのか。
「……本当の母親と再会して、一緒に暮らしたいと思っても、もうそれは叶わない。普通の子供のように、幸せな家庭で暮らす事もできない。人でなくなってしまった今、竜の番人として、この狭い巣の中でしか生きていけない」
 クアスが何を言いたいのか、分からなかった。動揺し戸惑ったまま、ユーニはクアスを見つめるだけだった。
「……それでも君は、僕を恨まないのか。……人でなくなった事を、後悔しないでいられるのか」
 クアスは自分を責めているのだと、ユーニはようやく気付いた。今更、ユーニを捜す人物が本当に存在すると知って、クアスも動揺しているのかもしれない。ユーニを番人にした事を、後悔している。
 ユーニからも、その誰かからも、『普通の人間の幸せ』を取り上げたと思っている。
 耐えきれなかった。ユーニは恐らく、生まれて初めて、声を荒げた。



2017/12/18 up

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