ユーニはジェラルダインの手を取ったまま、その白み始めた東天を見守っていた。
時折ジェラルダインを休ませながら、随分たくさんの話をしたような気がする。
「……お母さんって呼んでもいいですか……?」
そう尋ねると、ジェラルダインはユーニを見上げ、嬉しそうに微笑む。
「嬉しいわ。……夢みたい」
「お母さん……会えてとても嬉しいです。……いつかお母さんに会えたらって、何度も夢見ていました」
もしも真実がどんなに残酷でも、悲しくても、辛い現実だったとしても、受け入れようと思っていた。今ここにユーニがいるのは、ジェラルダインとエリアスが、両親がいてくれたからだ。
「辛くて悲しい事もたくさんありました。普通の子供達のように、お父さんとお母さんと、貧しくとも幸せに暮らせたならと思う事もありました。……でも、お母さんを恨もうなんて、思えません」
まだ赤子だったユーニを連れた父が、あの極寒の名も無き村まで辿り着かなければ、クアスに出会う事もなかった。
処女王が無冠の学者と恋に落ちなければ、ユーニは生まれて来なかった。ユーニを護る為に父が国を出て行かなければ、あの極寒の名も無き村まで辿り着かなければ、竜の生贄として捧げられる事にならなければ。
クアスと結ばれる今は存在しなかった。風纏う竜の『夜明け』は存在しなかった。
「……『夜明け』という名前は、大好きな人が付けてくれました。……とても大切な名前だけれど、お母さん。お母さんとお父さんが付けてくれたぼくの名前を知りたいです」
ジェラルダインは微笑みながら、ユーニの話を聞いていた。
「あなたのお父さんと、ふたりで考えたわ。ケンカになるくらい、二人で真剣に考えたわ。……『シア』というの。……クラジェの古い言葉で、『永遠』という意味よ」
ジェラルダインは窓の外に目を向け、蒼ざめた空に消え残る、折れそうに細い月を見上げる。
「……私たちは何一つ確かなものを持てなかった。あなたが生まれるまで、何もなかった。……だからあなたが私たちの『永遠』だった。……あなただけが、真実で、確かな事で、どんな事をしても、誰かに誹られても、護りたかった……。……今だけ、シアと読んでもいいかしら」
ユーニはジェラルダインの手を握りしめたまま、頷く。頷く事しか出来なかった。何か一言でも口にしたなら、泣きだしてしまいそうだった。最後は穏やかに彼女を見送りたかった。
「シア。……クラジェの古の神々よ、どうか私たちの
それがクラジェの女王の最後の言葉だった。
夜明けの空に、深い森に、街道に、街並みに、追悼の鐘が鳴り響く。
女王の逝去を告げる鐘の音は、クラジェの国中に響き渡る。その鐘の音を、ユーニは針葉樹の森に護られた小高い丘の上で、クアスとふたり、並んで聞いていた。
「母親に会えて、よかったと思える?」
クアスにそう尋ねられ、ユーニは静かに頷く。
「本当の名前も教えてもらいました。『シア』だそうです。クラジェの古い言葉で、『永遠』と言う意味だと言ってました」
クアスはシア、と声に出して呟く。
「いい名前だ。……呼びやすくて、優しい響きだ。『
「……お父さんもお母さんも、何も確かなものが持てなかったって。二人の間に生まれたぼくだけが確かなものだったと言っていました」
国家の妻である処女王と、無冠の学者。許されざる恋に落ちたふたりは、誰からも祝福なんてされなかった。だからこそ生まれたユーニだけが『永遠』だったのかもしれない。
国家に全てを捧げた女王は、何一つ自由にはならない。誰かを愛することすら許されなかった母は、我が子と夫が謀略渦巻くクラジェではなく、どこか遠くの国で、幸せに穏やかに暮らして欲しいと願っていただろう。
「夜が明ける。……当たり前だけど、夜明け前が最も深い闇だ。でも、どんなに暗い夜にも、必ず朝がやってくる。日は必ず昇るんだ。……ユーニ」
クアスはユーニの手を取り、囁く。
「ユーニには、『夜明け』以外に、もう一つ意味がある。……『希望』という意味だ」
昇り始めた朝陽が、穏やかにユーニとクアスを照らす。
「暗闇に光が差すから、『夜明け』を『希望』と呼ぶんだろうね。……今ならその理由がとてもよく分かる」
ユーニがクアスに出会ったのも、夜明けだった。
暗闇をひたすら駆け、逃げ続けた。薄闇の森を抜けて辿り着いた夜明けの茨の湖の美しさを、今も鮮明に覚えている。あの時、靄に包まれた湖のほとりに現れた、湖の精霊と見まごうような美しい青年から差し伸べられた救いの手は、ユーニの『希望』でもあった。
「……とても不思議に思います。クラジェの女王が学者と恋に落ちなければ。お父さんがあの村まで追われ、逃げて来なければ。あの村の人達がどこの誰かも分からない行き倒れの子供を、貴重な食料を分け与えて育ててくれなければ……」
いい事も、悪い事も、嬉しい事も、悲しい事も。全てに導かれて今ここに、クアスの元に辿り着いた。
「……クアス様が、ぼくの『
朝陽の中で輝く蜂蜜色の髪が、ユーニの目の前に零れ落ちる。鮮やかなみどりの瞳が近付いて、クアスの唇が柔らかに、ユーニの額に触れた。
「君は僕に助けられたと思っているだろうけれど、救われたのは君だけじゃない。……暗闇に差した光は、ユーニだった。……君に出会うまで、とても長い間、ずっと彷徨っていた。何が欲しいのかも見失っていた僕に、君はたくさんの事を教えてくれた。……誰かを大切に思う気持ちも、君が教えてくれた事だ」
クアスはユーニに右手を差し伸べる。そのしなやかな指先から、小さな風が生まれる。少しずつクアスを包んでいくその風は、花片を運ぶ穏やかな春の嵐のようにも見える。
「行こう、僕の
風は一瞬で旋風に育ち、暴風になり、そしてその嵐の中から翠玉の鱗に包まれた、風纏う竜が現れた。陽光を受け、巨大な身体を覆い尽くすエメラルドの鱗は、七彩の濃淡に彩られる。その姿は恐ろしくも美しく、気高い。
人のクアスも、竜のクアスも、たまらなく美しく愛しく思えるのは、変わらない。
水晶のような爪を持つ大きな前脚を両手で抱いて口付けながら、ユーニは目を閉じる。
風纏う翠玉の竜と、千年の時を越える。それは幸せな事ばかりではないかもしれない。辛く悲しい事も、また起こりえるだろう。
それでも、日はまた必ず昇る。『永遠の希望』を信じている。
【君が僕の永遠なる希望・完】