普段の可愛らしい子犬のヨルは、擬態だ。有事には巨大な黒い魔犬に変貌する。爪から赤い焔、口からは地獄の業火のような火炎を吐く、本物の魔犬だ。
ユーニも一度、本当の姿である巨大な黒い魔物のヨルを見た事があるが、筆舌にしがたい迫力だった。牛よりも大きい身体で、目からも爪からも真っ赤な焔が吹き出していたが、それでもどこかいつもの可愛い子犬のヨルの面影があるから不思議だ。
ヨルの子供は、ヨルと普通の犬の間に生まれた。要するにヘルハウンドと犬のミックスだ。ヨルによく似たつやつやで真っ黒な被毛に、ふさふさの尻尾を持つ、とても可愛らしい子犬だ。
犬が大好きなユーニの為に、クアスは繁殖期前の大事な時期に、遠く離れたロスタン大陸のルトリッツ騎士団国にあるタキアの巣まで行って、ヨルの子供をもらってきてくれた。
タキアとルサカが可愛がっていた大事な子犬だ。それを譲り受けたのだから、たくさん可愛がりながら立派に育てなければならない。
ユーニは悩んだ末に、父親であるヨルの名前の由来『夜みたいに真っ黒』と、自分の名前である『
クーも立派にお兄さんぶりを発揮して、ニアと大の仲良しだ。ユーニにもクアスにもよくなついて、皆で可愛がっていた。
目を覚ましたクアスが厨房にやってくると、ユーニはちょうど、クーとニアに朝ご飯を食べさせているところだった。
「おはよう、ユーニ」
「おはようございます、クアス様。今、お茶を淹れますね」
仲良く朝食を食べるクーとニアを、にこにこしながら眺めていたユーニは立ち上がって振り返った。
「ニアは太くて立派な脚をしているから、きっと大きくなりますよね。大きいヨルさんくらいに、大きくなるのかなあ。それとも、普通の大きい犬くらいかな」
淹れ立てのお茶をテーブルに並べ、ユーニはキッチンストーブへ歩み寄り、湯気を立てているスープ鍋から皿へとスープをすくい上げる。
「タキアもこの子が初めての子犬だから、さっぱり分からないと言っていたな。ダーダネルス百貨店のペットショップに問い合わせたそうだが、彼らも分からないらしい。過去に何頭か生まれたらしいけど、両親のどちらに似るのかまちまちで、はっきり言えないそうだよ」
「そうなんですか。楽しみですね! どれくらいまで大きくなるのかなあ」
スープ皿をクアスの目の前に並べると、ユーニは再びニアに歩み寄る。
「ニア、ごはんは? もっと? ……クアス様、最近ニアはすごくよく食べるんですよ。毎日クーと追いかけっこして遊んでるからかな」
「まだまだ食べ盛りの子犬だからね」
子犬を可愛がるユーニは、まぶしいくらいにきらきらした笑顔だ。クアスもそれが嬉しいのか、席を立ちユーニの隣へ歩み寄る。
「早く大きくなって欲しいなあ……。あ、でも、子犬のニアも可愛いし、ずっと子犬でもいいかな。クアス様もそう思いませんか? 大きくても小さくても、可愛いですよね」
一心不乱に食べるニアに目を細め軽く背中を撫でてから、ユーニはクアスを見上げる。
「最近ユーニはニアの事ばかりだな」
クアスの両手にするっと抱き寄せられ、ユーニは思わずかぁっと頬を染める。こんな風に抱き寄せられるのなんてよくある事なのに、そのたびにどうしてもどきどきしてしまうし、頬が熱くなってしまう。少しも慣れない。
「あ、え、だ、だめですか?」
「だめじゃないけど、ニアやクーばかりでなく、もう少し僕も構ってよ」
目の前にクアスの綺麗なみどりの瞳があった。ユーニがまごまごしている間に、綺麗に整ったクアスの唇が、ユーニの唇に触れそうに近付いていた。
「あ、あの、唇が」
クアスの吐息が唇に触れる。ほんのりと甘く桃の香りがするような吐息に、ますますユーニの心臓は壊れそうなくらいに脈打つ。
クアスの小さな笑い声が聞こえた。
「ん」
ユーニの唇に、クアスの唇が触れ、柔らかく食まれる。ユーニを抱き寄せていた手は、ユーニの頬に触れ、首筋を撫で、胸元に滑り落ちた。
きゅん、と小さく鳴くニアの声が聞こえる。
「……クアス様、ニアが、呼んで」
「ユーニは今、僕のものだからニアは後で」
ニアは不満げにもう一声、鳴いた。クーはもう慣れたものだ。こうなったらクアスは引き下がらないとよく分かっているので、テーブルのパン籠からパンを蹴り落とし、勝手につついていた。お替わりは自分で用意だ。
「……あの、あの……っ」
唇を啄んでいたクアスの唇が顎先に触れ、喉に甘く吸い付き始める。朝から、こんなところで? とユーニは慌てていた。
「ここじゃいや? じゃあベッドに行く?」
そう囁いたクアスの手がいつの間にかユーニのシャツの中に入り込んで、素肌に触れていた。
きゅん! と大きな声でニアが鳴いている。ユーニを呼んでいるが、今、ユーニはそれに気付く余裕がなかった。
「……あ、こら、ニア。服に噛み付くな」
どうやらニアはクアスの服の裾に噛み付いて引っ張っているようだ。クアスが叱っているが、やめる気配がないようで、ユーニの素肌のなめらかさを楽しんでいた手が、シャツの中から引き抜かれた。
「だから今、ユーニは僕のものだんだと……熱っ!」
クアスの足に両前脚をかけて、わんっ! と吠えたニアの口から、真っ赤な焔が吹き出した。クーも驚いたのか、くぅ!? っと鋭く一声鳴く。
大きな焔ではないし一瞬だったが、確かに、真っ赤な焔が吹き出していた。
「あああ! この服気に入ってたのに、焦げたじゃないか!」
クアスは慌ててニアを抱き上げ、鼻面を付き合わせる。ユーニからはどこが焦げたか見えないが、シルクを焼いた焦げくさい匂いが厨房に充満していた。
「まさか火を吐くとは……。驚いたな。半分はヘルハウンドだって、忘れちゃいけなかった」
ユーニも驚いた。驚くあまり、言葉が出てこない。
ヨルの目や爪から焔が吹き出しているのは見たが、火を吐くところは見た事がなかった。ニアの小さな焔でも、大迫力だった。
ニアはきゅんきゅん鳴きながら、尻尾と耳をしょんぼりとしおれさせていた。
「……ああ、エサが足りなかったのか。悪かった。まだ食べたかったんだな」
足元のエサ皿が空な事に、クアスも気付いた。もっと食べたかったニアは、それでユーニを呼んでいた。可哀相な事をしてしまったと、ユーニも反省する。ユーニが悪いのではなく、やきもちを焼いてユーニを独占しようとしたクアスが悪いのだが、ユーニは生真面目にニアに謝る。
「ごめんね、ニア。今用意するから」
「いいかニア、いくら腹が立っても、そう気安く火を吐いたらだめだ。火事になるかもしれないし、誰かに怪我をさせるかもしれないだろ。僕の服を焦がすくらいならいいが、火事になったら大変だ。家の中で火を吐くのは絶対にダメだ」
クアスはニアを床に下ろし、しゃがみ込んで目を合わせてお説教を始めた。ニアも悪い事をしたと思ったのか、背中が丸まっている。上目遣いできゅーん、と情けない声をあげながら耳をへたりと寝かせ、神妙に反省しているように見えた。
「クアス様、ニアがもっとごはんをって言っているのに、ぼくたちが無視したのが悪かったんです。だから、そんなに叱らないであげて下さい」
思わずニアに助け船を出してしまったが、クアスの言う事ももっともだ。すぐに火を吐くようになってしまったら、大変な事になってしまう。
子犬のうちに躾けないとならない、重要な事だ。
「ちゃんとエサは食べさせる。食べさせたら、ちょっと訓練してくる。……ああ、ユーニ。そんな心配そうな顔をしないでいい。僕も竜だ。魔法は一通り使えるし、ニアの訓練くらいは問題なくできるはずだ。こういう事もあろうかと、ちゃんとヘルハウンドの飼い方の本を山吹さんから買って読んでおいてある」
意外にもユーニ以上にクアスは先回りして考えていた。
叱られてしょんぼりしたニアを撫でてやりながらお替わりを食べさせつつ、ユーニはクアスはやっぱり頼れると感心していた。
「きっとクアス様は可愛がりながら訓練してくれるって思います……でも、あんまり厳しくしないであげて下さいね」
「ちゃんと遊ばせながら覚えさせるよ。まだ子犬だからね……。クー、お前も手伝え」
お腹いっぱいパンを食べて、テーブルの上で満足そうにくぅくぅ言っているクーを摘まみ上げ、クアスは言い聞かせている。
火を吐くなんて驚いたけれど、それでも変わらずニアは可愛い。
となると、ヨルのように大きくなるのだろうか。
想像すると、ちょっぴり怖いような、楽しみなような。複雑な気持ちだ。