「カインさあ、最近変な女に引っかかってないか?」
アベルは詰め所の椅子に座って防具の手入れをしながら、傍で休憩がてらに茶を飲んでいるカインに尋ねる。
まあ、変な女に引っかかっている。確かに。
思わずカインも納得してしまう。
「くそ真面目だからなあ。変な女に騙されて入れ込みそうだよな。……貢いでるのくらい、俺だって気付いてるぞ」
魔法騎士の数は少ない。
昔はそれなりにいたようだが、年々、魔法を使える者が減っている。淘汰される能力なのかもしれない。
騎士としての才能と、魔法の才能、両方に恵まれる者は少数だ。
兄弟で同じ部隊に配属される事はあまりないが、魔法騎士は別だ。数が少なすぎて、訓練の都合上、一纏めに集められている。
おかげでカインの行動はアベルに筒抜けだ。
貢いでいる訳ではなくて、正当な薬の代金を払いに行っているが、端から見たら口説きに通っているように見えるかもしれない。
一応は、アベルに気付かれないよう、アベルの宿直の日等を狙ってルズの蒼い森に通ってはいるが、アベルもバカではない。
さすがにそろそろ気付いたか。
アベルはエルーに会ったあの時、意識不明の重篤な状態だった。
ルズの蒼い森の、焔の魔女に会った事なんて覚えてもいないし、気付いてもいないだろう。
うまくやればアベルに気付かれないうちに返済出来るかと思っていたが、焔の魔女は手強すぎた。
「人の色恋沙汰に口だししたくないけどさ、やっぱり心配なんだよ。……今度その女に会わせろよ。どんな女なのかくらい知りたい」
アベルが心配してくれる気持ちはよく分かるし、ありがたくも思う。
だが、アベルの薬代の為に焔の魔女と取り引きした事を、アベルに知られるわけにはいかない。そんな負い目を持たせたくなかった。
「弟に心配されるほど、騙されやすくはないさ」
アベルは露骨に不満そうだ。分かりやすく、そのまだ幼さを残した口元を歪める。
「知ってるんだぜ。宝石商から雑貨屋から美術商から、片っ端から回ってるの。どんだけ金の掛かる女なんだよ」
そこまで調べられているのは予想外だった。
思えば昔から、アベルはカインの行動にとても敏感だった。やたらに干渉してくる。
二人だけの兄弟な上に、早くに両親を亡くしたせいか。
今はそのアベルの過干渉が少々困る。
「どれもこれも突っ返されているから、金は掛かっていないな」
今まで持って行って受け取って貰えたものなんか、何一つないのではないか。
それくらい、エルーのえり好みは激しい。どんなものなら満足するのか、さっぱり分からない。
予想外の返答だったのか、アベルが少しの間、黙り込む。少し考え込んで、それから、にやっ、と少々人の悪い笑みを浮かべた。
「……なーんだ、振られてるのか」
アベルはまだニヤニヤと笑っている。
「兄さん不器用だからな。……女の子が喜びそうなものとか、分からないんだろ」
「お前だって、誰かと付き合った事なんかないだろ?」
珍しく、『兄さん』なんて呼んでいる。騎士団に入ってからは、照れがあるのか名前で呼んでいた。
久々のその『兄さん』呼びに、カインも思わず和んでしまう。
「俺はね、安く自分を売らないの。その辺のどうでもいい女なんかいらないの」
確かにアベルは女性に人気がある。
この柔らかな淡い栗色の髪と明るい榛色の瞳は、身内の欲目を差し引いても、魅力がある。明るく陽気な性格も、女性に優しいそつのない立ち回りも、好かれるだろう。おまけに、希少な魔法騎士で、将来有望。
我が弟ながら、華があるとカインも常日頃思っている。
だが、どれだけ女性に好意を寄せられてもすべて断っていた。それはカインもよく知っている。
「付き合うだけなら幾らでも相手はいるけどさ。俺は運命の女を探してるんだよ。命を捧げてもいいくらいの女をね」
手入れの終わった防具を片付けながら、そんな事を自信満々に言い放つ。
「随分ロマンチストだな。そんな物語の中のような話、あるわけないだろう」
大人になったようで、まだまだ子供だ。アベルは子供の頃から、この陽気で明るい性格からは考えられないくらい、夢見がちでロマンチストだった。
「そうやってつまんない女で妥協したくないんだよ。夢見るのは自由だからな」
アベルは手早く手入れ道具を片付けて、カインの目の前に立つ。
「ほら、行こうぜカイン」
「……なんだ?」
飲みかけのお茶を持ったまま、目の前のアベルを見上げる。
「俺の自慢の兄貴に口説かれて、首を縦に振らない女とか、どんだけ手強いんだよ。……俺がその女が受け取らずにいられないようなもの選んでやるから、商店街に行こうぜ」
確かに、堅物で色恋沙汰から遠かったカインよりは、アベルの方が女性が喜びそうなものをよく知っていそうだ。
焔の魔女とは言え、エルーも若い女性だ。
若い女性が喜ぶようなものをアベルに見立てて貰うのも悪くないかもしれない。
「で、ランアークの魔法騎士を袖にするようないい女は、どんな女なの? だいたいの見た目教えてくれよ。……似合いそうなもの探すから」
石畳の商店街を歩きながら、アベルは機嫌がいい。
弟にかまけてばかりで女っ気が全くなかった兄を心配していたのは間違いない。
変な女に引っかかったと思ったら、逆に兄が入れ込んでいて袖にされている。そんな事情なら、堅物の兄のために一肌脱ごうという気持ちなのだろう。
実際は口説いているわけでも、袖にされているわけでもないが、口説きに通っていると思われた方が都合がいい。
カインは特に弁解しようとも思わなかった。
「うーん……。燃えるような赤毛をしている。色白なせいで、ものすごく映える。あんな見事な赤毛を見た事がなかった」
薄暗い店の仄明かりに照らされるエルーを思い浮かべる。
妖しい薬を商う魔女とは思えないような、子供っぽく無邪気な頬をしていた。
「年齢は?」
「二十歳ぐらいじゃないかな……。少女と言うには大人びているが、大人というほど大人でもないような」
「赤毛の女かあ。赤毛は気性が激しいっていうよな。……瞳は?」
宝石商の店先を覗き込みながら、アベルは兄が恋い焦がれる女を思い描いているようだ。
「すみれ色だな。……これも見た事がないような、見事な色だった。本当にすみれの花みたいだったな」
ニヤニヤしながらアベルが振り返る。
「で、美人?」
そこでカインは言葉に詰まった。
確かに、エルーは美しかった。
この世のものとは思えないような、人と異なる生き物ではないか、と思えるくらいに、神々しく、禍々しく、美しかった。
白磁のような頬に、すらりとした長身に、なめらかな肌に、豊かな胸……。その、エルーの胸元を思い返したところで、思わずカインは顔を赤らめる。
あの胸は、堅物のカインでも思わず何度か見惚れてしまっていた。この赤面は、そのエルーの胸元ではなく、そんな下衆な事を考えた自分への羞恥だ。
「へー……。すごい美人なんだろうな。カインにそんな顔させるなんてさ」
アベルはますます、興味を持ったようだ。
「色白、すみれ色の瞳、赤褐色の髪。……官能的な美人ぽいなあ。……いつか会わせてくれよ、カイン」
「そのうちな」
あまり興味を持たれても困る。
返済がなんとか終わらない限り、会わせたくはない。
その返済も全くめどが立っていないし、五年以内に支払いを完遂出来なければ、カインはこの身をもって支払いに充てなければならない。
「その、すげなく突っ返すつれない美人が、思わず受け取りたくなるようなの選んでやるから、期待してろよ。カイン」
アベルはものすごく張り切っているが、そう簡単にあの魔女が受け取るなら、苦労がない。
お前が考えるより、何十倍も変わっていて手強い女だぞ。
「……なにこれ、すごい……。綺麗……!」
こんなはっきりと、エルーが喜んだのは初めてだ。
見るからに気に入っているのがよく分かる。あの不思議なすみれ色の瞳が、きらきらと輝いている。
アベルが自信満々にこれを選んだ時、そんなもので喜ぶなら苦労がない、と内心馬鹿にしていたが、カインは心から反省した。
アベルの方が、よほど女心を分かっている。
エルーは大事に両手で持って、それはそれは嬉しそうに、見つめている。
それはアベルが商店街で一番大きなアクセサリー屋で選んだ、絹糸で編まれたレースの花飾りだ。
純白に肌の色を融かしたようなクリーム色の絹糸を編み上げ、繊細で複雑な模様を作り、それを組んで花びらを作る。その花びらに細い銀の鎖や小さな真珠やガラス玉を飾って作った、花の形の髪飾りだ。
エルーはこの、今まで持ち込んだどの品よりも値段も価値も低い髪飾りをいたく気に入ったようだ。
「すごい。こんな綺麗なの初めて見た。こんな素敵なのが流行ってるの? ……すごい。すごい!」
こんなにはしゃぐエルーを未だかつて見た事がなかった。
「これ、髪飾り? どうつけたら綺麗かな」
その、絹の花を大事そうに両手で包んで、カウンターから走り出し、カインに歩み寄る。
カインがその、エルーの新しい宝物をそっと取って、その燃えるような紅い巻き毛を摘まむ。
すみれ色の瞳のそば、左の耳の上の辺りにその絹の花をつけてやると、エルーはカインを見上げたまま、微笑む。
子供のように無邪気で、蕩けそうに幸せそうな笑顔だった。
「……ねえ、似合うかな。……こんな真っ赤な髪に、こんなの、おかしいかな……。でも、綺麗なものが大好きだわ。こんな綺麗で、素敵なものに囲まれて暮らしたいわ」
エルーを包む焔のような紅い巻き毛に咲いた絹の花は、とても美しく映えていた。
こんなにこのクリーム色の花が映えるとは、カインも思っていなかった。
そのエルーの蕩けそうな笑みに、胸が痛む。何故かとても苦しく、切なく、もどかしく思えた。
この、エルーの笑顔に、こんなにも胸が締め付けられるとは思いも寄らなかった。あまりにも突然のこの気持ちに、カインは戸惑いを隠せない。
「おかしくない。……とても似合っているよ」
それだけを伝えるのが精一杯だった。それでも、エルーにカインの気持ちは伝わったようだ。
そのすみれ色の目を細めて、幸せそうに、嬉しそうに、それはそれは無邪気な笑みを、カインに向ける。
「……こんな素敵なもの、ありがとう。嬉しい。嬉しい。……どうしよう。薬代には十分なものを貰っちゃったわ。……でもね、もっと欲しいの。こんな素敵なもの、もっと欲しい」
今までも持ち込んだものの中で、最も安価なものだ。こんなもので薬代に足りるはずがないだろうと、カインは一瞬言葉を失った。
エルーは本気でこれが薬代に相応しいと思っているのか。
「これで薬代にはなるよ。……ねえ、でも、欲しいの。もっと。もっとこんな綺麗で素敵なものが欲しい。……また、薬を作るから。必要なら、どんな薬でも作るから。……もっとこんな素敵なものを、持ってきて貰えないかな……」
本当に、エルーはこれで薬代に十分だと思っているようだ。薬代としてカインか、カインが将来持つ子供を寄越せとか言っていたくせに、こんな髪飾りごときでそれが購えるというのか。
むしろこんなもので支払いを終わらせるとか、カインの良心が咎める。
それに、薬代を払い終えたら、ここに出向く理由がなくなる。
そこまで考えてはっと我に返る。
それでいいじゃないか。もうこの妖しい、もしかしたら人ではないかもしれない魔女と関わらずに済む。
それなのに、目の前のこのエルーの笑顔を見ていると、無性に離れがたく思えた。
「これでは俺の気が済まない。薬代にはとても及ばないような価値のものだ」
焔の魔女の、このあどけない、少女のような笑顔に、惑わされたのかもしれない。
エルーはカインを見上げたまま、不思議そうに瞬く。
「価値は私が決めるんだよ。私にとって綺麗で素敵なものなら、それは宝物だわ。私にとって価値のあるものだわ」
踵を返して、店の片隅にあった姿見の前に歩いて行く。
その姿見を覗き込んで、幸せそうに、大切そうに、巻き毛に飾られた絹の花弁に指先で触れる。
「また素敵なものを持ってきてね、カイン。……待っているから。約束通り、どんな薬でも、作るから」
頷いて、ふと、そのエルーが覗き込む姿見が視界にはいった。
エルーの、紅い睫に縁取られたすみれ色の瞳が、ゆっくりと、瞬く。
猫のような瞳孔だった。
人の瞳ではない。猫のように、濃いすみれ色の細い瞳孔と、淡いすみれ色の虹彩だった。
ぎょっとして、再び姿見を見つめる。
「……カイン?」
いぶかしげにエルーは振り返った。
鏡に映ったその横顔の瞳は、人の瞳だった。ただ綺麗なすみれの花のような、普通の瞳。
この薄暗い店の仄明かりのせいで見間違えたのか。カインは思わず眦を擦る。
エルーは再び、微笑む。
さっきのあどけない笑みではなかった。焔の魔女の、妖しい微笑みを、カインに向ける。