竜の棲み処 焔の魔女の森

#05 焔の魔女

 意外な事に、エルーの店から帰ってから数日の間、アベルは何も言わなかった。
 エルーの事も、アベルの死の病を治した薬の出所も、何も、尋ねてこなかった。
 どのみちカインも色々聞かれても答えようがない。なので追求されない方がいいのだが、あれだけ過干渉なアベルが何も言わないのも気がかりではある。
 このままアベルは何も見なかった事にするつもりだろう、と思い始めたカインだったが、そう簡単に話が済むはずが無かった。
「あの薬、エルーの薬なんだろ。……あんな簡単に、あの業病が治るはずないからな」
 宿舎の寝床に転がっていたアベルが、唐突にこの話題を口にしだした時は、カインも少し驚いていた。
 アベルの口からエルーの名前を聞くのは激しい違和感があるな、と思いながら、カインは返事に迷っていた。
「で、支払いの為にルズの蒼い森に通い詰めていて」
 この口調はアベルの機嫌が悪い時だ。こんな事で口論になるのはカインも心外だが、致し方ない。
「ついでに焔の魔女にたぶらかされてる訳か」
「たぶらかされてるつもりはない。……支払いに通っているだけだ」
 これはあまりにも見え透いた嘘だ。どうせアベルは気付いている。
 カインのエルーへの気持ちなんて、一目で見抜いていただろう。
「俺の薬だったんだろ。残りの支払いは俺がやる。俺が払うべきだろ」
 分かっていながらこうだ。アベルは意外と、意地が悪い。
 カインはあまり嘘がうまくない。生真面目なせいか、隠している事は出来ても、嘘はなかなか言えないし、うまくつけない。
 ここで不器用に嘘をついても、こじれるだけだ。観念して、渋々とカインは口を開く。
「……返済は終わっている。エルーはもう十分だと言っているが、俺の気が済まないだけだ。……あんな奇跡のような薬の対価が、その辺の雑貨屋で売ってるような髪飾り程度って訳にいかないだろう」
「もういいと言われてるなら十分だろ。どうしても、というなら、これ以上の支払いは俺がやる。……兄さんが行く必要はもうないだろ。俺の薬だったんだから、俺が払うべきだ」
 カインからエルーを遠ざけたいのだというのは、よく分かる。
 あの白砂の国の王女との気まずい現場を見た後だ。あんなふしだらな女に生真面目で不器用な兄がたぶらかされているのは、アベルにとって耐え難い事だろう。
「お前が行く必要はない」
 今、考えられないような事を口にしようとしている。カインも自覚があった。
 こんな事を口にする日が来るなんて、思ってもみなかった。
「お前の為じゃないんだ。……もう、お前のためじゃない。……俺は俺のために、あの森に通っているんだ」



「……来ると思ったんだ。いらっしゃい。寒かったでしょ。……今日はひどい雨ね」
 エルーはにこやかに、店の扉を開け、招き入れる。
 冷たい雨に濡れそぼった鳶色のクロークを脱ぎ、雫を払いながらがアベルは店に入る。
「風邪引いちゃうから、そこのストーブの前にでも。そのクロークも乾かしておかなきゃね」
 エルーはアベルからクロークを受け取ってハンガーに吊すと、暖炉の傍にポールハンガーを引いて吊す。
「今お茶を淹れてあげる。……今日は珍しい茶葉があるよ」
「何の目的があってカインを惑わしてるんだ、焔の魔女」
 背中を向けたまま茶の用意をするエルーに、容赦なく問いかける。
「みんな、好き勝手な事言うんだよね。……焔の魔女だの、魂と引き換えに願いを叶えるだの」
 暖炉に吊されていたやかんをとって、エルーはティーポットに注ぎ込む。乱雑に淹れているが、香りは良かった。甘さを感じる香りが漂う。
「そんな悪い事を口にしてると、本当になっちゃうよ」
 カウンターの椅子に座り込んだアベルの目の前に、ティーカップを置く。ほんのりと赤みの差した茶だった。
「私、カインが好きなの。多分、カインも私の事が好き……そう言ったらどうする?」
 アベルの目の前に立ったまま、エルーは無邪気に微笑む。そのなめらかな白い頬と、柔らかくつややかな唇が微笑みの形を作る。この、鮮やかなすみれ色の瞳は真っ直ぐに、アベルを見つめる。
 この妖しい娘の美しさに惑わされそうなのは、カインだけじゃない。アベルは小さく舌打ちする。
「……あの白砂の国の王女は? ……魔女は男も女も見境なしか」
 エルーは自分のティーカップを持って、カウンターの中に座る。アベルに貶められても、全く気にしていないようだった。
「あの子はもう二度と、ここに来られないよ。……あの子はね、竜の番人になるから、もう外に出られないの。……ずーっと砦に閉じ込められるんだよ」
 白砂の国の王族は、周辺の砂漠に住む竜に捧げる為の王子と王女を育てている、という話を、アベルも聞いた事があった。
 白砂の国は隣国だ。そう遠くはない。
 その白砂の国の向こうには、何カ国にも跨がった広大な砂漠がある。その砂漠に、もう記録にないような時代から、ファイアドラゴンが住み着いているというのは有名な話だ。
「砂漠の竜の番人に捧げられるために、育てられたんだよ。それなのに、自分の母親が重い病だからって、ここまで薬を求めてきたの。私の噂を聞いてね」
 竜の番人という話は、うっすらと噂に聞いた事があった。
 竜の巣に飼われている人間の事だ。死ぬまでその竜の巣から、出る事は出来ない。たくさんの人々の幸せの為に犠牲になる人間。それが番人だ。
 竜の為に生きて、竜だけに尽くし、死んでいく。
 とても幸せだとは思えない人生だ。
「初めて恋をしたんだって。……竜の為に純潔を守らなきゃならないのにね。竜の番人には、純潔でないとなれないから。あの子は身も心も国のもので、竜のものなの。なにひとつ自由もないのに、健気よね。母親が大事なんだって。自分がいなくなった後も、幸せに健やかに暮らして欲しいんだって」
 エルーは淡々と語る。あまりに淡々としていて、まるで他人事のようにも聞こえてしまう。
「あの子が初めて恋をした相手が、私だったの。……少しくらい、夢を見させてあげたっていいじゃない。これが悪い事だなんて、思えないわ」
 エルーはそこまで話し終えると、ティーカップに唇を寄せる。その整った綺麗な横顔を眺めながら、アベルは呆れたようにため息をつく。
「……そんな中途半端な同情が、何の慰めになるんだ? 白砂の王女は竜の番人になるしかない。どうせどうにもならないんだろ。……叶わない夢を見せる方が、残酷じゃないのか?」
 エルーはアベルの顔を真っ直ぐ見上げる。
 あの不思議なすみれ色の瞳で凝視されて、一瞬、アベルはたじろぐ。
「本当に、そう思う? ……叶わない夢でもいいから、その夢をみたいのは、アベル。……あなたも同じじゃないの?」
 気味が悪い。
 真っ先にそう感じずにいられなかった。
 この女は、本当に魔女かもしれない。焔の魔女というのは、伊達じゃない。こうして、人の魂に食らいつく隙を狙っているんじゃないか。
 掌にじっとりと嫌な汗をかいている事にアベルも気付いている。
「……そんな話はどうでもいい。俺には関係が無い話だ。今日は俺の薬の代金の話をしにきた。……もうカインから受け取る必要はない、俺が支払う。そもそもは俺の薬だ。カインに払わせる理由はない」
「あー。薬代ね。もう貰ったもん」
 エルーはごそごそと、カウンターの中にある小引き出しを開ける。
「ほら、これ」
 絹のハンカチに包まれた何かを、エルーは大事そうに掌に載せて、アベルに差し出す。
 アベルの目の前で包みを解く。中から現れたのは、あの、アベルが商店街で一番大きなアクセサリー屋で選んだ、絹糸で編まれたレースの花飾りだった。
 エルーはその花びらに細い銀の鎖や小さな真珠やガラス玉を飾って作られた花の形の髪飾りを、目を細め、うっとりと眺める。
「これ、カインがくれたのよ。……こんな綺麗で素敵なもの、初めて見たわ。こんなの貰ったんだもの……薬代なんて十分過ぎるよ」
 エルーはその絹糸の花びらを摘まみ、幸せそうに呟く。
 医者ですら見放したアベルの死の病を完治させるような薬が、こんな、街の雑貨屋で手軽に買えるようなアクセサリーで対価を払えるほどの安価なもののはずがない。
 この魔女は何を考えているんだ。心の底から理解出来ない。
「あの薬がそんな安物なはずはないだろう。……何を企んでいる?」
 エルーはそれでもまだ嬉しそうにうっとりと絹の花飾りを見つめている。
「そうだね、カインはちっとも分かっていなくて、もうずっと代金になりそうなものを持ってこれなかったの。……だから、もし期限までに代金を払えなかったら、カインか、カインがいつか作る、美しいものでもいいって言ってたんだけどね」
 こんな無邪気そうに微笑みながら、さらりと恐ろしい事を言っている。
 カインの身体か、もしくは、カインがいつか持つであろう子供を寄越せ、という意味だろう。
 本当にこの女は魔女なんだ、とアベルは苦々しく考える。
「でも、こんな素敵なものを貰っちゃったら、もう代金は貰えないわ。……でも、こんな美しくて素敵なものが街にいっぱいあるなら、もっと欲しかったの。……カインは、それならもっと持ってきてくれるって」
 エルーは長い赤褐色の巻き毛を束ねて胸元に引き寄せ、絹の花飾りをつける。その見事な、燃えるような髪に、このクリーム色の可憐な花は、とても映えた。
 そういえば、カインの説明を聞いて、官能的な美女を想像してこれを選んだ事を思い出す。
 エルーは不思議な娘だ。たまらなく淫靡な雰囲気を見せることもあれば、こんな風に、子供のように無邪気で幸せそうな笑顔も見せる。
「……あなたはきっと、私を許せないでしょうね。……でも、私もカインが好きだわ。……あの、お日様みたいな金色の髪も、冬の湖みたいな蒼い瞳も、とても綺麗ね。……そして」
 エルーのすみれ色の瞳が、じっとアベルを見つめる。
「とても綺麗な心を持ってる。……不器用で、生真面目で、一途で、切なくなるくらい。……ねえ、アベル。でもそんな事、あなたが世界で一番、よく知っているよね」
 カインを想いながら囁くこの、エルーの甘くとろけそうな微笑み。とても美しく、儚げで、可憐でありながら、禍々しい何かを隠しきれない。
 本当にこの女は魔女なんだ。
 この世で最も愛した兄を奪い去ろうとしているこの女は、人じゃない。
 この妖しく惑わす美しい娘は、人間じゃない。
 そして、この、兄を奪い去ろうとしている異形の魔物に、自分も惑わされ始めている。
 アベルは自分の手が微かに震えている事に気付く。
 兄を裏切れないと思いながら、この女に惑わされずにいられない。兄を愛しながら、この女にも惹かれずにいられない。
 何もかも見透かすように微笑む、この人の娘のかたちをした異形のものは、何者なんだ。



2016/09/16 up

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