竜の棲み処 焔の魔女の森

#07 誰が許してくれるというのか

「どうして、一緒に来ないのかな」
 エルーは店の扉を開き、アベルを出迎える。
 今日は霧が深かった。冷たい霧に濡れたアベルのクロークを受け取り、いつものように エルーはハンガーに掛け、暖炉前のポールハンガーに吊す。
「カインと休みが一緒になる事はたまにしかない」
 休日は交代制だ。一応は騎士団側も、彼らがこの世に二人だけの肉親であり兄弟だという事を配慮して、出来る限りは同じ日を休日に割り振ってくれているが、アベルはまだ新参で、カインは経験を積んだ魔法騎士だ。
 割り当てられる仕事が違う。ゆえにあまり合わせられていない。
「同じお休みの時くらい、一緒に来ればいいのに。……遠慮してるの?」
 本当に嫌な女だ。何もかも見透かしていながら、何も知らないあどけなさで歌うように話す。
「そんな話はどうでもいい。……それより、ランドール王が本気を出し始めたぞ」
 クロークで濡れないように包んでいた小箱をカウンターに置きながら、アベルは乱暴に椅子を引き寄せ、暖炉前にエルーに背を向けて座る。
「……あ。今日は飴細工? わあ……すごく綺麗……。こんな綺麗なの、もったいなくて食べられないよ……」
 話を聞いているのかいないのか、エルーは無邪気にその小箱を開け、うっとりと声を上げる。バラの花と小さな蝶を模した飴細工は、この妖しげな店の薄明かりの中で、きらきらと輝いていた。
「……聞いてるのか?」
 エルーは全く危機感がない。さすがにアベルも呆れる。
 これだけ余裕でいられるという事は、やはりこの女は底知れない魔力を持った、異形の生き物なのではないかと心からアベルは思う。
「聞いてるよ。……そうだね。ランドール王はどんな薬を作れっていうのかな。不老長寿の薬とか、そんなものあるわけないけど、そんなのが欲しいって言いそうだよね」
 エルーは暖炉に吊されていたやかんを取って、茶の準備を始める。全く恐れる素振りも見せない。
 何を考えているのか、何も考えていないのか、それとも恐ろしい画策をしているのか。
 アベルはそのエルーの手元をじっと見つめる。
「……うーん。もうちょっとこの国にいたかったんだけどな。厳しいかな」
 エルーは慣れた手つきで茶を淹れ始める。
 この妖しげな魔女が淹れる茶は、意外な事にごく普通の茶だった。もっと妖しい草花を使ったよく分からない茶を淹れそうなものなのに、意外だと、アベルは失礼な事を考えていた。
 しかも、エルーの淹れる茶はとてもおいしい。香りよく、味良く、乱雑に淹れているようなのに、とてもおいしかった。
「一体、この国で何をしたいっていうんだ。……お前が欲しい綺麗なものなんか、どこの国でも集められるだろう?」
 エルーはアベルに茶のカップを私ながら、緩く微笑む。
 暖炉に照らされるその丸い頬は、なめらかで、ふっくらと少女のような面影を見せながら、禍々しくも見える。
「ここでしか手に入れられないものがあるの。……分かってて聞くのね、アベル」
 本当に苛つく。
 この女の欲しいものなんか、もう分かりきっている。
 アベルの何より大切な兄を、魂ごと奪いたいからこそなんだと、アベルも分かっている。
 ふと、カウンターの椅子にショールが掛けられている事に気付く。
 銀糸を織り込んだ、絹のレースだ。華やかなこのショールは、エルーにとてもよく似合うだろう。誰がこれを彼女に贈ったのか、聞くまでもない。
 エルーはカウンターに戻り、そのショールを手に取り、まるで蝶の羽のように広げ、ふわりと羽織る。
 美しかった。
 エルーの赤褐色の巻き毛と、白磁のような素肌にとても映えていた。この美しさに心を、魂を奪われないでいられる男なんかいないのではないかとすら、アベルは思う。
 エルーは少女のように笑いながら、アベルの足下、暖炉前の敷物の上に両足を抱えて、座る。
「あなたは私を化け物だと思ってるかもしれないけど……。ううん。私は化け物かもしれないけれど」
 エルーは抱えた膝の上に両手を置いて、子供のように顎を乗せ、爆ぜる暖炉の炎を見つめる。
「でも、化け物も、人間も、きっと誰かを好きになる気持ちは同じだよ。……私は好きになって欲しいのかもね。……私が人間でも、化け物でも、人の魂と引き換えに願いを叶える魔女でも、愛してくれる人を探してるのかもしれない」
 エルーは眠たげな幼子のように見える。目を細め、暖炉の炎を見つめ続ける。
 ふたり無言のまま、静かに時間が流れる。
「……ランドール王の事は、心配しないでいいよ、アベル。……私の事は大丈夫。多分、兄か父が迎えにくるんじゃないかな、そろそろ。……多分、勝手をしてるって怒ってる」
 エルーはアベルを見上げ、いたずらっ子のように笑う。
「魔女にも家族がいるのか?」
「いるよ。ちょっと過保護な父親と、ちょっといい加減だけど結構頼りになる兄がね。……ふたりに内緒で飛び出してきたけど、そろそろ居場所がばれそう。……連れ戻されちゃうんだろうなあ」
 アベルを見上げるエルーの白い咽喉が、小さく動く。
 真っ白なそのなまめかしい咽喉から胸元は、この薄明かりの中でも目映く見える。
「私たちの一族でいうと、私はまだ子供なの。あと一年は父親と暮らさなきゃいけなかったんだけど、自由に外を見て歩きたかったんだ。……だって私のお父さんは、過保護すぎてひとりにしてくれないから」
 この日、エルーは濃紺にレースの襟のオーバードレスを着ていた。少し襟ぐりが大きめに開いたそれは、品良くエルーを引き立て、ほんの少し幼く見せていた。
 この禍々しい魔女が時折見せる、無邪気さをカインは愛したのかもしれない、とアベルは思う。
 何気なく、そのエルーの胸元を飾るレースの襟に、アベルは視線を落とす。
 その時に、やっと気付いた。
 羽織るレースから、エルーの薄い皮膚に包まれた鎖骨が覗く。その華奢な胸元に、紅い痕跡があった。
 聞くまでもない。
 カインの唇の形の捺印であろう事は、誰よりもアベルがよく分かっている。
 何の驚きも衝撃も、焦りも感じなかった。不思議なくらいに、心は凪いでいた。
 アベルは立ち上がろうとしたエルーの手を取り、引き寄せる。
 エルーは逆らいもしなかった。されるがままだった。
 膝に抱き寄せ、その柔らかなエルーの胸元に、頬を押し当てると、ほんの少し、エルーは身じろいだが、逃げ出そうとする素振りは全く無かった。
「……アベル」
 エルーの華奢な指先が、アベルの栗色の髪に触れる。
 何も考えられなかった。
 エルーの白い胸元を飾るカインの唇の痕に、唇で、触れる。触れ、その白い咽喉を辿り、赤く染まった唇に触れると、エルーの小さなため息が聞こえた。
 もう何も、考えられなかった。
 この禍々しい魔女を愛しているのか、この世にたったひとりきりの兄を愛しているのか、それすらも、見失っていた。
 今はただ、この美しい魔女に触れていたかった。
 この世で何より愛した兄を裏切っても、この女を抱き締めたかった。



 暖炉の傍に吊されていたアベルの鳶色のクロークは、すっかり乾いていた。
「……どうせまた濡れるけどな」
 エルーは小さく笑いながら、そのクロークをアベルに羽織らせる。
 カインの唇の痕を残しながら、アベルの唇をも受け入れたこの女が、何を考えているのか分からなかった。
 もっと言えば、兄を愛しながら裏切る自分すら、何を考えているのかもう分からない。
「ランドール王は焔の魔女を手に入れる為なら、どんな汚い手でも使う。……お前の兄や父親が迎えに来る前に、家に帰った方がいい。……名君だが、女癖は最高に悪い。お前が王の寵愛をかさにきてやりたい放題したいつもりがないなら、素直に逃げた方がいい」
「逃げるまでもなく、多分父か兄が連れ戻しにくると思うわ。……どのみち時間の問題かな」
「その父親や兄貴はどこに住んでるんだよ。……さっさと迎えに来て貰え」
 エルーはアベルを見あげ、まじまじと見つめる。
「……? なんだ」
 エルーはアベルを見あげたまま、にへっ、と子供のように笑った。
 こんな無防備に、あどけない笑顔のエルーを見た事がなかった。子供のそのものの天真爛漫な笑顔だ。
 アベルは思わず言葉に詰まる。
「ね、私とそんな風に話してくれたの、初めてだよね。……今までずっとよそよそしかったのに。なんだか嬉しい」
 童女のようにあどけなく、無邪気に、素直に笑う。
 愛する男を裏切って、その弟と抱き合ったその直後に、こんないたいけで無邪気な笑顔を見せる。
 ふたりの男を天秤に掛けるふしだらな、道を踏み外した女。そんなだらしのない女のはずなのに、エルーの笑顔は子供のように無垢で、素直で、そして、胸を締め付けるほどに、切なくさせる。
 子供のように明るく笑うエルーを抱き寄せ、そのいたいけな唇に、もう一度、触れる。
 裏切っているからこそ、こんなにもエルーが、カインが、愛しく切なく思えるのかもしれない。
 だとしたら、禍々しく、忌まわしく、呪わしくも愚かなのは、自分自身だ。
 これを誰が許せるというのだろうか。誰が許してくれるというのだろうか。
 何もかも失ってしまうかもしれないのに。


2016/11/09 up

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