竜の棲み処 焔の魔女の森

#08 ただ、愛しかった

 その日は朝からアベルの姿を見かけなかった。
 最近、休日と言えば朝からアベルはどこかへ出掛けているようだが、カインは悪い事だとは特に考えていなかった。
 アベルが今まで『命を賭けられるような運命の女を待っている』などと夢物語のような事を言って誰とも付き合っていなかったのは、カインへの遠慮だったのかもしれない。
 重い病に冒された弟にずっと寄り添って、この歳になってもまだ結婚どころか恋人の影すらなかった兄への遠慮があったのではないか。そうカインは思っていた。
 カインがようやく恋愛に関心を持つようになって、アベルもようやく自分の人生を考えるようになれたんだ、とカインは前向きに捉えていた。
 この日、カインは午後から彼の担当している新米魔法騎士の教練があったが、この騎士が風邪で寝込み、急に午後が開いてしまっていた。
 急に午後の予定がなくなった為、カインは誰か仕事の手が欲しいものがいれば手伝おうと考えながら、詰め所で本を読んで過ごしていた。
 だいたい午後にここにいると、午後の休憩のお茶を飲みに魔法騎士団長が秘書官を連れてやって来るが、今日もいつも通り、少々疲れた顔をして、壮年の団長はいつものように休憩を取りに来た。
「やれやれ。……ランドール王の次は、竜騒ぎだ」
 カインの座っていたテーブルの差し向かいに、深いため息をついて団長は腰掛ける。
「竜? ……竜が現れたんですか?」
 この国の近辺に竜は棲みついていない。
 エルーのところに出入りしていた、あの竜の番人になる為に育てられた王女。あの王女の母国である白砂の国や複数の国と隣接する砂漠地帯に、古い時代から住み着いているファイアドラゴンがいるが、この国はその竜の縄張りからは外れていた。
 この国に竜が現れた事は、未だかつてなかった事だ。
「最近国境付近で、竜の目撃情報がある。それで一部の軍が調査に向かっているが、竜がこの国を狙っているなら、また頭の痛い問題だ」
 砂漠に住み着いているあのファイアドラゴンなのか、全く別の、巣立ったばかりの竜なのか、どちらにせよ厄介な事には変わりない。
 この団長も気苦労が絶えない。好色なランドール王のつまらないわがままに振り回され、今度は竜もだ。
「いっそ竜が騒いでくれたなら、王もルズの蒼い森の魔女の事を忘れてくれるだろうか。……それでも女の事は別問題だと言い出しそうで、余計に気が重い」
 団長は深いため息をついて、指先でこめかみを押さえる。
 なんとも複雑な話だ。
 国境に竜が現れたのが事実なら、国境付近での調査や警戒の任務がある。竜を相手にするなら、魔力のある騎士でなければならない。魔力の無いものでは、あっという間に竜のブレスで瀕死になるだろう。そうなると、国境へ赴任するのは、カインやアベルが所属するこのランアークの魔法騎士団だ。
 カインも思わず無言になる。
 もしも国境の竜調査にまわされるのがカインの所属する魔法師団ならば、エルーをどうやって守ればいいのか。
 エルーを置いて首都を離れなければならないなら、一刻も早くエルーを国外に逃がさなければならない。
「今は単純に目撃情報からの調査なので騎兵隊の一師団が行っているが、これで竜の出没が確定されたなら、魔法騎士団から幾つかの師団をまわさなければならん」
「……ニルヴァーナでなければよいのですが」
 滅多な事では口を開かない、寡黙で有名な団長付きの秘書官が、淹れたてのお茶を配りながら小さく呟く。
 カインも久々に、彼が自ら言葉を発するのを見た。団長に促されるまでは口を閉ざしているのが常だ。
「ニルヴァーナ……?」
 カインは思わず秘書官に問いかける。
「砂漠地帯に棲み着いている老ドラゴンの事を、あの辺りに住む異教徒達がそう呼んでいるのです」
 この秘書官は団長の調査員でもある。各国の事情には誰よりも通じているかもしれない。
「あの古竜だった場合、我々は為す術がないかもしれません。……噂では数千年を生きた強き竜だと言う話です。魔力も体躯も桁違いでしょう」
 砂漠地帯のファイアドラゴンの話は、カインも噂には聞いていた。
 美しい紅い鱗に、業火を纏った巨大な竜だと言うが、話半分に聞いていた。何より、竜の棲み処は遠く、竜の縄張りからも外れていた。身近には感じられていなかった。
 今まで他人事だと思っていた話が、急に目の前に突きつけられて、困惑せざるを得ない。
「まあ、まだ竜が本当に現われたのかも、その竜が砂漠の古竜だとも限らない。調査に出た師団が戻ってくるまでは、騒いでも仕方がないだろう。……多少の覚悟は必要かもしれないがな。まあ、噂ではあの古竜も無益な殺生は好まないようだし、竜の目的次第ではそう面倒にはならんだろう」
 それはこれ以上悩み事を増やしたくない団長の願いのようなものだろう。ランドール王も竜も、団長にとっては厄介で重い悩み事だ。
 カインにとっても、今ここで竜の出現はあまりにも不都合すぎた。
 秘書官が淹れてくれたお茶のほのかな湯気を、じっとカインは見つめる。
 エルーを一刻も早く、ランドール王の手の届かない国外に逃がすべきなのは、カインもよく分かっている。
 竜の事があろうがなかろうが、ランドール王と騎士団を敵に回して、エルーを守り切れるわけがない。どうやっても、このままではエルーはランドール王の手に落ちる。
 そんな事、よく分かっているはずだ。
 自分が何を望んでいるのか、カインはそれすらも見失っているような気がしていた。
 エルーを連れてこの国を、騎士団を、そして何より愛した弟を、全てを捨てて、出て行けばいい。
 エルーだけを選べばいい。
 もうアベルも子供ではない。長くアベルを苦しめていた死の病も、もう心配はない。
 アベルは魔法の才能も騎士の才能もある。このままランアークの魔法騎士団で、順調に出世もしていくだろう。
 離れても何も問題は無い。
 アベルはカインの手がなくとも、自分で自分の人生を選び、歩んでいける。
 もうアベルは、カインが守らなければならない子供ではなかった。
 それでも、この世にたった二人だけの肉親で、兄弟だ。
 アベルを置いてエルーとの未来を選んで、本当に後悔はないのか、カインは答えが出せなかった。
 生きてさえいれば、この国を出て行っても、いつかまた、会える。会えるはずだ。そのはずなのに、なぜかそう思えなかった。
 エルーと生きていく人生を選ぶなら、もう二度とアベルに会えないような気がしていた。それが何故なのかは分からない。予感のようなものだった。
 この世にたった二人きりの兄弟だ。いつか違う道を選ぶとしても、決して遠く離れる事はないと思っていた。
 もう二度と会えないかもしれない別れを選んで、本当に、後悔せずにいられるのか。
 カインは冷め始めたお茶のカップから視線をあげ、窓の外の、暮れ始めた空を見上げる。



 吐く息が白い。
 冬のルズの蒼い森は冷え込むが、真っ白なケープを纏って、燃えるような赤褐色の髪に、濃い焦げ茶色の天鵞絨の大きなリボンをつけたエルーは、そんな寒さを気にしないかのように足取りが軽い。
「……見送りならいらないって言っただろう。風邪を引くから帰れよ」
 馬上からそうアベルが声を掛けても、エルーは子供のように笑って頓着しない。
「ねえ、ランアークはいつから雪が降るの? 私の生まれた故郷は降らないの。私待ってるの。……雪を見るために、この国に来たんだよ」
 エルーの足取りは踊るように軽やかだ。
 エルーの店から、ここまでは結構な距離がある。そのうち疲れたと言って帰るだろう、と思っていたが、エルーは微塵も疲労を感じさせない。
「寒波がひどい年には降る事もあるが……今年はどうかな」
 白砂の国とは確かに隣接しているが、険しい山脈に隔てられている。あの山脈があるおかげで、ランアークは時折、酷い寒波に見舞われて雪が降る事があるが、そう頻繁にあるわけではない。
「降るといいなあ。来年まではいられないだろうし、降って欲しいなあ」
 のらりくらりとしているが、やはりランドール王の女になる気は、エルーには全く無いようだった。
 この奔放な性格で、王宮で王の女をやっていられるとはアベルも思っていない。それにこんな禍々しい女を王宮に入れたら、とんでもない事が起こるのではないかとも思える。
「そういえば、お前はどこの国から来たんだ。……身一つでここにやって来て、あんな店をよく構えられたな」
 エルーはアベルの馬の前を歩いていたが、咽喉をのけ反らせてアベルを見上げ、また、にへっ、と子供のように笑う。
「私の事が気になる? ……私が生まれたのは、砂漠地方だよ。……砂棗の木と、小さなオアシスがあるところ」
 異民族たちの国がある辺りだ。
 エルーはあの砂漠の民たちとも人種が違うようだが、昔からこの辺りから移民として渡る者も多くいた。血も混ざり合っていたし、確かに砂漠の民にも赤毛や金髪の者は多くいる。
「成人したら、好きなところに行っていいの。あと一年待てば良かったんだけど、待ちきれなくて。……飛び出してきちゃったから、きっと父も兄も心配してるし、怒ってるなあ」
 言い訳するのもお説教もめんどくさい、と笑うエルーは、ちっとも悪びれていない。
 エルーは何か思いついたのか、ぱっと駆け出す。
「ねえ、アベル。こっち! きっとあなたは覚えてないから、ねえ、こっちこっち!」
 首都の魔法騎士団の宿舎に帰るつもりだったのに、すっかりエルーのペースに巻き込まれている。思わずアベルも笑ってしまう。
 こんなエルーの、子供のように気まぐれなところを愛しいとさえ、思える。
 この女が恐ろしい魔女だと分かっていても、この、時折見せる無防備な無邪気さに惹かれずにいられなかった。
 エルーは風のように木立を駆け、アベルを呼ぶ。
 そこは、深い常緑樹の天蓋に守られた、美しい泉があった。
 そこだけが時からも季節からも忘れられたかのような、濃い緑の木々と苔むした岩に包まれた、清冽な泉の湧く小さな水場だった。
「ここで、あなたたちに出会ったのよ」
 エルーは立ち止まり、アベルの手を掴んで、馬から降りるようにねだる。促されるままにアベルは馬を降り、エルーに手を引かれながら泉へ近付く。
「夜明けのこの泉で、死の匂いをさせたあなたを抱いたカインに出会ったの」
 カインを見上げるエルーの不思議なすみれ色の瞳を見つめながら、アベルは声を詰まらせる。
 目の奥が熱い。堪えられそうになかった。
 この世にたった一人の弟の命を繋ぎ止める為に、『魂と引き替えに願いを叶えてくれる魔女』を探して、カインが、夜明けの森をさ迷っていた。
 それを考えるだけで、泣き出しそうに切なくなる。
 兄はどんな気持ちで、この森をさ迷っていただろう。
 あの優しい兄は、悪魔に魂を売り渡してでも、弟の命を繋ぎ止めようとしていただろう。
 分かっていた。兄が『焔の魔女』から、どんな気持ちで薬を手に入れたのか。
 その兄を裏切って、この女を愛している自分が、どれほど醜い生き物なのか思い知らされる。
「……アベル、泣かないでよ。……あなたを悲しませる為に、ここに連れて来たんじゃないわ」
 両手を伸ばし、エルーはその胸にアベルを抱き締める。
「私、こんな美しい兄弟を見た事がなかったわ。……こんなに、愛し合って、支え合って、信頼し合った兄弟を、見た事がなかった。……ねえ、信じてくれる? ……私、あなたたちが好きなの。……あなたたちの、その、優しいところが、大好きなの」
 エルーの柔らかな唇が、アベルの頬に寄せられる。眦を溢れ、伝い落ちる涙を吸い取るように、エルーの唇は優しく触れる。
「私を不実だと思うかな。……けれど私はあなたたちが好きなの。……アベル。あなたのカインを思う気持ちも、カインのあなたを思う気持ちも、たまらなく綺麗で、切なくなって、愛しくなる。……あなたたちが大好きだわ」
 エルーの優しい胸元は、暖かかった。この女が化け物でも、禍々しい魔女でも、この、泣きたくなるくらいに優しく暖かい両手も、胸も、それだけは真実だった。
 誰もアベルを、エルーを、許してくれないかもしれない。
 それでも、エルーがアベルとカインを愛するように、アベルも、エルーとカインを愛さずにいられなかった。
 こんな禍々しくも美しい魔女に、出会いさえしなければ良かったのか。
 もう、何も分からなかった。
 ただ、愛しかった。
 この、化け物かもしれない魔女も、この世でたった一人きりの兄も。


2016/11/26 up

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