冬季は日が落ちるのが早い。あれからすぐにカインは詰め所を出たが、もう森は黄昏れていた。
森の奥に進むと、下草から仄かに靄が立ちのぼっており、余計にこの森を静かに、幻想的に見せる。
この森が『蒼い森』と呼ばれるのは、常緑樹が多く、冬でも緑を失っていないところにあるが、少し外れれば、不気味に立ち枯れた木々が並ぶ領域もあった。生と死が混在しているようで、緑に覆われながらもどことなく不吉な雰囲気があるとカインは思っていた。
この蒼き森で、瀕死のアベルを抱えてエルーに出会ったのは、どこか象徴的だとすら思える。
魂と引き替えに願いを叶える焔の魔女は、死から遙か遠い存在に思えた。
エルーは不思議なくらい、生き生きと生命力に満ち溢れていて、時折、彼女が禍々しい魔女である事を忘れてしまうくらいに、子供のように素直で無邪気だった。
だからこそ、その自由で気ままな彼女を、籠の鳥にしたくなかった。何があってもランドール王から逃さなければならない。
未だ決着は付かなかった。
エルーを選び、何もかも捨て、アベルにもう二度と会う事がないかもしれない人生を選ぶのか、それとも、エルーを失う覚悟で国外へ逃がすのか。
カインの迷いを察しているのか、カインにも愛馬の歩みは心持ち重く感じられていた。
それでももう一刻の猶予もない。少しでも早くエルーを国外へ逃がさなければ、事態は悪化する一方だ。
エルーに危機が迫っている事だけでも告げなければならない。
焦るカインの耳に、切れ切れに何かが聞こえた。
足取りの重かったカインの馬にも、それが聞こえているようだった。聞き惚れるように、足が止まってしまっている。
聞き覚えのある声だった。
あの日、死にかけたアベルを連れてこの森をさ迷っている時にも聞こえていた。
エルーの歌声だ。
どこか切なくなるような、儚げで、それでいて不思議なくらい、力強い。不思議な響きを持つ、聞いた事のない、恐らくは異国の言葉の歌だ。
切れ切れに、その甘やかで繊細な歌声が聞こえる。
馬はもう完全に歩みを止めて、エルーの歌声に聞き入っている。あの時、泉の前で歌うエルーの周りにいた動物たちもそうだ。
どの生き物も、争う事も忘れ、ただひたすら、エルーの歌声に聞き入っていた。
カインは馬から降り、手近の立木に手綱を結びつけると、エルーを探して歩き出す。
切れ切れに響く歌声に紛れ、小さな水音も聞こえる。どこか水辺が近いのだろう、と考え、この木立に見覚えがある事を思い出す。
死にかけたアベルを連れてさ迷い、辿り着いた泉のほとりだ。エルーと出会ったあの泉だと、ようやくカインは気付く。
立ちこめる靄と下草を踏み分けながら、カインは水辺を目指す。
歌声は良く通る。そのエルーの甘く優しい歌声に耳を傾けながら、この歌はもしかしたら子守歌なのではないかとカインは考える。
あの日歌っていた歌にとてもよく似ているのは、言葉の響きのせいか。この聞いた事も無い不思議な言葉は、とても優しく耳に届く。
立ちのぼる靄と下草を踏み分け、木立と小さな茂みをかき分けて、あの泉に辿り着く。
エルーは、泉のほとりの、苔むした岩場に背中を向けて座っていた。
ひとりだと何故、思っていたのか。
何の疑いもなく、あの日のようにエルーはひとりで、動物たちに歌い聞かせるように、朗々と歌っているのだと思い込んでいた。
そのエルーの真っ白なケープに包まれた、華奢な背中を抱いているのが、誰なのか一瞬、理解出来なかった。
エルーを抱きしめ、細くなめらかな首筋に口付けているのが、この世でたった一人の弟だと、認めたくなかったのかもしれない。
歌声が途切れるまで、カインも、エルーを抱いたアベルも、見つめ合ったまま、言葉一つ口に出来ずに、ただ立ち竦むだけだった。
どこをどう歩いて帰ってきたのか、カインもよく覚えていなかった。
厩舎にきちんと馬を繋いであるのは確認した。意外と正気を保てていたのではないかと、自分でも思う。
不思議と、憎しみや怒りは湧かなかった。
今あるのは、深い絶望感だけだった。
禍々しくも美しい恋人も、この世でたった一人きりの弟も、両方を失うであろう喪失感だけが、胸にあった。
あの場から立ち去るだけで精一杯だった。
エルーは気付いていなかったが、アベルからカインが来た事を聞いただろう。
ぼんやりと宿舎の寝床に座り込みながら、考える。
いっそ憎めたなら、楽になれただろう。憎悪出来たなら、こんなに苦しまずに済んだだろう。
ただただ、悲しく、むなしく、やりきれなかった。
この美しい恋人も、何より大切だった弟も、失う事になる。それが何より悲しかった。
明るく陽気で、誰からも好かれるアベルは、カインにとって自慢の弟だった。
明るく、聡い。騎士としても魔術師としても、魔法騎士としても、才能に恵まれ将来性があった。寡黙で気の利いた事もろくに言えないカインよりも、遥かに魅力がある、華もある。そう分かっていた。
エルーがアベルを選ぶなんて、当然の事だと思えた。
どれくらい時間が過ぎたのか、部屋の扉を叩く音が響く。返事を待たずに扉を開けるなんて気の短い事をするのは、アベルくらいしかいない。
「……兄さん……」
こんな沈んだ弟の声を聞くのは久し振りだ。カインは小さくため息をつく。
「こんな時に兄と呼ぶのか」
アベルは後ろ手に扉を閉め、もたれかかるように立っていた。
「……そうだな。……アベル。こんな事があっても、俺は変わらずお前の兄でいるつもりだ。恨んでもいない。憎んでもいない」
本心だ。
憎しみはなかった。裏切られたという気持ちを否定する気はなかったが、二人を憎む事は出来そうになかった。
憎むには、カインにとって、どちらも大切すぎた。どちらも愛しすぎていた。
憎めたなら、楽になれた。こんな苦痛を知らずにいられた。そう思わずにはいられなかった。
「国境に竜が現れたようだ。……事実が確認出来れば、近いうちに魔法騎士団から国境の警備と調査のためにいくつかの師団が派遣されるだろう。そうなったらランドール王からエルーを逃す事も出来ない。アベル。早い内に退役してエルーを連れて国外へ逃げろ」
「竜だと? ……くそ、こんな時に」
小さくアベルが吐き捨てる。アベルも何をカインに言えばいいのか分からない上に、今度は竜騒ぎだ。エルーをどう逃がすかまで急ぎ考えなければならない。カインから見ても、アベルはひどく混乱しているように見えた。
「……兄さん。……今更何もかも信じられないとは思う。俺も……裏切るつもりはなかったなんて、そんな都合のいい言い訳もしない」
アベルに苦悩がなかったなどと、カインも思ってはいない。
この弟が、カインを慕い、愛してくれていた事を、カインもよく分かっていた。だからこそ、憎めずにいる。
アベルがエルーを愛して苦悩しなかったはずがない。兄を裏切る事を、思い悩まなかったはずがないと、カインにも分かっていた。
「エルーが、俺が……兄さんを愛しているのは本当だ。裏切った事を、言い訳はしない。……俺はいい。俺は兄さんに憎まれても仕方がない。……エルーは信じてやってくれ。……俺がエルーを惑わしただけだ」
こんなアベルを見た事がなかったかもしれない。
いつも明るく陽気で、どんな時も顔を上げて、目を見て話していた。
今、俯いて声を震わせる弟が、誰か違う人のようにすら、カインには思えていた。
「お前はエルーを守れるだけの才覚も腕もある。……早くエルーを連れて国境を越えろ。……逃亡は重罪だが、退役すれば何も問題はない。魔法騎士は数が少ないせいで引き留められるかもしれないが、俺からも団長に口利きするから、早く手続きをとれ」
アベルのこの気持ちを、カインは知らない。
カインが恋人と弟の不義を突きつけられても二人を憎めないように、この弟が兄と兄の恋人を愛し、苦悩し、選べずにいる事を、カインは知らない。
アベルもまたカインと同じように、カインとエルーのどちらも選べずにいる事を、カインは知らない。
カインを裏切れるなら、エルーを連れてとっくに逃げ出せたはずだ。
ただ俯くばかりだったアベルが、顔を上げた。
顔を上げ、カインをしっかりと見据え、ゆっくりと、口を開く。
「兄さんはそれでいいのか。……本当に、それでいいと、思っているのか」
こんなアベルの声を聞いた事がなかったかもしれない。
それは重くカインの耳に響いた。いつも明るく、陽気なアベルの声とは思えないくらいに、重く沈んだ声だった。
「……選ぶのはエルーとお前だ。……俺じゃない」
返事はなかった。
アベルは無言で扉を開け、出て行く。
こんなに弟を、遠く感じた事はなかった。
いつか別々の道を歩んで生きていくと分かっていた。こんな形で離れていくなんて、考えた事もなかった。
寝台から立ち上がり、カインは窓辺のランプに手を伸ばす。
いつかエルーがしたように、小さく息を吹きかけ、火を灯す。
小さく揺らめく炎を見つめながら、エルーを、アベルを失うその意味を考える。
『本当に、それでいいと思っているのか』
アベルの言葉は、呪縛のようにカインを捕らえ、離さなかった。