竜の棲み処 焔の魔女の森

#11 砂漠の雪の花

 白砂の国の日差しは強い。
 この砂漠に隣接した国は、比較的緑が多い国ではあったが、それでも日差しはきつい。
 冬には時折雪もちらつくランアーク育ちのカインにはかなり厳しい。この数ヶ月で慣れてきてはいたが、カインは強い日差しから逃れるように、フードを深く被り直す。
 王都の市場はとても賑やかだ。砂漠の国とは思えないほど、農産物も日用品、雑貨類も豊富だ。
 カインは木陰の果物商から商品を受け取りながら、すぐ傍の城壁を見上げる。
 竜が護る国は、考えられないほど栄えるとはよく言われているが、それは事実かもしれない。
 白砂の国は、豊かで美しい国だ。初めてランアークを出て他国を放浪しているが、ニルヴァーナが護るこの砂漠周辺の国は皆、不毛の砂の地域だと思えないくらいに豊かに栄えていた。
「兄さんは異国からの旅行者かな。やっぱり美しいと評判の、メイア姫が気になるかい?」
 同じように日差しを避けてフードを深く被った壮年の果物商は、城壁をしげしげと眺めるカインに何か勘違いをしたようだ。
 メイアという名前には聞き覚えがあった。ほんの少し考え込んだがすぐに思い出す。
 エルーの店に、母親を救える薬を求めて一人国境を越えてやって来ていた、あの白砂の国の美しい王女だ。
「あんなに美しいのに……むしろあれほど美しいから、竜の花嫁になるんだろうなあ。俺達人間には高嶺の花だよなあ」
 竜に嫁ぐ事はまるで神に嫁ぐかのように、尊い事だと言わんばかりだ。
 砂漠の民にとって、ニルヴァーナは神同然なのだろう。メイア姫を捧げる事に、むしろ誇りすら感じられた。
 メイア自身も、それを宿命として逃げる事すら考えず、受け入れているように見えた事をカインは思い出す。
「……ニルヴァーナは頻繁に現れるのかい?」
「兄さん、騎士か。……魔法騎士だな」
 果物商はカインの腰の剣に目をとめる。魔法騎士である事を一目で見抜くこの商人は、なかなか抜け目がない人物かもしれない。
「ニルヴァーナに挑むのはやめときな。黒焦げにされるだけさ」
 豪快に笑い飛ばされて、カインも小さく笑ってしまった。あんな異形の、恐ろしい生き物に挑む気になんてなれるはずがなかった。
 ニルヴァーナを一目でも見た事があれば、どうあっても敵うはずがないと身の程を知る騎士なら誰もが思うだろう。
「……カイン!」
 大声で呼ばれ振り返ると、買い物を済ませ荷物を抱えたアベルが駆けてくる姿が見えた。
「涅槃に挑むほど身の程知らずじゃないさ。……ありがとう」
 果物商から離れ、アベルに合流する。アベルはいやに大荷物だった。
「アベル、買い込みすぎじゃないか。馬に積めるのかこんなに」
「どうせ砂漠を数日さ迷うんだろ、また。この間みたいに水と食料切らして死にかけるよりはマシだ」
 確かにそうだ。地理に不慣れなこの兄弟が砂漠を渡るのは、結構な無茶だ。おかげで前回は迷いに迷ってひどい目に遭った。
「少し工夫して積むか。……今度こそ見つかるといいが……」
「ま、気長に行こう。焦ったところで何も変わらないしな。堅実にやるのはカインの十八番だろ」
 アベルは不思議なほど、のんきで大らかだ。几帳面で石橋を叩いて渡るカインとは全く違う。
 明るく大らかで細かい事を気にしないアベルと、寡黙でしっかりと計画性を持って行動するカインは、全く正反対のタイプだ。兄弟でもこんなに違う。それなのに、同じ女を好きになる。本当に不思議だとカインは思う。



 エルーにもう一度会えるかなんて、まるで分からない。
 恐らくは父親の元にいるはずだ。『あと一年は父親と暮らさなければいけない』そうエルーは言っていた。
 あてはないが、エルーにもう一度会いたいなら、ニルヴァーナの巣を探すしかない。
「あの親父さん、話が通じなさそうだけどなあ。娘を人間になんかやれるかってブレスで焼き払われそうだ」
 馬の負担を減らすために手綱を引きながら、カインとアベルは並んで砂地を踏みしめる。
 歩き慣れてきたが、最初の頃はよく足を取られていた。今では足腰がこの砂地に慣れて鍛えられている。
「そもそも竜は人間を生贄で捧げられたり攫ったりして番人にしてるだろう。そう考えればまあ、むやみに追い払われる事はないんじゃないか。問題はニルヴァーナの巣を誰も知らないところだな。……砂漠のどこか、なんて漠然としすぎて見つけられる気がしない」
 カインは白砂の国で入手した砂漠の地図を広げる。貴重な水場や経路が詳しく書かれているが、誰に聞いてもニルヴァーナの巣がどこなのかは分からなかった。
「数千年棲み着いていて巣が知られていないっていうのもすごいな。……砂漠だけに過酷すぎて後をつけるのも厳しいのかな」
 アベルは照りつける陽を見上げる。
 雲一つない。遮るものがないこの砂漠を横切るのは、ランアーク育ちのこの兄弟だけでなく、現地の者にとっても過酷だろう。
「最悪、竜に出会えれば。……人間を娶るくらいなんだ、言葉は通じるだろう」
 カインがそう前向きに言うと、アベルは小さく笑う。
「違う意味で話が通じなさそうな親父さんだったけどな」
 カインはふと、エルーが言っていた言葉を思い出す。
『気味の悪い鱗に覆われた大蜥蜴だったら、私を嫌いになる?』
 あれは、自分が竜の娘という異形の生き物だと言っていたのか。
 例えエルーの正体が紅い鱗に覆われた竜であっても、何も変わらないような気がしていた。
 きっと、あの、無邪気で素直なすみれ色の瞳は、竜であろうと人であろうと、姿が変わっても、そこだけは変わらないとカインには思えていた。
 あの、不思議な美しいすみれ色の瞳に魅入られていたのかもしれない。
 もう何も考えられなかった。ただエルーのあの瞳を追うようにランアークの魔法騎士団を、アベルになんの相談もなく辞め、カインは首都を出たが、数日もたたないうちに、同じように魔法騎士団を辞めて後を追ってきたアベルに追いつかれた。
 考える事は同じだ。
 エルーを失えないのは、カインもアベルも同じだった。
 照りつける日差しを受けながら、隣を歩くアベルをちらり、と盗み見る。
 あの日、エルーだけを選べなかった事を後悔していないと言ったら、嘘になる。そう出来なかった自分を恥じる気持ちもある。
 それでもエルーは笑ってくれていた。それでも、彼ら兄弟が好きだったと言ってくれた。
 もう一度エルーに会って、どうしたいのか。
 不誠実なのはエルーだけではない。自分もだ。カインはそう思う。
 何もかも捨ててエルーを選べない不実を、エルーに詫びたところで、彼女は笑うだけだろう。彼女はその不誠実ささえ、愛してくれていた。
 カインは馬の鞍にくくりつけた革袋から、白砂の国の市場で買った、よく熟したナツメヤシの実を取り出し、アベルに手渡す。
 ごく自然にアベルはそれを受け取り、口にする。
 団を辞して飛び出したカインをアベルが追ってきたのは、どういうつもりなのか。
 アベルもまた同じように、何も考えられずにエルーにもう一度会いたいだけなのかもしれない。会ってどうするかなんて、きっとこの兄弟はどちらも考えていない。
 ただ、あの竜の娘に魅入られて、彼女を求めずにいられないだけなのかもしれない。
 甘く熟したナツメヤシの実を囓りながら、切り立った崖の麓に差し掛かる。その崖の麓の奥に、水場の影が見えた。
「アベル、オアシスがある。馬を休ませるついでに、水も補給しよう」
 崖というより峡谷か。乾いた岩と砂の谷間を、踏みしめながら進む。その岩の峡谷に、小さな、淡水を湛えた緑に包まれた水場があった。
 馬を繋ぎ、砂埃を払い、ようやく辿り着いた水場に安堵の息をつき、カインは峡谷の岩の壁を見上げ、小さく息飲む。
 切り立った崖の天辺に、紅い影が見える。
「……あれは」
 アベルも気付いたようだった。振り仰ぎ、小さく息をのむ。
 竜だ。
 輝く紅い鱗に覆われた身体と、その鱗から立ち上る、青白い焔。長く優美な尾は、ゆらゆらと揺れていた。
 ニルヴァーナよりも、遥かに身体が小さく思える。そして何より、あの煌めく鱗。
 ニルヴァーナの鱗は、深紅よりも深い紅だった。禍々しいほどに、狂気を感じさせるほどに、深い紅だった。今、崖の天辺から空を見上げる竜は、もっと鮮やかな紅で、それはとても美しく、華やかに、無垢に思えた。
「あれは……カイン、あれは」
 アベルは言葉が見つからないのか、切れ切れに呟く。
 例え醜い鱗に覆われた大蜥蜴でも、こんな鮮やかな燃える鱗に覆われた美しい生き物でも、絶対に見間違わない。どんな姿でも、彼女があの無邪気さを失わなければ、彼女を愛せると思っていた。
 カインは躊躇わずに水場に足を踏み入れ、両手で澄んだ湧き水をすくい上げる。
 いつか、彼女がそうしたように。カインは歌うように、呪文を呟き、祈りを捧げる。
 カインの掌の湧き水は、カインの祈りを聞き届け、姿を変える。掌から水は螺旋を描き、空へと登り始める。カインの掌の水が尽きると、足下の泉から立ち上り始める。
 きらきらと水の螺旋は空に登る。崖上まで立ち上ると、カインは空を見上げたまま、再び、呪文を口にする。
 水の螺旋は静かに飛沫を上げ、空へと四散を始め、砕けるように散った小さな水のかけらたちは、小さな小さな雪の結晶に姿を変える。
 砂漠の灼熱の空に、一瞬だけ、儚くも美しい雪の花が生まれ、舞い散り、溶けて消えていく。
 崖の上に佇む竜は、そのゆめまぼろしのような雪の結晶をじっと見つめ、不思議な鳴き声を上げる。
 それはあの日、夜明けのルズの蒼い森の泉でエルーが途切れ途切れに歌った、甘く、切なく、胸を締め付けるようなあの子守歌のように、カインとアベルの耳に届いていた。


2016/12/14 up

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