竜の棲み処 焔の魔女の森

#13 千年の夢の始まり

 どれほどの時間が経ったのか。
 空高くにあった太陽は、もう砂漠の地平に飲み込まれようとしていた。
 砂漠の水場に降り注ぐ小さな雪の花を、アベルにもたれたまま、素肌のエルーは子供のようにじっと見つめていた。
 カインも同じように裸のまま水縁に座り、エルーの望むままに、砂漠にうたかたの雪を降らせる。
「……ねえ。もしかして、アベルに聞いたの?」
 エルーはアベルの腕の中でほんの少し、眠たげに見えた。
「ああ。……お前が何故、ランアークから逃げだそうとしなかったかって話か」
 アベルもエルーを抱いたまま、水辺に舞い降りる雪の花を見つめている。
「雪が降るのを待ちわびていたからだと、アベルから聞いていた」
 カインも、同じように雪を見上げる。
 魔力で作られた、一瞬で消え去るゆめまぼろしの雪。
 水面に辿りつく前に、溶けて小さな雨粒に変わる。その儚い、ゆめまぼろしの雪を三人は静かに見つめていた。
 エルーにもう一度会えたなら、どんな言葉でこの気持ちを伝えたらいいのか、カインはそれをずっと考えていた。
 どんな言葉でも、伝えられない気がしていた。
 峡谷の崖の上に煌めく紅い鱗の竜の姿を、エルーの姿を見つけた時に、何も言葉が浮かばなかった。
 なくした言葉の代わりに、伝えられない気持ちの代わりに、贈りたかったのかもしれない。彼女が心から待ち望んだこの雪の花を。
 エルーはアベルの腕から離れて、水辺のカインに寄り添い、両手で抱きしめる。
「ありがとう。私を覚えていてくれて、忘れないでいてくれて、探しに来てくれて。……砂漠に雪を降らせてくれて、ありがとう」
 エルーは両手を伸ばし、カインの下腹に生まれた、五つの花弁を持つ紅いしるしに触れる。
 愛しげに辿り、撫で、抱きしめる。
「三人で、本物の雪を見よう。……これからずっと一緒に。……千年を超えて同じ雪を見られるように、私はあなたたちをずっと愛して行くから、だからあなたたちも、私を抱いていて」
 エルーはカインを抱いていた片手を、アベルに差し伸べ微笑む。
「日が沈むわ。……氷点下の夜が来る前に、行かなくちゃ。……アベル、カイン。地上で見る最後の日没になるよ……」
 立ち上がり、カインとアベルから数歩離れ、エルーは水場へ裸のまま、足を踏み入れ、数歩進む。
 しなやかな指先から、ゆらゆらと青白い焔が生まれ、緩やかにエルーの裸身を包んでいく。焔は次第に勢いを増し、エルーを包む業火になり、そして燃え上がる青白い火柱に変わる。
 その業火から、紅く輝く艶やかな鱗に覆われた竜が生まれ落ちるまで、カインとアベルは静かに見守る。
 火炎の竜へと変化を遂げたエルーは、静かに羽を広げ、一声不思議な鳴き声を上げる。
 それはいつかルズの蒼い森で聞いた、エルーの歌う異国の言葉の子守歌のように、二人の耳に届いていた。



 エルーの背中から降ろされた時には、とっぷりと陽も暮れていた。
 海を越え、いくつかの街を越えて辿り着いたのは、広大な湖の中にぽつん、と浮かんだ切り立った崖のような浮き島の古城だった。
「……ここが私の巣!」
 二人を降ろして再び人の姿になったエルーは、誇らしげに胸を張る。誇らしげなのはいいが、全裸のままだ。
 エルーの背中にも項にも胸元にも、この兄弟が残した唇の捺印が無数に刻まれていて、幾ら何でも目のやり場に困る。
 カインは羽織っていたマントを脱いで、そのエルーに羽織らせる。
 そういえば、『竜の番人』の存在は知っているが、具体的にどんな存在なのかは、思えばカインもアベルもよく知らない。
 よく知らないままに、エルーと愛し合ってしまって、番人になってしまったわけだ。
「入って入って。今日から私たちの家はここ! ……営巣地探しが終わってて良かった。お父さんの巣に二人を連れて行ったら、何されるか分かったもんじゃないもの」
 エルーが重そうなエントランスの扉を開けると、中はオイルランプらしき明かりがあったが、その薄明かりでも分かる。
 埃だらけ、蜘蛛の巣だらけだ。
「……おいエルー、なんだここ。廃虚か」
 エルーの後に続いて古城に入ったアベルは、物の見事に蜘蛛の巣に引っかかる。顔に貼り付いた蜘蛛の巣を悪戦苦闘しながら引き剥がすアベルを、エルーはまた子供のような笑顔で振り返る。
「ここは大昔、人間の王様のお城だったけど、大きな地震と洪水で分断されて、この湖の孤島に浮かぶ廃虚になってたの。だから私がもらっちゃった。ここが私の巣。あなたたちと私の巣」
 竜の巣がこんな城だとは思いも寄らなかった。人間の王のようではないか。
 カインは片手で蜘蛛の巣を払いのけながらエルーとアベルの後に続く。
「いい竜の巣っていうのは、人間の王様のお城みたいに豪華で、財宝がいっぱい詰まってて、掃除が行き届いていて、宮殿みたいなやつなの。……私もそういう巣を作るのよ。だから協力してね」
 そういえば竜は生贄の他に、財宝や食べ物も供物として要求していると聞く。
 その捧げられた生贄や供物への返礼が、国を守る事、国を豊かに導く事だ。美しく豊かに栄えた都。それは竜が夢見て望む『美しい財産』の一部になる。
 では、番人の仕事とは?
 エルーは二人の視線に気付いたのか、玄関を入ってすぐの広間の真ん中で振り返る。
「……竜の番人の仕事は、巣の維持だよ。掃除、洗濯、料理、色んな家事と、竜が集めて来た素敵な宝物の管理と、それから」
 エルーは二人の手を取り、両手でその手を抱きしめ、また、子供のように無邪気に笑う。
「交尾だよ。……私と交尾して、子供を作って……そして、私の為に私たちの卵を抱いて、育ててね。……私はあなたたちの子が欲しいの。ふたりの子供がね。ふたり、じゃなかったね。……私たち、三人の子供」
 あまりに無邪気に幸せそうに、当たり前のように、エルーは微笑み、そう語る。
 言われた二人の方がどんな顔をしていいのか分からない。あまりにもエルーは赤裸々に無邪気だ。
「……千年の夢を見せてあげるから、私にも夢を見せてね。……あななたちと、私と、それから……子供達にも」
 エルーはゆっくりと目を閉じ、それから二人を見上げ、瞬く。
 再び開かれた瞳は、いつか、ルズの蒼い森の薄暗い店の片隅で、カインが一瞬目にした姿見に映ったまぼろしのような瞳だった。
 鮮やかなすみれ色の虹彩に、猫や蜥蜴のように、細い瞳孔。
 美しも不思議な竜の瞳が幾度か瞬き、そして、囁く。
「……千年の夢をはじめよう。……私たちのために」



 焔の魔女の森 - エルー編 - 【終】


2017/01/02 up

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