戦時下でもあり、そう暇もないので月に一度、来るか来ないかくらいのペースか。
ノイマール王国の南に隣接するイルトガと国境線を争っていて、今は休戦中ではあるが、要警戒地域な為、時折視察に訪れる。
その道中、国境のそばにルシルの街があるので、余裕があれば立ち寄れるというのもあった。
今回は抜き打ちでセニを訪れたが、順調に成果をあげているようで、前回よりも著しい成長が見られ、ルーヴも気分が良かった。
目の前で馬を乗りこなすセニは、生き生きと見える。
どうもセニは部屋の中で黙々と勉強の成果を見せるのが退屈なようだった。
街の側に綺麗な草原があって、今は花も見頃だからそこで馬術を見せる、と言われて、ルーヴは引っ張り出されてこの草原まで来ていた。
セニは伸びやかで綺麗な型で乗りこなしている。
どうも得体の知れない奴だと思っていたが、この動物への接し方、乗りこなし方を見ると、普段見られない気質が垣間見える。
伸びやかだが粗雑ではない。力強いが繊細さもある。
倒木も茂みも綺麗に飛び越し、技術的に問題もない。
馬も管理の問題で、王家の別荘から時折貸し出されている。それほど練習はつめていないはずだ。
この短期間、短時間でここまで乗りこなすのはなかなかの事ではないか。
ふとルーヴは、セニに出会う数日前の事を思い出す。
『宝に出会えます』
あの占い師は、そう言っていた。
良く当たる占い師が城下に来ているから、是非呼んで占って欲しい、と妹のナディエが言い出したのが発端だった。
10才ほど歳の離れた妹は、巷で獰猛だの凶暴だの慈悲がないだの言われているルーヴに意見できる、数少ない人物だ。
ノイマールの大狼も、この母親によく似た黒髪の美しい妹が可愛い、というわけだ。
ルーヴは勿論、そんな下らないものに興味なぞ持っていない。
女子供はそういう下らんものが大好きだからな。
興味はなかったが、ナディエがあまりに熱心にねだるので、王宮に呼び入れる事にした。
ナディエと女官たちには大受けだった。ナディエも満足したようだし、ルーヴはこの老女の占い師に色をつけた報酬を与えて帰そうとした。
ところがナディエが食い下がる。
「お兄様も見ていただきましょう。とても良く当たるのですよ」
下らぬ、そんなものは女子供のする事だ、と言ってもナディエは聞かない。
かつてこの地方一体を統治し繁栄していたジェノー帝国も、星読みの結果を参考に政をしていた。
そのジェノーも結局は滅んだが、それを滅ぼしたアステソットの英雄の影にも、星読みの占い師がついていたそうだ。
ナディエは歴史に残る戦乱を具体的にあげて、占いの有用性を熱く語る。
「政にまで星読みを参考にしろとは申しません。でも、それほどに占いとは当たるものなのです」
白磁のように美しい頬を染めて熱弁を奮う。
たかが占いに、何故こんなに熱くなれるのだろうか。
結局ナディエに押し切られて、占い師に見てもらう事になってしまった。
異国の老占い師は、古い銀細工の器に水を張り、静かに占う。
「宝に出会えます」
漠然とした占い結果だ。これで当たるというのか。
宝とはどんなものだ、と問うと、老占い師は首を振る。
「目には見えぬもの、と出ております。それは最初、ひとのかたちをしているでしょう。ですがそのひとのかたちそのものは宝ではありませぬ」
どうやらこの老占い師が言う宝とは、宝石や土地や財宝の類のような『もの』ではないようだ。
ひとのかたちならば、人ではないのか。
「宝はひとのかたちをしたものが齎します」
分かったような分からないような。
謎掛けのような、訳の分からない。
「まぁ。ひとのかたちと言うから、お兄様にとうとう運命の恋人が現れるかと思ったのに」
ナディエはあからさまに落胆の声を上げる。
「ですが姫様、その宝は得がたいものだと出ています。人がそれをどんなに望んでも、手に入れられぬ事の方が多いものだと。それは素晴らしい宝なのではないかと思います」
何と言われても、正体不明な占い結果なのは間違いない。
ナディエにせがまれて約束以上の報酬を与えて下がらせたが、ルーヴはやはり腑に落ちない。
宝。
しかも目に見えない。
最初はひとのかたち。
それを望んでもなかなか得られないもの。
……さっぱりわからない。
一体何だというのだろうか、その奇妙な宝とは。
今考えてみると、あれはセニの事かもしれない。
ルーヴはそう思い始めていた。
最初はひとのかたち。
目に見えない宝。
得るのが難しい至宝。
これは将来、セニが歴史に名を残すほどの名将となり、この国に素晴らしい戦果を齎すという意味ではないだろうか。
国の戦勝と繁栄は、王にとっても民にとっても最も得がたく何物にも変えがたい至宝だ。
なるほど。
そう考えると納得が行く。
ならば、この出会った幸運の種であるセニを、よく育てなければなるまい。
今まで以上によい教師をつけて、今まで以上に良い教育を与えておこう。
セニの教育方針を考えているうちに、セニの馬術披露も終わったようだ。
だが、セニは馬の手綱を手近の林檎の木に結びつけたまま、あさっての方向を凝視している。
「……どうした?」
セニの視線に気付いて声をかけると、セニは弾かれたように駆け出した。
「兎だ! 真っ白い野兎! 珍しいから、ルーヴにとってあげるよ!」
セニはあっという間に茂みの中に飛び込んで行ってしまった。
ルーヴも吃驚である。
大人びて摩訶不思議に落ち着いた子供だと思っていたが、夢中になって茂みを掻き分けながら兎を追い掛け回すセニは、やはり歳相応の子供だ。
兎ごときを嬉しそうに追い掛け回している。
13、4歳の子供に、そう厳しくしても仕方がないかもしれない。
もとより少し大人びすぎている事を考えても、あまり型にはめず大らかに育てた方が、器の大きい良い将になれるかもしれない。
草むらにのんびり腰を置いて、ルーヴは天気の良い空を見上げる。
その時だった。
予想もしない方向の茂みから、セニと追われる野兎が飛び出してきた。
「ルーヴ! そっちに行ったよ!」
避ける暇もなかった。
ものすごい勢いで逃げる野兎と、ものすごい勢いで追いかけるセニが、座り込んでいるルーヴに転がるように飛び掛かった。
あまりの勢いと衝撃で、セニの下敷きに押し倒される。
「あっ……!」
夢中になりすぎて気付いていないのか、ルーヴを下敷きにしたまま、セニは野兎を逃して落胆の声を上げる。
幾ら大らかに育てる、と教育方針を固めたルーヴでも、このセニの暴挙にはさすがに腹に据えかねた。
ここは厳しく叱っておくべきだ。
幾らなんでもこれはすぎる行動だ。
大らかに育てるにしても躾は必要だ。
ルーヴの腹の上に跨がったまま、残念そうな声を漏らすセニを見上げて、ルーヴは一瞬戸惑った。
「……逃げられちゃった……」
あまりに日に焼けていない、白い喉が動く。
幼い手と小さな体は、その重さも気にならないほど、軽い。
「せっかくルーヴに捕ってあげようと思ったのに……」
紅潮した頬と、乾いた唇がゆっくりと動き、吐息を漏らす。
セニの瞳は兎の逃げた茂みを見つめたままだ。
細い顎は薄く汗を滲ませて、つややかに滑らかに見えた。
なんだか。
なんだか妙な感じが。
ルーヴは慌てて起き上がってセニを抱えておろす。
「……お前は悪戯が過ぎるな」
何とか言葉を搾り出すと、セニはやっと自分の非礼に気付いたようだ。
「……ああ、ごめんなさい。夢中になっていて、わからなくなっていた」
まだぼんやりと茂みを見つめている。
「王子にこんな無礼を働くとは、大した度胸だな。……今日のところは許してやるが、よく考えて行動しろ」
やっとセニはルーヴに向き直る。
「せっかく捕ってあげようと思ったのに……」
いまだかつて見た事もないほど、セニは子供そのものの表情で落胆している。
恐らく、セニなりのお返しのつもりだったのではないか。
うさぎのスープはルシルの名物だ。
特に珍しい白兎が美味とされている。
世話になっている礼をしたくとも、セニに出来る事は今のところまだない。
それは将来、国に尽くす事で返せばいいと思ってはいるが、ささやかながら今、自分にできる礼をしたかったのだろう。
王子にとっては大した料理ではなくても、セニにはこれが精一杯だ。
いつものセニからは想像が出来ないほどの幼さに、言葉が出ない。
「今度見つけたら、捕ってあげる。……楽しみにしていてね」
文字通り、ルーヴは言葉が出なかった。
「……どうしたの、ルーヴ」
無言になったルーヴの顔をセニは見上げている。
その問いかけで、やっとルーヴは我に返った。
「……帰るぞ。お前が兎なぞ追いかけるから、予定外の時間をとった」
「……ごめんなさい。これからは……気をつける」
しょんぼりしているセニを見ていると、何とも言えない感情が湧き上がる。
言葉にできない気持ち。
まさにそれだ。
「……帰るぞ」
もう一度声を掛けて、繋いでいた馬の轡に手を掛ける。
あれはいわゆる父性愛というものなのだろうか。
王都に帰った後も、ルーヴはそれを考えていた。
周りに小さい子供がいないせいで、大人びたセニが見せた子供っぽい仕草に、そういう感情を持ったのだろうか。
バートラムの五歳の娘を抱き上げながら、考え込む。
神経質そうな細い眉に、いやみなくらいすっと通った鼻筋、彫りの深い目元。
この娘、バートラムに死ぬほどそっくりだな。
見た目だけではなく中身もバートラムにそっくりだったら、さぞ慇懃な扱いにくい娘になるだろうな。
割と下らない事を考えている。
「申し訳ございませんが、ルーヴ様……。娘が固まっております。そろそろおろして頂けると助かります」
五歳児はいかつい軍人には、父とその同僚でなれていると思われるが、何か普段とは違うものを感じ取っているのか、竦みあがっている。
「……ああ」
ぞんざいに返事をして、バートラムに娘を返す。
別にバートラムの娘を抱いてみたところで、特に何の感慨もない。
あれは何だったのか。
考えれば考えるほど、分からない。
「ルーヴ様もお子をお持ちになれば、私の気持ちをお分かり頂けるかと思います」
いまだかつて、子供に興味を示した事がないルーヴが、子供に感心を示したのをみて、バートラムも思うところがあったようだ。
「お子をお持ちになれば……きっとルーヴ様がお探しのものが得られるかと」
そろそろ適齢期だから身を固めろ、と暗に言われているような気がしないでもない。
だが今は考え事で一杯だ。バートラムの言葉を素直に聞いておく。
それにしても、あの気持ちは一体なんだったのか。
ルーヴもまだその感情の正体に気付いていなかった。