ルーヴに抱えられたまま、セニはチェスの駒をつまむ。
今日は例によって例の如く、大体月に一回行われる勉強の成果を確認する日だ。
作法の披露が終わった後、何故かこうしてルーヴに抱えられている。
抱えられながら、なぜか戦略地図を広げて、架空の戦場を想定してどう布陣するかのシミュレーションを見せている。
やりにくい。
自軍に見立てたチェスの駒に手を伸ばして動かす。
とてもやりにくい。
よく、ご婦人が小さい犬を抱っこして散歩しているのを見かけるが、あれと同じだろうか。
これもある意味、支払われる給料に含まれる仕事なのだろうか。
特にイヤなわけでもないし、やりにくいだけで、我慢出来ないほどでもない。
なのでセニは特に意見しようとも逆らおうとも思っていない。
セニの軍配置に時々口を挟むルーヴの口調は、いつもと別段変わらない。
よくわからないが、まあリュカルドが言う『お尻を撫で回されたりあらぬところを淫らに撫で回されたり』しているわけでもないし、単に膝に乗せられているだけだ。
減るもんじゃなし、別に問題でもない。
セニもどうかしてるんじゃないかというくらい無頓着すぎるが、持って生まれた性格はどうにもならない。
リュカルドには余計な事は言わないでおこう。また訳の分からない心配をして寿命をすり減らすだろうし、年頃の女の子なニノンの前で、妄想ばかりが先走った苦言を述べられても困る。
滞りなくシミュレーションが終わると、ルーヴは何事もなかったかのようにセニを膝からおろす。
「まあこんなものだろう。……来月からはもっといい教師に替える。今まで以上に良く学べ」
特にこの事に触れたコメントはない。
素直にセニは頷いて片付け、帰り支度を始める。
バートラムの娘はどうでも良かったのに、やはりセニは特別なのだろうか。
セニが帰った後も、ぼんやりしたまま目の前のテーブルに広げられたままの戦略地図を眺めている。
この幼い、だが才能ある少年を伝説になるような将に育てる、という擬似育児をしているせいで、父性愛というものが芽生えたのだろうか。
きちんと片付けられたチェスの箱から、ポーンを摘み上げて、考える。
よくわからない。
だが、セニが去った後の、この何ともいえない感情は一体なんだろうか。
未だ王都に移る事もためらうセニに、苛立ちを覚えるが、これはきっと、より良い教育を与えたいあまりの急く気持ちか。
組んだつま先を、イライラと揺らす。
何ともいえないもやもやとしたものが、胸の中にある。
今まで経験した事がないこのはっきりしない、それでいて落ち着かない気持ちを持て余しつつある。
その時、廊下からえらく機嫌のいい歌声が聞こえてきた。
「~~す~きにして~よ~こぉ~いのぉ~ど~れい~~~~♪」
バーン、と遠慮のない音を立てて、部屋のドアが開かれる。
どかどか大股で部屋に入って来たのは、大きな花束と花瓶を抱えたジェイラスだった。
「うーん、いい香りだ。……よっしゃ、これでヨシ、と」
気分も良さそうに花瓶に生けて軽く整え、振り返る。ルーヴがまだ部屋にいた事に、やっとそこで気付いた。
「うわっ! ルーヴ様!」
「……またその花か」
ジェイラスが生けた花は、例の妖しい花言葉の白い花だ。ジェイラスの無礼よりも、そっちの方が目に留まる。
「ルーヴ様はこの花がお嫌いですか」
ジェイラスはのんきに花の花弁を摘む。
「誰のせいだ。……それにしても何故のその花を飾りたがる」
セニにいらぬ誤解をさせた花だが、何故かジェイラスはこの花を、事あるごとにこの部屋に飾る。
「あ、あー。この花を作っている農家の娘とちょっと。これが鄙には稀ななかなかの美人なんですよねー」
女の気を引くために、この花を大量に買っているのか。
ルーヴも納得が行く。
「えらい花言葉ですが、この街では契りの許しに贈ったりもするそうですよ。ちょっとエロティックで趣のある風習ですよね」
エロティック。
そういえばここ半年、国境の警戒とセニの教育の事で頭が一杯で、すっかりそれを忘れていた。
「ま、俺は色んな意味で買ってばかりですけどね」
などとあけすけに豪快に笑っている。
「そうだな。……そういえばそれを忘れていた。ジェイラス、女を用意しておけ」
そう言って席を立つ。
「そういえば、ずいぶん久し振りですね」
ジェイラスも不思議に思っていた。
戦場で発散するタイプとはいえ、以前は定期的に女の用意をしていた。
特定の相手も持たないし結婚する素振りもないが、まともに性欲はある。
毎晩はべらすようなタイプではないが、人並みくらいには勿論そういう欲求を持っている。
獰猛で時折手のつけられない暴君になる事もあるが、そこは倫理観が働くのか面倒が嫌いなのか、商売の女にしか手を出さない。
ただ、かなりの気分屋なので、気が向くと用意させるものの、へたをすると何かが気に入らず、抱く事もなく帰したりもする。
稀に立て続けに女を用意させる事もあるが、そういえば半年も空くのは珍しい事だった。
「どんな女をご用意しますか」
「こんな田舎街だ、贅沢言えるのか?」
「それなりには。ツテもあります。全てのご要望に副えるかはちょっとわかりませんが、ある程度は」
ルーヴは少し考え込む。
「栗色の髪に小柄で細身か。……そうだな、できれば若い方がいい」
「はいはい、栗毛に小柄な若い娘ですね。あとはだいたいルーヴ様の好みっぽいのを選んできます」
「適当に任せる」
それだけど言い捨てて部屋を出て行く。
ジェイラスはルーヴの背中を見送りながら、ふと思った。
随分女の好みが変わったな、ルーヴ様は。
以前は手馴れた感のある、肉感的な美女を用意したものだが、これはまたどういった趣旨替えだろう。
そういういつもの定番に飽きたのかねえ。まあどうでもいい事だが。
そういえば昨日、街で声をかけてきた街娼がそんな感じの娘だったな。あれでいいかな。
ジェイラスはアテを思いつくと、手配のために部屋を後にする。
ジェイラスは条件通りの女を用意してきた。
濃い目の栗色の巻き毛に、明るい榛色の瞳、白い滑らかな素肌に、細く小さな身体。
胸も尻も控え目。
恐らく10代だろう。
未成熟な身体だが、街娼としては長そうだ。あまりにも手馴れている。
可憐な仕草で娘は足を開き、誘う。
娘の甘く香る身体を抱き寄せながら、漠然と考える。
小さく喘いで、薄い唇を開く。
娘の小さな胸を鷲掴みにしながら、その淫らに喘ぐ顔を見つめる。
もっと表情は乏しいが、この微笑むように目を細める顔を、知っている。
「あ、あっ……ん」
甘えた細い声をあげて、娘は足を絡める。
赤く尖った胸の小さな突起を摘みあげられて、娘はゆるく眉根を寄せ、切なげな吐息を漏らした。
そうだ、この顔を知っている。
兎を逃した、あの時のセニの顔だ。
ルーヴは突然跳ね起きると、淫らに足を絡めていた娘を突き放して、寝台から飛び降りる。
「……ルーヴ様?」
粗相があったのか、機嫌を損ねたと慌てて娘も起き上がり、追いすがろうとするが、ルーヴは乱暴に振り払い、服を羽織ると、ドアを叩きつけるように荒々しく開いて飛び出す。
「……ルーヴ様、お許しください…お許しください!」
娘の叫び声と、激しい物音を聞きつけたバートラムが、控えの部屋から飛び出してくる。
「ルーブ様、お待ちください! こんな夜中に、護衛もなくどこに行かれますか!」
騒ぎに気付いて集まってきた従者たちも、ルーヴを止められない。
ルーヴは静止も聞かずに庭へ飛び出すと、庭木に繋いだままになっていた従者の馬の轡に手を掛ける。
「ルーヴ様、お待ちください!」
バートラムの声は、馬に当てられた鞭の音にあっさりとかき消された。
あれは何だったんだろうか。
セニは寝間着に着替えて、それから丁寧に脱いだ服をたたむ。
やっぱり室内犬か何かと間違われているんだろうか。
きちんとたたんだ服を椅子の上に置いて、寝台に腰掛ける。
誰かにああして抱き上げられるのは、結構前に父さんがしてくれたのが最後だったかな。
抱っこ、大好きだった。
とても愛されているような気がして、とても心地が良かった。
三人が小さい頃、養父はよく代わる代わる膝に乗せて本を読んでくれた。
あの時は何とも思わなかったけれど、なんとも甘酸っぱい気持ちになるものなんだなあ。
のんびりと思い返している。
大柄なルーヴの懐は、養父の優しい膝上を思い出して、とても幸せな気持ちになれた。
なんだか犬か何か扱いのような気がしないでもないが、とても安らげる。
またされてもいいかな。
……さて、そろそろ寝よう。
あまり夜更かししていると、朝にニノンがランプの油の減りを見てあまり寝ていない事に気付いて怒り出すから。
ランプを消そうとした時、馬の蹄の音に気付いた。
こんな夜中に、一体誰だろう。
馬は家の側で止まったようだ。
ランプを窓辺に置いて、窓を開け、身を乗り出す。
「……誰? 誰かいるの?」
暗闇から不意に大きな手が伸びて掴まれる。
「……ルーヴ?! どうしたの、こんな夜遅くに」
さすがのセニも心底驚いている。
その問いに答えずに、ルーヴは目の前のセニの身体を抱いて、窓から引き摺り出している。
「一体どうしたの。……何かあったの?」
訳がわからない。
ルーヴは全く応えない。セニを引き摺りだすと、乱暴に肩の上に担ぎ上げて歩き出す。
セニにはまったく訳がわからない。
担がれたまま、どうしたものかとまだのんきに考えている。
ルーヴはセニを担いだまま、修練場の横手の、小さな雑木林まで歩いていく。
雑木林手前の大木の前に辿りつくと、ルーヴは担いでいたセニを降ろす。
「……ルーヴ?」
ルーヴは相変わらず、何も言わない。
ただ、じっと月明かりに照らされたセニの顔を見下ろしている。
「……どうしたの?」
暫くの沈黙があった。
それから、ようやくルーヴは口を開いた。
「……明日、また来い。話はそれからだ」
何かルーヴの不興を買うような事をしただろうか。
セニはぼんやりと考える。
「いいな。明日だ。必ず来い。来なければ命はないと思え」
それだけど言い捨てると、ルーヴは踵を返して歩き出す。
本当に何がなんだかわからない。
セニは大木に寄りかかったまま、ぼうっと考える。
今日の昼間の事が気に入らないなら、今言いに来るような事でもない。
一体何だというんだろう。
思い当たる事もなく、疑問に思いながら、小さなあくびをかみ殺す。
明日でいい。
明日、別荘に行って話を聞けばわかる事だろう。
眦を擦りながら、セニは家に戻ろうと歩き出す。
数歩歩いて、ふと自分の身体に残った香りに気付く。
きつい女物の香水の匂い。
その匂いに気付いた瞬間、セニの頭の中が真っ白になる。
これはルーヴの残り香だ。
ルーヴに残っていた香りが、今香っているのだ。
それに気付いた途端に、胸に鋭い痛みが走った。
痛んだ胸に、そっと掌を当てる。
どうして痛むのか。
なんだろう、この鋭い破片が突き刺さったような痛みは。
訳がわからない。
ルーヴが誰かと、香りが移るほど密に過ごしている。
そう考えると息苦しくなるほど胸が痛む。
自分はルーヴの事が好きなのか?
恋なんてした事もない。そんな感情はまだまだ先、もっと大人になってから知るものだと思っていた。
そんな事を考えた事がなかった。
そもそもルーヴは王子だ。
そう遠くない未来に、王位を継いでこの国を治める。
住む世界が違いすぎて、そんな事を思いつきもしなかった。
なにもかも、訳が分からない。
わけのわからない事を言うルーヴ。
わけのわからない胸の痛み。
胸を締め付けるこの香り。
きゅっと唇を噛んで、セニはゆるく頭を振る。