リュカルドはテーブルの上に例の小瓶を置いて、無言で差し向かいに座ったセニを見つめている。
セニは今まさに進退窮まっている。
正直に話してもリュカルドは憤って血管が切れるだろうし、嘘をついても憤って血管が切れるだろう。
何をどう説明したらいいものか。
セニは困ったな、と心の中で呟く。
「……どうしてこんなものを持っているんだい? 怒らないから、正直に話してごらん」
既にこめかみに青筋をたてているリュカルドにそう言われても、全く説得力がない。
セニも心底困り果てている。
素直に本当の事を言う事に関して、セニとしては全く恥じる事もないと思っているので構わない。
ただ、本当の事を話した後のリュカルドが厄介だ。
怒りのあまり泡を吹いて倒れるかもしれないし、発狂して王家の別荘に殴り込みをかけるかもしれない。
正直に話しても、リュカルドから理解を得られるとは到底思えないし、更に心労をかける結果になるのは間違いない。
ニノンが起き出してきた時に、険悪な雰囲気を察して割って入ろうとしたが、リュカルドはにべもなくニノンを居間から追い出して、まだまだセニの尋問をする気まんまんだ。
そうこうしているうちに、険悪なままもう昼もすぎて日が翳りそうな時間帯だ。
ニノンという助け舟も期待できない今、セニのとる方法はひとつしかなかった。
卑怯な作戦だけれど、仕方がない。
もう手段を選んでいる場合じゃない。
セニは諦めてため息をひとつつくと、口を開いた。
「……リュカルドは何故、これが何か知ってるの?」
思わぬセニの一撃に、リュカルドは一瞬詰まる。
「……えっ?!」
「これをくれたのは、王家の軍人さんだよ。最初お菓子に見えたから、そう言ったら、違うって言われた。……もうそろそろ年頃だし、そのうち必要になるかもしれないからって、ひとつくれたんだよ」
嘘をつくのは気が引けるが、これも自分の保身より、リュカルドの心と体を思い遣っての嘘だ。
嘘も方便。
セニは自分に言い聞かせる。
「だから、これが大人が使うものなのは知ってる。……リュカルドは、これが何なのか、どうして知ってるの? ぼくは教えてもらうまで分からなかったのに、何故分かるの?」
「えっ……?! ……えーと……」
セニの思わぬ反撃に、リュカルドも目が泳いでいる。
セニは知っていた。
中身はさておき、リュカルドの外見はとても優雅で繊細で、身内の贔屓目なしでみても、美しい。
追放騎士の養子だとわかっていても、街中の女の子がこの流れるはちみつのような金髪と、深い海の色の瞳に夢中な事を、セニは良く知っている。
リュカルドは口癖のように『セニとニノンが一番大事だから、恋人とか結婚とか、そんな事はとても考えられないよ』と言っているが、セニは夜中に何度かリュカルドが家を抜け出している現場を見た事があった。
「……もしかして、あの黒い巻き毛の、可愛い女の子かな。それとも、南通りの赤毛の綺麗なお姉さんかな。……それとも、北の商店街の、綺麗な緑の目の若い奥さ……」
「わーーーーーー!!! 待って、セニ、ちょっと待って!」
セニの口を慌てて片手で塞ぐ。
こういう時に、いくら家族といえども人の恋愛事情を持ち出すのはかなり卑怯だとは思うけれど、リュカルドだってぼくのそういう部分に踏み込もうとしているんだから。
口を塞がれながらセニは思う。
リュカルドは、まさかセニに気付かれているとは思っていなかった。
子供の頃から勘の鋭い弟だったけれど、まだまだ子供だしね、と舐めて油断していた。
「……ええと……。まあ僕のそういう問題は置いておいて!」
リュカルドは軽く咳払いをする。
「……リュカルドは少し年上なだけじゃないか。リュカルドは大人で、ぼくは子供なの?」
「子供です」
きっぱりと言い切る。
「まだ君は13歳なんだよ? 成人の儀も終わってないような子供なんだ。父さんたちが亡くなってしまって、まだ未成年の君たちを誰が守るのかと言ったら、僕しかいないだろう。僕は君たちを健全に幸せに健やかに育てる義務がある。君たちに何かあったら、僕は父さんや母さんに申し訳がたたない」
リュカルドだって未成年じゃないか。
確かにこの家で一番年嵩なのはリュカルドだが、三人は戦災孤児だ。
正確な年齢はわからない。養父母が推定で適当に決めた。
もしかしたら二つくらいしか、歳が変わらないかもしれないじゃないか。
セニは大人気なく心の中で反発する。
「特にあの王子は油断ならない。元々、乱暴者だとかいい噂は聞かないし、軍人に取り立てるつもりだ、なんて言って疑う事を知らない子供をたぶらかして良からぬ事をしようとか思っているに違いない」
実際そういう事をしてしまったので、セニも若干うしろめたい。
とにかく何かいい方便を考えようと、リュカルドのお説教を聴いている。
「まだ成人もしていないようなものの分からない子供を手元におきたいとか、絶対下心があるに違いない! きっと君を自分好みに育ててあわよくば、とかろくでもない事を企んでいるに違いないよ!」
ああ、なるほど。
自分が男だから、男のそういう欲望がよく分かる訳だ。
リュカルドも忙しそうな割に、結構色んな女の子と遊んでるものね。
益々ヒートアップするリュカルドを観察しながら、更により説得力のある反論を練る。
「セニがあの王子を好きだと言う場合はまた考えるけど、合意がない上で君に無体を働くようなら、それは僕も容認出来ない。その時はこの命をかけてでも……」
「……ちょっと待って」
物騒な事を口走っている兄を制して口を挟む。
「ぼくがルーヴを好きなら問題ないって事?」
「え?」
予想もしないセニの発言に、リュカルドは固まる。
「だから、もしぼくがルーヴを好きで合意なら、リュカルドはそういう事になっても、認めるの?」
これはいい絶好のチャンスだ。
ここでリュカルドの言質をとれば、後々小出しにする時に有利になれそうだ。
セニは言葉尻を鋭く捕らえて、形勢逆転を狙う。
「………………」
リュカルドは何ともいえない表情で黙り込んでいる。
うかつにここで何か言うよりも、大人しく返事を待った方が良さそうだ。
セニも静かに待つ。
「…………………だ」
リュカルドがぼそっと呟く。
「……何? よく聞こえなかっ……」
突然がしっと両肩を掴まれる。
「……君は、あの王子の事が好きなのかい?!」
そう来るとは思わなかった。浅はかな質問をしてしまったかな、と一瞬後悔する。
「……とてもいい人だよ。勿論、嫌いじゃない」
セニの両肩を離して、リュカルドは少し俯いて何か考え込んでいる。
「…………………」
次に何を言われるか、全く予想がつかない。
セニは固唾を呑んでリュカルドの様子を伺う。
「…………………認めない」
きっぱりと言い切った。
「認めません! 第一男同士だし、何より身分が違いすぎる、年齢が違いすぎる! そんな不純同性交遊、お父さんは絶対に認められません!」
見事な大暴発だ。
セニは失敗した、と心の中で呟く。
「そんな苦労すると分かっている男のもとへ、みすみすやれるわけないだろう!」
リュカルドの激昂っぷりは今まさにピークだ。セニは困り果てながら、成り行きを見守る。
「僕の目の黒いうちは、そんな事絶対に認めない! 君を幸せにするのは僕の夢であり希望であり野望であり、とにかくそんな目に見えて不幸になるしかない為に今まで必死に大事にしてきたわけじゃない!」
リュカルドの瞳は黒くないよね。青いよね。
途方に暮れながらどうでもいいところを心の中で突っ込む。
「とにかく僕がいる限り、君には指一本入れさせない! 入れさせないさ、ああ!」
それを言うなら『指一本触れさせない』じゃないかな。それにもう、それはされてしまったんだけどな。
そう言ったら、リュカルドはどうするだろう。
今度こそ血管が切れるかもしれない。
激昂するリュカルドに心の中で突っ込みながら、セニはまだこの不利な戦場をどうどう始末するか考えている。
「絶対に認めないからね。いいかい、セニ。あの王子にどんなにしつこくされても、純潔を守るんだよ。いいね?」
人の事より自分の純潔はどうなのか。
それにリュカルドも色んな女の子の純潔を守ってあげたらいいのに。
これはもしかして因果応報ってものじゃないかな。
そんな事を考えながら、セニはリュカルドの手を取って、微笑んでみせる。
「……リュカルドがぼくをとても大事にしてくれている事は、よく知っているよ。……心配させて、ごめんね。……でも、もう子供じゃないよ。リュカルドに守って貰えるのは嬉しいし、大事にしてくれる気持ちもとても嬉しいけどね」
とった手を優しく両手で包み込む。
「ぼくは……リュカルドの事が心配だよ。……ぼくの事ばかり心配かけて、心労かけてしまって。ぼくは……リュカルドにこそ、幸せになって欲しいよ」
リュカルドは複雑な状態で寝床に入った。
セニの優しい言葉に感動しつつ、更に子供(?)から親離れ(?)宣言をされて、さめざめと泣き濡れながら寝台に潜り込む姿を見ていると、セニも胸が痛んだ。
心配してくれるのも、大事に思ってくれるのも、本当に嬉しいけれど、リュカルドは人の事ばかり心配していて、自分の幸せを忘れ去ってしまっている。
いつかは子離れ(?)をしないといけない事だし、ここで一度『もう子供ではない』と宣言して、過干渉をけん制しておく事は必要だった。
いい加減リュカルドには、リュカルド本人の幸せを求めて欲しい。
このままではきっと、セニの心配だけでなく、年頃になったニノンにも過干渉を続けて、心労のあまり衰弱死するか怒りのあまり血管が切れて死ぬか、そのどちらかになってしまうのではないか。
そんな事にならないとはとても思えない。
ありえそうで、全く笑えない。
激昂したリュカルドが荒らしていった居間を片付けながら、セニは考える。
けれど、リュカルドは全く過干渉をやめる気がなさそうだ。
あの例の小瓶は、リュカルドにしっかり没収されてしまった。
ああいうものは、どこで買えるんだろう?
そもそも未成年でも買えるんだろうか。
テーブルをごしごし拭きながら、セニはきゅっと眉根を寄せる。
ルーヴを驚かせようと思ったのにな。
小さなため息をついて、セニは窓辺に座って暮れ始めた空を見上げる。
「……な、どっちだと思う?」
大木の大振りな枝に寝そべって双眼鏡を覗いたまま、その木の根元に三角座りしている小柄な少年に声を掛ける。
「うーん。金髪は育ちすぎだし、栗色は小さすぎる気がする。しいて言えば、金髪かなあ」」
所在なげに草を毟りながら答える。
「十五か十六くらいなんだよな。……髪色から考えたら、弟の方じゃないかなあ」
枝に寝そべっている方は年頃は十七、八くらいか。前髪をかき上げながら、真剣に双眼鏡を覗く。
「けど、髪は染められるからな。髪色を変えてるかもしれない。……もっと決定的な根拠が欲しいな」
木の根元の少年は、うーん、と声に出して唸っている。
「もう暫く調査した方がいいんじゃない? ……街の噂じゃ、弟の方、ルヴトー王子の手が付いてるみたいだし」
「それが事実だったらものすごく面倒だ。兄にしても弟にしても、レトナ家とルヴトーが近しいのはすっごくまずいし面倒」
「兄の方はルヴトー王子を毛嫌いしてるようだよ。弟だったら厄介だね。べったりだもん」
パチン、と革ケースの留め金の音が響く。
双眼鏡の入った革ケースを懐にしまうと、器用にスルスルと大木の幹を伝い下りる。
「……もうちょっと様子をみようか」
手早く衣服を整えて、座っている少年を促す。
「……暫く様子を見て、チャンスを狙おう。……一度戻ろうか」
三角座りしていた少年は、立ち上がってパンツに付いた草を払う。
「りょーかい。……ルートは?」
「東のマデリア国境を抜けよう。で、ヤルー平原経由で」
「はーい。宿戻って荷造りしよ」
黒髪の少年は背後を振り返る。
「……手段を選んでいたら、欲しいものなんか手に入らないからね」