剣を握るその手は、すらりと指が長く、節くれだって皮膚は硬くなっていた。
優美さからは遠く離れた、戦う者の手だ。
その無骨な手は時に優しく、時に乱暴に、時にみだらに、セニに触れる。
口付ける前に、セニの唇を指でなぞる事がある。
その指につられて薄く唇を開くと、ルーヴの唇が触れてくる。
幾度か啄ばまれ、誘われて舌先を差し出すと、その舌先を甘く吸い、食む。
大きな手で抱き寄せられると、それだけで身体の奥深くが、甘く痺れるような気がしていた。
「……セニ」
熱くなった吐息で名を呼ばれる。その切なさの滲んだ声が、たまらなく好きだった。
本当に恥ずかしい。
セニは裸足のまま、家の外の井戸の水を汲み、頭から浴びる。
恥ずかしくて情けなくて惨めで、涙が出てくる。
ずぶ濡れのまま、火照った身体を冷まそうと、更に水を汲み上げる。
夏の明け方とはいえ、汲み上げたばかりの水は冷たい。
その冷たい水をもう一回浴びて、眦を拭うと、素肌に張り付いたシャツから雫をぽたぽた滴らせながら、セニは井戸の淵に腰掛ける。
俯いて両手で顔を覆って、泣くのを堪えようと息をつめる。
ルーヴに会いたい。ルーヴに触れたい、触れられたい。
そう思うと、身体ばかりが悪戯に火照って、あの時の事を思い返してしまう。
無骨で大きな手に触れられた時、唇が素肌を伝う感触、熱くなった吐息、意地悪で甘く責め苛む指先。
もどかしげに、焦れたように、かすれた声で名前を呼ばれるあの瞬間。
考えないように、忘れていよう、と思えば思うほど、この身体に生々しくその感触が蘇る。
自分が浅ましく醜くすら思えてくる。
もうどれくらい会っていないだろう。
セニは指折り数える。
思い出さないように、忘れていられるように、そう思っていても、ルーヴを強く思い起こさせるアレクシスがやって来る。
何が似ているかといえば、その声と話し方だ。
よく似た低い声と落ち着いた話し方、その言葉遣いは、嫌がおうでもルーヴを思い出させた。
自分の中に、そんな激しい感情がある事を、セニは知らなかった。
こんな気持ちは、知らない。
知りたくなかった。
こんな寂しさも、恋しさも、切なさも、知らずにいたかった。知らないままでいたかった。
「……セニ? ……どうした、こんな朝早くに」
突然声をかけられて、セニは驚いて顔を上げる。
明け始めた朝の庭先に、ノイシュが心底驚いた表情で立っていた。
「幾ら夏でも、まだ朝は水が冷たいだろ。夏風邪ひくぞ」
こんな朝早くに、なぜここにノイシュが。セニは驚きのあまり言葉が出てこない。
「……ああ、今日はティーオの具合が悪くて。寝込んでるから、早めに連絡しておこうかと。そっちも都合があるだろ? まずは迷惑かけないように、手紙をおいておこうと思ったんだよ」
懐から手紙を取り出して、ひらひらさせている。
「……泣いていたのか?」
セニは慌てて目を擦り、それから自分の格好に気付く。
寝間着のシャツ一枚に、裸足だ。おまけにずぶ濡れで、素肌に張り付いている。
思わず、かあっと頬が熱くなった。
「へー。そんな顔も出来るんだ」
くすっとノイシュが笑う。
「……着替えておいでよ。乗馬は出来るんだろ? ティーオの馬も空いてるし、いいところに連れて行ってあげるから。どうせ週末はティーオの稽古がなければ暇なんだろ?」
何があったのか、それ以上聞こうとはしない。正直今は触れないでもらえるのが心底セニは嬉しかった。
「多分、セニが見た事もないところだよ。……さあ、着替えておいで」
無邪気にノイシュは右手を差し出す。
結構な距離を移動してしまった気がする。
これは馬の脚を考えると、日帰りできない距離かもしれない。
ノイシュに誘われるまま、乗馬散歩だとばかり思って連れ出されてしまったが、この方向は東のマデリア国境方面だ。
早朝に出発したが、常足で二時間、三十分程度の休憩を入れながら幾つかの街道を越えて、もう昼に差し掛かるくらいになっている。
「……どこまで行くの」
セニはさすがに不安を覚える。思えばこんな長距離を移動した事がなかった。
「マデリア国境の手前までかな」
ノイシュはのんびりと答える。
「東部地方に来た事ないんだろう? ここは、十数年前はエシルっていう、小さい国があったところだ。ベルラン王に滅ぼされて、今はノイマール領になってるけどな」
セニが生まれる前後の頃。そう遠い昔の話ではない。
馬に揺られながら、緑豊かな木立に囲まれた街道を進む。前方には小高い丘陵地帯が広がっている。
「ルヴトー王子が『ノイマールの大狼』とか言われてるけど、よほどベルラン王がやった事の方が非道だと俺は思うけどね……おっと、今のは内緒だよ」
セニは黙って聞いている。
「……あの丘が目的地。もうすぐだ」
下草に覆われたなだらかな丘を登りきると、目の前に高く澄んだ夏の空と、深い緑の葦の生い茂る広大な湿原が広がった。
澄んだ水を湛えた湿原に、人の背丈よりも伸びた葦が生い茂る。まるで緑のさざなみのように、葦が風に揺れていた。
丘へと吹き抜ける風まで深い緑に染まっているかのようにすら感じられる。
生命力に満ち溢れた美しさに、言葉が出ない。
「……ここは元エシル王国領の、エヴァン湿原。……本当は明け方や夕暮れが一番綺麗なんだけどね」
ノイシュは馬から下りて、手近な立ち木に手綱を結びつけ、セニを促す。
「昔話をしようか。この湿原のほとりにあった、小さな城のお姫様の話だ」
セニを鞍から降ろすと、同じように立ち木に手綱を結びつける。
「ほとりの城のお姫様は、この湿原の名前をとって、エヴァンジェリン姫と呼ばれていた」
エヴァンジェリン姫の最初の不幸は、十五歳の誕生日に訪れた。
十五歳になったその日に、親子、いや祖父と孫ほど歳の離れたエシル王の後妻として嫁いだ。
ひどい話だよな。
結納金に目がくらんだ両親が、たった十五歳の娘を老人に差し出したんだ。
エシル王はこの未熟な姫に夢中で、姫を娶ったその年にラーン王国で採掘された最高級品の大粒のクリスタルオパールを買い付けて、姫への永遠の愛の証に贈ったそうだ。
姫の柔らかに輝く素肌のようだって。孫ほど歳の離れた姫を溺愛してたんだよ。
恋もまだ知らない幼い姫は、そのままエシル王の子を身ごもり、元気な男の子を産んだ。
年老いた王はそりゃあもう母子ともども更に溺愛した。
王の子供は何人かいて、エヴァンジェリン姫の子は、三番目の王子だったかな。
幸せな結婚とは言えなかったけど、愛されて慈しまれて、姫とその息子はそれなりに幸せだったんじゃないかなあ。
ある日、姫が王子を連れて、この湿原の城に里帰りしている時の事だった。
かねてからいざこざが絶えなかったノイマール軍がとうとう国境を越えて進軍を始めた。
ここは国境から近い。
ベルラン王は最初からエシル王家を完全の滅ぼすつもりだったんだろうね。誰一人生き残らせるつもりはなかった。
あっという間に先行部隊が到達して、この葦の湿原に火を放った。
夏ならこんな風に青々と茂っているけれど、冬の終わりには枯れてよく乾燥している。強い風に煽られて瞬く間に燃え広がり、ほとりの城にまで火の手は迫った。
城を取り囲む兵士と業火を見て、もう逃げられない、と悟った姫は、幼い王子を抱きかかえて、城の塔から焔の海と化した故郷の湿原に身を投げた……。
「……と、まあこんな事があった場所なのさ。こんな美しいところなのに、ほんの十数年前に、そんな悲劇があった」
ノイシュは大きく伸びをして、深呼吸をする。
「最近まで、ここは立ち入り禁止区域だったけど、今はこうして自由に散策できるようになってる。……見てみるといい」
懐から革のケースを取り出し、留め金を外すと、中から綺麗な細工が施された双眼鏡を取り出す。
「湿原には色んな動物が棲んでる。うさぎに、カヤネズミに、イタチに、オオタカに、イヌワシに……。双眼鏡を持っていれば一日過ごせるくらい、面白くて綺麗な場所だよ」
セニは手渡された双眼鏡を覗く。
「セニ。……もしエヴァンジェリン姫の王子が、戦火から逃れて生きていたとしたら……って考えないか?」
高い空に、獲物求めて翼を広げるオオタカが見えた。その大きな両翼が風を切る音が聞こえそうな錯覚すら覚える。セニは双眼鏡から目を離して、ノイシュを見つめる。
「もしかしたら……俺がエヴァンジェリン姫の王子かもしれない」
くすくす笑いながら、セニの瞳を覗き込む。
「そう考えると、ロマンがあるだろ?」
「……もしそうだったら、ノイシュはどうするの?」
あの探るようなノイシュの瞳に、セニの姿が映る。この夜の海のような青い瞳は、なにもかも知っている、とでも言うようで、時折セニはわけもなく不安になる。
「俺が王子なら、間違いなく、この湿原を取り戻すために戦うかな。……夜明けの湿原を見せたいよ。この世のものとは思えない、幻想的で荘厳な美しさだから」
ノイシュは湿原の遠い地平に目を移す。
どこまでも続く葦の湿原。このおとぎ話の楽園のような美しい湿原を、エヴェンジェリン姫と幼い王子は、きっと深く愛していただろう。
その緑の海を、二人並んで言葉も無く見つめる。
「……夜明けの霧煙る湿原で朝を迎えようか、セニ」
本当に、ノイシュはどこまで本気でどこまで冗談かわからない。
いつもセニをからかって反応をみる。それさえやめてくれたらいい人なのに。
セニは軽くため息をつく。
「……今夜はリュカルドが帰ってくるからね。帰らないとややこしい事になる」
声をあげてノイシュが笑う。
「朝帰りさせたら、ルヴトー王子並みに毛嫌いされるんだろうなあ。……さて水辺まで降りて馬に水飲ませてやらなきゃな」
手綱を解くと、二頭の馬を引いて歩き始める。
セニは再び空を見上げる。
抜けるような青空に、呼吸が奪われそうになる。
この美しい湿原が、業火に包まれた。それを考えるだけで、胸を締め付ける切なさに言葉を失う。
「……セニ?」
「……なんでもない」
慌てて後を追う。
目の前の葦の海原に、エヴァンジェリン姫と幼い王子の幻影が見えるような気がした。
「もおおおおお!!! ふたりともどこ行ってたのー!!」
結局、なんとか日帰りは出来た。
思ったよりレンドハルトの馬は頑丈なようだ。往路で数回、30分の休憩を与えただけで、元気に遠距離を歩ききってくれて、夕方にはルシルの街まで戻ってくる事が出来た。
それより、ニノンが大変なおかんむりだ。
「ふたりともひどいよね、遠乗り行ってくるって書き置きだけ残して、ティーオくんおいてっちゃうなんて!」
ノイシュとセニは顔を見合わせる。
そういえばすっかりそれを忘れてしまっていた。
「ごめんなさい」
素直にセニは謝る。
「えー。どうせティーオは腹出して寝てただけだし。腹が痛いくらいなら、宿で休んでれば治るし。そこまで子供じゃないんだから、宿の人に色々頼めるし」
薄情な兄である。ノイシュは全く反省していない。
「ひっどいお兄ちゃんだよね! ……ティーオくん心細くなっちゃって、うちまでお兄ちゃん探しに来たんだから。お兄ちゃんなのに、だめじゃない。かわいそうでしょ」
最早すっかりティーオの姉だ。
ティーオの控え目さはニノンの母性をたまらなくくすぐるようで、まるで姉のように世話を焼いている。
「セニのベッド使わせてもらったからー。ティーオくんと一緒にお昼寝しちゃったよ私も」
「あー。ごめん、ニノン」
やっとノイシュも反省する。
「ティーオの面倒みてくれてありがとう。……ティーオもなー、ニノンに甘えてるんだよな。姉いないからなうち」
まだティーオはセニの部屋で眠っているようだ。
「あっ起こさないでね、かわいそうだから。起きるまでうちにいたらいいよ。夕飯作るから、食べて行ってね。あ、セニは手伝ってね! リュカルドが帰ってくるまでに作っちゃいたいから」
怒っていても世話を焼いてくれるニノンは本当に優しい。
ぷりぷりしているふりをしながら、セニの手を引っ張って台所に向かう。
「……セニ」
台所に引っ張り込まれるセニ
の背中を見つめながら、小さな声で呟く。
「いつかあのほとりの城を蘇らせて、君を連れて行くよ」