礼法の教材の他に、簡単な政治と歴史の本も持参したアレクシスは、いつものように、彼とは世界観が違いすぎるレトナ家の質素な居間の椅子に座って本を開く。
アレクシスの授業は、能率的にかつ効率的に進む。
「では、礼法の授業を続ける」
騎士として王宮に仕官する場合、立ち居振る舞いにも厳しい作法がある。
更に将軍クラスになれば椅子から立ち上がる仕草にすら、完璧なふるまいを要求される。
他国との交渉や会談の場で、尊大で作法も知らない野蛮人でいてもらっては困るのだ。
礼法とは気取った表面上のものだけではない。心理戦にも有効だ。
「貴族の上辺だけの気取ったものだと思ったら大間違いだ。……礼節は人の誠実さを伝える。その立ち居振るまいを見れば、誠実かどうかすら見分けがつく。礼節を尽くせば相手への誠意や敬意を言葉なぞなくとも示せる」
セニを椅子に座らせて、真正面に立つ。
「……貴族の嗜みと言われる乗馬も、駈歩や襲歩の場合、正しく筋肉を使った姿勢でなければ振り落とされる。ダンスも、上半身を支えられる背筋と腹筋がなければ、上半身がぶれてパートナーの身体を支えて踊る事が出来ない」
背筋を伸ばした正しい姿勢を確認し、少々注意を与えて、それから続ける。
「上体を揺らさずに立て。腹筋、背筋、それから腿の筋肉。それらをしっかり使わなければ、まっすぐ立ち上がれない。注意を払え」
セニは言われた通りに、立ち上がる。
意識して立ち上がれば、言われた通り、上半身を揺らさずに立ち上がる事ができる。
アレクシスは頷く。
「お前も子供の頃から武術をやって来ただろう。どの型も正しい姿勢を要求されるが、それには筋力がいる。武術は礼法と表裏一体だ。武術も礼節を重んじる。礼法は筋力も要する」
言われてみればルーヴもアレクシスも、その気品はこの筋力に裏打ちされている。
立ち姿ひとつとっても、だらしないところも野蛮さもない。椅子に座っても背が丸くなる事は決してない。
ルーヴはたまに椅子に座って片手で頬杖をついているが、あれも決して背筋は丸くならない。背中は張っているのだ。
軍人特有の折り目正しさは貴族の作法の基本でもある。崩した姿勢でも、決してだらしなくはならない。
ルーヴの姿を思い返しながら、その背中を抱きしめた感触を思い出す。
ふと、抱き合ったその時の吐息と、温もりを思い出してしまう。
胸を締め付ける切なさに、つい、ため息をついてしまった。
アレクシスの目の前で失態だ。
「…………上の空のようだな」
鋭く突かれて、セニは詰まる。
「……ごめんなさい」
「人前でため息は言わずとも分かるだろうが、無礼だ」
セニに座るように促す。
「……甘やかす訳ではないが、疲れもするだろう。少し休憩しておく」
アレクシスも一応は気を使っているのだ。
自分のこの軍人気質丸出しの堅い雰囲気が、子供に威圧感を与えているかもしれないとは考えている。
この堅苦しさにセニが気詰まりに感じているのでは、とは思っているのだ。
セニの差し向かいに座りなおしたアレクシスは、セニの無遠慮な視線に気付いて、伏せていた眼差しをセニに向ける。
「無作法に人を見つめるな、と教えたはずだが」
「……ごめんなさい……」
叱られて、セニはうなだれる。
「さっきから、その言葉ばかりだな」
ごめんなさい、と言い掛けて、慌てて口を噤む。
「……今は楽にしておけ。そうでなければ休憩の意味がない」
セニはうなだれたまま、頷く。
そのうなだれたままのセニの項を眺めながら、アレクシスは思案する。
ジェイラスやバートラムが言っていた様子とは、随分違う。
最初の日こそ、話通りのマイペースな、何を考えているかわからないような突飛な子供だったが、ここ数回の授業では、大人しいものだった。
大人しいというより、一言で言えば、上の空。
ぼんやりしたかと思えばぶしつけに見つめてきたり、何を考えているか得体がしれない、というところは前評判通りか。
ルーヴはセニには稀にみる高い素質があると言っていたが、アレクシスは解せない。
とてもそうは見えない。
うなだれたままのセニを観察し続ける。
物覚えは悪くない。いい方だ。
けれど、どうにもぼんやりが多過ぎるような気がする。
ルーヴの買い被りではないか。
この子供が、ルーヴが期待するほどの能力を持っているとは到底思えない。
確かに知能は高い。身体も筋力もしなやかでこれからの成長を期待できるそうではある。
だが、ルーヴが言っていた鋭さは見当たらない。
何も知らないアレクシスに、セニの憂鬱の理由が分かるはずもない。
セニ本人も、例えようがないくらい深い虚無感に戸惑っている。
今まで何かに気を取られ続けるような、今のような重く気が晴れない気持ちになった事なぞなかった。
どんな時でも落ち着いて物事を考える事が出来たのに、今はそれが出来ない。
泣き出したくなるような寂しさや不安定な感情は、ますますセニを戸惑わせ、不安にさせる。
奥の扉の影から心配そうに様子を覗っていたニノンが、気まずい雰囲気を察したのか、とことこと歩み出てくる。
「休憩なら、お茶を淹れてもいい? セニも疲れてるみたいだし、アレクシスさんも喉が渇いたんじゃないかな? おいしいお茶を淹れるから、ちょっと待ってて!」
ニノンにまで気を使わせてしまった事に、セニは更に落ち込む。
お茶とお茶菓子を素早く用意して、ニノンはテーブルに並べる。
「ええと……アレクシスさんは、王子様に仕えて長いの?」
「そうだな。十五で仕官した。士官前から、側仕えでルーヴ様の居城に上がっていたので、長い部類に入るだろうな」
堅いのは変わらないが、世間話に応じるくらいの柔軟性はある。アレクシスも気まずい雰囲気を変えようとする大人の心遣いを見せている。
けれど今のセニには、このアレクシスの声と喋り方がやるせない。
セニはお茶にも手をつけずに目を伏せている。
「お前は何歳になる」
急に話を振られて、慌ててセニは顔を上げる。
「正確な年齢はわからないけれど……。一応、この家に来た日から数えて、今月十四歳になる」
レトナ家の三人の養子が戦災孤児だというのは調査済みで目を通しているのか、その言葉にアレクシスは特に疑問を持たないようだった。
「そうか。では来年から正式に仕官も出来るな。……ルーヴ様はお前に、この上ない教育を与えて下さっている。そのご期待にもお気持ちにも報いるよう、良く学べ」
考える事はあまりにも多すぎる。
仕官の事、この家の事、ニノンの事、そして、ルーヴの事。
生まれも素性もわからない戦災孤児の、追放騎士の養子に、惜しみなく教育を与えてくれている事を、決して忘れてはならない。
そんなに気がかりならば、王都まで呼び寄せるなり、ルシルまでお出向きになられるなりなされば良いものを。
アレクシスは先日のセニの授業内容や進行状況をルーヴに報告しながら、内心で呟く。
前回の報告から、更に数回、セニを訪れて授業を行っていたが、報告は後回しになっていた。
アレクシスも暇ではない。
第四軍を預かっている上、今現在はルシルの街と反対方向の、北のラーン国境に駐屯している。留守を副団長らに任せてルシルに通っているが、そうそう留守にしている訳にもいかない。
結果、ルシルとラーン国境を往復する事になって、王都を迂回しているため報告に戻らなかったのだが、とうとう焦れたルーヴに呼び寄せられてしまった。
「真面目に学んでおります。何も問題はないと思われますが」
アレクシスの型通りの報告を、椅子の肘掛けに肘を付いた頬杖で聞いていたルーヴだったが、何か言いにくい事があるのか、珍しく目に見えて物言いたげにしている。
「何か問題でも?」
決してアレクシスは焦らしている訳ではない。
相変わらず、ルシルの街の噂に気付いていないのだ。
本当に教育が目的だと思い込んでいて、ルーヴとセニの関係まで気付いていない。
さすがのジェイラスも、引き継ぎの時にそれをアレクシスに伝える大らかさはなかったようだ。
いや、幾ら堅物のアレクシスでも、ルーヴには子供の頃から仕えていた。
それくらい察するだろうと思っていたのだ。
「……あれはどうしている」
「あれ、と申されてましても」
気が利かない、とルーヴは内心で舌打ちするが、気が利かないのではなく、本当に気付いていないのだから仕方がない。
「セニだ」
苛立っているのが声でわかる。
「健康面にも問題はないようです」
ルーヴの聞きたいポイントはそこではない。
知らない、というのはこの場合、とても不幸な事だ。
ルーヴのイライラは今がまさに頂点だろう。
「……セニの様子だ」
様子といわれても困る。
アレクシスは何が不興を買っているのがさっぱり見当がつかない。
「……少々ぼんやりしたところがありますが、物覚えも悪くありません。子供なので集中力には若干欠けると感じられますが、もう少し成長すれば落ち着きも身に付くでしょう」
もしかしたら、アレクシスはセニがルーヴの寵愛を受けていると気付いていないのではないか。
この辺りでようやくルーヴもそこに気付いた。
いや、堅物でガチガチのアレクシスでも、ルシルの街で噂くらい聞くだろう。
実際、周到な性格で、しばしばルーヴが所望する前に調査を終えて報告書を提出するくらい、目端が利く。
「……ルーヴ様への忠誠心にも問題ありません。……ルーヴ様は何をそれほどご心痛に思われておられるのでしょう」
変なところで融通が利かない奴だと子供の頃から思っていたが、大人になっても変わっていなかった。
ルーヴは悟った。こいつはだめだ。本当にだめだ。
ここでセニとの関係を自分の口からぶちまけてしまった方が、アレクシスからもっと話を聞きだせるが、さすがにルーヴの口から話すには、あまりに憚られる。
「……もういい。下がれ」
不興を買ったのは間違いない、と思うものの、アレクシスにはさっぱり原因がわからない。
普通、この辺で気付くはずだ。
セニに何度も会っているし、それらしい匂いが全くない訳ではないのも、今のルーヴの様子からも分かるだろう。
気の毒な事だが、あまりに堅いその性格が災いしているのだ。
困惑したまま下がるアレクシスを見送りながら、ルーヴは組んだつま先を苛々と揺らす。