王子様とぼく

#23 菩提樹の下で

 セニはあの事件の後、アレクシスの本宅で暮らしていた。
 名目上は『ブランドール卿の元で学ぶ騎士見習い』だった、実質監視されている。
『亡国の王子』という重い枷は、三人の兄弟の人生を簡単に変えてしまった。
 リュカルドは王都の建築学が学べる全寮制の学校へ、ニノンはアレクシスの隠居の両親……ブランドール公の屋敷で、侍女として働きながら行儀見習いをしている。
 全員、拉致を警戒して監視下に置かれていた。
 結局、リュカルドとセニ、どちらがエシルの王子なのかは分かっていない。
 どのみち、ふたりのうちどちらが王子でも、他の兄弟を拉致する理由がある。
 王子を傀儡にするなら、他の二人の兄弟を人質に取るのが最も確実で有効な方法だからだ。
 一年前のあの日、兄弟三人を拉致しようとしたのは、ラーン王国でエシルの王子の即位式を行い、エシル王国領を取り戻す宣戦布告を行うためだったのは容易に想像できた。
 王子の情報は少なかった。
 小国の末の王子な上に、エヴァンジェリン姫を溺愛した王は、誰かに姫を奪われる事を恐れ、姫に関る全ての事を公にせず、隠していた。
 それゆえに、王子の情報も少ない。
 髪色、瞳の色もだが、生年さえ不明で、『恐らく十五~十七歳くらい』
 エシルの老王とエヴァンジェリン姫の容姿から、かろうじて推測するしかない。
 王子を知る生き証人は、ジェラルディン・レトナだけだった。
 その生き証人のジェラルディンが亡くなっている今、どうやって王子の情報をラーンが得たのか。
 ここで謎なのは、『エシル王国の正当な統治者』を証明できる『何か』の存在だ。
 恐らくその『何か』を発見し、かつ、どちらが王子なのか確定したからこそ、拉致を実行したはずだ。
 レトナ家の三人の兄弟に全く心当たりがなかった。
 レトナ夫妻が何か残した可能性を考えて、ルシルのレトナ家を捜索したが、それらしいものは何も見つからなかった。
 または、既にラーンにその証拠は持ちされているのか。
 ラーンのようにノイマールもラーン王国内に諜報員は放っている。
 繰り返し調査されているが、それでも一向に掴めないままだった。
 結局、今はどうしよもない。
 こうして警戒を強める以外、取れる措置はなかった。

 レトナ家の三人の兄弟たちも、いつか、巣立っていき、それぞれの人生を歩んでいく、と分かっていた。
 それがこんな風に引き裂かれる形になるとは、三人とも考えもしなかった。
 ただ平凡に生きていくと、何の疑いもなく思っていた。
 平凡に生き、平凡に死んでいく、それでいいと思っていた。
 恐らく養父母たちも、それを望んだからこそ、何もかも隠し、語らずに、秘密を抱いて逝ったのだろう。
 こんな運命の因果に巻き込まない為に。



 騎士叙任式後、セニは再びアレクシスの第四軍に同行し、現在はマデリア国境に駐留している。
 東のマデリア国境はブランドール公爵家の領地でもあるが、警戒区域でもある。
 時折王都を離れ、こうして領地の見回りも兼ねた行軍が行われていた。
「……あの拉致未遂事件が起きるまでは、平和なものだったが」
 有事でもないのでのんびりとしたもので、アレクシスとセニは、ブランドール公爵家の領主館に寝泊まりしていた。
 この瀟洒な領主館は、ブランドール公爵家に代々受け継がれてきたものだ。
 その領主館の、アレクシスの母親が丹精したという自慢のバラ園の東屋で、ふたりは差し向かいで昼食をとっている。
「東のマデリア国境、西のレンドハルト国境は警戒が薄かった。南北のラーンとイルトガにかかり切りだったのもある。……結果、他国の密偵がたやすく出入りするようになってしまったからな。警備の見直しをするいい機会だった」
 ルトラース家の王子が堂々と出入りしていた、とは言わないのは、アレクシスのセニへの配慮か。
「常駐するほどの危機感はないが、こうしてレンドハルト国境とマデリア国境を巡回するだけでもラーンへのけん制にはなる。……最近はイルトガも大人しいしな」
「……そういえば、アレクシスさんはルーヴに子供の頃から仕えていたって言っていたけど、なぜ、あんなにルーヴはベルラン王と仲が悪いの?」
 唐突に話題を変えられる。
「……お前は相変わらず突飛だな」
 多少、言葉遣いや態度はマシにはなってきた。
 人前ではアレクシスの事はブランドール卿、ルーヴの事はルーヴ様、と呼ぶくらいの躾けは出来た。
 だが、突飛な性格はあまり改まらない。
 持って生まれたものは諦めるしかないのか、とアレクシスは軽くため息をつく。
「普通なら聞きにくいであろう事も、気安く聞いてくる」
 テーブルに置かれたベルを鳴らしてメイドを呼び、お茶の給仕をさせる。
 下がらせてからセニに改めて向き直った。
「……一口には説明出来ないが、簡単に言えば、原因は王と王妃の不仲だ。……ミステル殿の処遇を巡って王妃と王は口論になり、以来こじれたままだ。王妃は元々病弱であったが、今では西の離宮に閉じこもってほとんど公式の場には出てこない」
 ここでもまた養父の名前。
 どれだけこの事件は色々な人に影響を与えたのか。
 アレクシスは慎重に言葉を選んで話しているように見えた。
「ルーヴ様は幼いながらも口論するおふたりに心を痛めておられた。……ルーヴ様もまた、ミステル殿に関してはお考えがあり、ベルラン王への反発がある。そして母君をないがしろにする王が許せない」
「……そもそも、何故父は、母をそうまでして庇ったんだろう。……ベルラン王とは兄弟のように深い信頼関係があったと聞いている。それなのに、王を裏切って、なぜそうまでして」
 少し沈黙があった後、アレクシスは口を開く。
「……これは……私の個人的な推測だが」
 ティカップを置く小さな音すら、響きそうなほどの静けさだった。
「……ジャスティナ・ガーラントが、他人に思えなかったのではないか。……もし自分が同じ立場なら、同じようにベルラン王の為に戦い、ルーヴ様を抱いて炎の海を駆けただろう、そんな風に思ったのではないか」
 初夏の爽やかな風がバラ園を吹き抜けた。
 風に揺れる薄紅色のツルバラのアーチを見上げながら、セニは静かにアレクシスの言葉に耳を傾ける。
「ジャスティナ・ガーラントが王妃エヴァンジェリンを想ったように、ミステル殿もまた、ベルラン王を想っていた。……同じ騎士として、共感せずにいられなかったのかもしれないな」
 これは、アレクシスの気持ちだ。
 アレクシスがルーヴを想う気持ちもまた、彼らと同じなんだ。
 セニは言葉がなかった。
 エシル侵攻は、こんなにも大きな傷跡を残した。
 関った人々が、どれだけ苦しんでいるのか。こじれ、絡み合った運命の糸に、どれだけ囚われているのか。
「……少し風が出てきたな。……屋敷に戻るか」
 風に舞い散ったツルバラの花びらが、音もなく静かに東屋に降り注ぐ。
 まるで紅い雨のような。セニはその降り注ぐ花びらを見上げる。



 アレクシスの領地から、エヴァン湿原はさほど遠くない。
 セニは遠乗り、と称してこっそりひとりでこの湿原を訪れていた。
 あの昼食の後、アレクシスは執務室に篭もりきりだったので、こっそり家を出るには丁度良かった。
 あの夏の日のように、なだらかな丘をのぼり、馬の手綱を引きながら歩く。
「……お前も咽喉が渇いたよね。水場まで降りよう」
 黒鹿毛のたてがみを撫でてやりながら湿地のほとりまで降り、手近の立ち木に手綱を結びつけて、黒鹿毛が水を飲む様子を倒木に腰掛けて眺める。
 水辺には大きな葉に紛れて、小さな白い花が可憐に咲いていた。
 黒鹿毛は器用に鼻先で花を避けて、水を飲む。
 ノイシュが『双眼鏡があれば丸一日過ごせるくらい、面白くて綺麗な場所』だと言っていた事を思い出す。
 双眼鏡を持ってくればよかった、と小さく呟く。
 あの日のように、湿原は人の背丈より高い、深い緑の葦が生い茂り、空は高く青く澄んでいた。
 遠い昔のように感じる。
 あれほどあの時、思い返す事すら悲しく、辛かった事が、遠い昔のように感じられる。
 どんなに傷ついても、時間がそれを薄め、忘れさせてくれるのかな。
 いつか今のこの出口がない迷路のような日々も、懐かしく感じられるのかな。
 ぼんやりと、水面に揺れる白い花を眺めながら、そんな事を考える。
 ふと、傍らの葦の葉先に、可愛い生き物がいる事に気づく。
 薄茶色の毛皮を纏った小さな小さな野ネズミだった。
 葦の葉の先に乗れるくらい、小さい。セニの親指よりも小さい、その可愛い野ネズミに手を伸ばそうとした瞬間だった。
「そいつは臆病だから触ったらダメだよ」
 懐かしい声だった。
「夏は繁殖期で特に臆病になってる。触ったらかわいそうだ」
 思わず声のする頭上を見上げる。
 巨大な菩提樹の枝に寝そべり、双眼鏡を握る手をだらり、と下げている。
「久し振りだね、セニ」
 セニは菩提樹を見上げたまま、言葉を失くしていた。



2016/01/19 up

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