「……髪の色が違う」
「開口一番それ?」
久し振りに会ったノイシュの髪色は確かに違った。
黒々としたブルネットだったのが、今ではお日様のような金色の髪。
「こっちが地毛。あれは染めてただけ」
相変わらずうつぶせに寝そべったまま、怠惰に双眼鏡を持った手を振る。
白昼堂々、他国の領土に密入国しているとは思えない緩みっぷりだ。
「……見つかったらただじゃすまないよ、ノイシュ……ええと、違った。ショナ王子だっけ」
「いいよ、ノイシュで。幼名なんだ。……呼ばれ慣れてて愛着がある」
菩提樹の上から降りてくるつもりはないのか、まだ寝そべったままだ。
セニは見上げるのをやめて、その菩提樹の根元に寄りかかって、膝を抱えて座る。
この広い湿原で鉢合わせるなんて、どんな偶然だろう。
そんな事を考える。
「君に見つかってるな。……どうする? ルヴトーに突き出す?」
「ノイシュこそ。……ぼくを連れて行く? あの時みたいに」
「……もうアレは使わないよ。あれは二回目以降、命の保障ができないし」
ルトラースの秘薬の事か。
「そんな危険なもの飲ませたの? ……ひどい眠気で起きていられなかった。何日も眠り続けたよ」
「君があのフィナンシェを食べなかったからね。ああしてアレを飲ませるしかなかった」
その言葉であの日を思い出し、セニは思わず赤面する。
キスなんて恋人同士がするものだ。
ルーヴ以外にあんなふうに激しく口付けられた事なんかなかった。
「……うなじが赤くなってるよ、セニ」
「なってない」
頭上からくすくすと笑い声が聞こえる。
「セニ、大きくなったな。随分背が伸びた」
「そうだね。急に背が伸び始めて、服の丈を直すのが結構大変」
まるで旧知の友と話しているような気がしてくる。
敵国の王子だという事を忘れてしまいそうだ。
「こんな急に育つなんて思わなかった。成長期ってすごいな」
「ノイシュ、こんなところで何してるの」
「……暇だから、ここで動物見てる。だらだら双眼鏡持って過ごすのがいい」
大国の王族の割に、慎ましい趣味だ。
「……王子様なのに、こんなところで遊んでていいの?」
頭上を振り仰いで尋ねると、双眼鏡を覗いているものだとばかり思っていたノイシュと目があった。
「君たちの拉致に失敗して、今は蟄居中」
「外にいるじゃないか」
「あー。そうだね。うーん。まあ、都落ちかな。失敗しちゃったから、暫く反省しなきゃならないのさ。ティーオも訓練しなおしでもうずっと別行動」
自分たちを拉致しようとしていた相手と、こんなにのんびり話していいのか、少しだけセニは逡巡する。
「……オオタカでも見て反省する。ティーオがいないと遊び相手もいないしな」
全く緊張感がない。
ノイシュは本当にだらだらしているだけで、セニをどうこうしようとは思っていなさそうだ。
「ノイシュ、ちょっと詰めて」
いきなり真横で聞こえた声に驚いて、ノイシュは跳ね起きた。
「え。なに、登ってきたのか?」
いつの間にか菩提樹をよじ登って、ノイシュが寝転んでいた太い枝にセニが座っていた。
「ぼくも高いところから見たい」
「本当に君、変わってるよね」
そういいながらノイシュはセニに双眼鏡を手渡す。
セニは素直に受け取って、双眼鏡を葦の原の地平に向ける。
風は穏やかで、鳥の声も風に乗り届けられる。
菩提樹の葉陰は涼しく、ノイシュでなくとも寝そべってのんびりと湿原を眺めていたくなる。
「そうそう、騎士になったんだっけ。おめでとう」
セニから双眼鏡を受け取って、無造作に懐にしまいこむ。
「……十五歳になったからね。……知ってたんだ」
そんな情報まで、ラーンに届いているのか。セニは少しだけ驚く。些細な事も知られている。
「まあね。……うーん。綺麗になった、というのもおかしいな。……色っぽくなった」
ノイシュはポケットを探り何かを取り出して、セニの掌に載せた。
「色っぽくなった、もどうかと思うけど。他に言いようがないな」
ころん、と掌で転がる。
白金の台に真珠をあしらった豪奢なボタン。
その時初めて、セニは後悔した。
さっき声をかけられた時に逃げ出さなかった事を。
王城の控えの間で落とした、サーコートのボタン。こんなものを入手できるほどの諜報能力。
ラーンを見くびっていた。
ノイシュは大国の王子なんだと思い知らされる。
「ルヴトーのものだって最初から知ってたけど、やっぱりショックだな」
何もかも知られている、と思うと、息が詰まり言葉が出ない。
なんて浅慮だったんだ、と心の中で自分を詰る。
「……真っ青だよ、セニ」
思わず顔をあげると、目の前にノイシュのあの深い夜の海のような青い瞳があった。
「……覚えてないか。俺が言った事」
あの時のように、唇が触れそうな距離で、囁く。
セニは初めて恐怖を感じた。
後ずさりしても、菩提樹の幹が背中に触れるだけで逃げ場がない。
あの時のように、唇が触れる。
幾度か啄ばむように口付けられて、抱き寄せられた。
「……セニ……」
ノイシュはセニの唇を甘く噛み、そのまま唇を離す。
「怖いな、セニ。……キスだけで命を取られるところだった」
脇腹に突きつけられた短剣。その柄を握るセニの手首を掴む。
「……それ以上近寄るなら、容赦しない」
「あーあ。一年前のセニは可愛かったのに。もう完全に軍人の顔だ」
あっさりと手を離し、座りなおす。
「遥か東方の国の短剣なんかで刺されたら死んじゃうじゃないか」
「悪ふざけするからだよ」
「君の事を好きだって言ってた男と密着しておいて、何言ってるんだよ。セニは意外とバカだな」
「……そんな事知らない」
やっと短剣をひいて、鞘に収める。
「ルヴトーもこの魔性にころっとやられちゃったのかな。子供の癖に、セニは本当に怖い」
ノイシュはセニの目の前に、掌を差し出す。
「……何?」
きょとんとしてノイシュを見つめる。
「返して、さっきのボタン」
「ダメだよ」
「アレ結構苦労して手に入れたんだよ」
「ダメ」
「ケチだな。キスだけで殺そうとするし。すっかり怖い子になっちゃったよな」
「たいした情報もくれない敵国の王子様にあげるものなんかないよ」
ボタンを握ったセニの手に、ノイシュの手が重ねられた。
「……ここで二人きりで一夜を過ごすなら、教えてあげない事もないよ」
途端に重ねた手の脇に、即座に短剣を突きつけられる。
「……ほんっとうに可愛くなくなっちゃったな、セニ」
諦めて手を離す。
セニは呆れたように一瞥して、再び短剣を鞘に収める。
「可愛くなくていいよ。……とにかくボタンは返さないから。そもそもぼくのだ」
二人並んで、葦の湿原を見渡す。湿原の地平は遥か遠く、まるで世界中がこの輝く緑の葦の湿地に覆われてしまったかのような錯覚すら、覚える。
この美しい湿原の虜にならずにいられなかった。
美しく生命力に溢れた、輝く王国。鳥も獣も植物も、こんなにも美しく、強く、儚く、生きている。
これほど美しい世界を、他に知らない。
「欲しいものは力ずくでも手に入れる主義なんだよ、俺は」
視線は遠い葦の地平を見つめたままだ。
「君に会うまでは、欲しいものはこの湿原だけだったのに。……面倒な事になった」
肩を竦めて呟く。
「……ぼくのせいじゃない」
ノイシュはセニを振り返り、少しだけ悲しそうに、笑う。
ブランドール公爵家の領地館に帰り着いたのは、どっぷりと日も暮れてからだった。
「どこに行っていた」
これは怒っている声だ。
アレクシスの不機嫌な声に、セニは少しだけ反省を見せる。
「ごめんなさい。……うっかり遠くまで行き過ぎた」
アレクシスはふう、とため息をつく。
「お前は本当に緊張感がないな。……何かあってからでは遅い、遠出する時は誰か兵士を帯同しておけ」
騎士になってまで護衛をつけなければならないのは少々情けない。
が、万が一、ラーンに奪われでもしたら、面倒な事になる。アレクシスの言葉は最もだ。
今日の事を思い出し、セニは素直に頷く。
「私は今夜、師団長と打ち合わせがある。……第四軍の野営地に泊まるが、何かあったら使者を出せ。……くれぐれも、またふらふら外に出たりするな」
ルーヴが最も信頼している部下がアレクシスだからこそ、セニが預けられている。
責任があるから口うるさくもなるのだが、当のセニは全く懲りない。
「……明日帰ってくるの?」
一瞬、アレクシスは考えるように口を噤んだ。
それから、頷く。
「明日の朝、一度戻る予定だ。……くれぐれも、ふらふら出歩くな」
踵を返して歩き出したアレクシスを見送って、セニも食事前に着替えるために、部屋に向かう。
ふと、白金と真珠のボタンと、ノイシュの事を思い出す。
王宮を跋扈するラーンの密偵の事を伝えようにも、この白金のボタンの入手経路の説明がいる。
敵国の王子にエヴァン湿原で遭遇した、それを伝えるだけでいい。
やましい事は何もない。
けれど、何かがセニの口を重く塞ぐ。
あの湿原に、これ以上、人の世の、うつし世の争いを持ち込みたくなかった。
ノイシュの事も。
あの場所で会う限り、ノイシュは敵国の王子ではないと思いたかった。
あの湿原を愛する同士なのだと、そう信じたかった。
部屋の扉を開けると、既にオイルランプが灯されて、部屋の中は仄かに明るかった。
「どこに行っていた」
一瞬、なぜここにアレクシスが、と錯覚した。
よく似た、低い声、落ち着いた喋り方。
セニは仄明かりに照らされた寝椅子に飛びつく。
「……ルーヴ! どうしてここに?」
大きな手に腰を掴まれて、膝に乗せられる。
「明日、第四軍で会議がある。……アレクシスに聞かなかったか」
先ほどアレクシスが何か一瞬迷って黙ったのは、この事か。
驚かそうとしたのか、アレクシスにしては気の利いた演出だ。
セニは少しためらって、それからルーヴの唇に、音を立てて口付ける。
小さな笑いを洩らしたルーヴの指先が唇に触れ、辿り、頬を撫でて、包む。
そのルーヴの辿った唇に、ノイシュの残した感触をほのかに思い出す。
ノイシュの最後の言葉。
胸が痛まないと言ったら、嘘になる。
もっと違う出会い方が出来たら。こんな事にならなかったら。
友達になれたかもしれないのに。
叶うはずがない事を考えながら、セニはゆっくりと目を閉じる。