エヴァン湿原に立ち込めるこの白い闇のような霧は、いつかルーヴを探して彷徨ったバル峠を思い出させる。
ほんの少し先も見渡せない。
あの時は夢中で、寒さも冷たさも感じなかった。
セニの着ている鳶色のクロークは霧の雫で濡れそぼり、その冷たさに軽く身震いをする。
ランタンを翳しながらなだらかな丘を越え、あの菩提樹の木にたどり着く。
昨日の明け方に結んでおいた白いリボンは、霧に濡れて重く垂れ下がっていた。
そのリボンの隣の枝に、ランタンを吊し、乗っていた馬の手綱も結ぶ。
かじかんだ手に小さく息を吹きかけて、セニはランタンの仄明かりの中に佇む。
冬霧に凍った木々や枯れた葦は、夜明け前の薄闇に仄かに浮かびあがり、この世ならざる美しさだった。
湿原はどの季節でも、まるで万華鏡のように違う姿を見せる。
本当にこの世のものとは思えない。
ノイシュがこの湿原を愛し、手に入れようとした気持ちは、セニも痛いほどわかった。
ノイシュは本当に、来るんだろうか。
本当に一人で来るのか。信じていいのか。
その時、遠くで水音が響いた。
葦の湿原の向こう、霧の水辺から聞こえる。
小さな灯りを掲げた小船が、霧の中を渡ってくるのが見えた。
「……セニ」
小さな声だった。
セニは凍った葦をかきわけながら、岸辺に降りる。
小船の上には、櫂を握るノイシュが立っていた。
「待たせたね。……まずは、武器は置いてもらおうか。こっちはちゃんと一人だよ」
ランプを掲げ、岸辺から少し離れた位置に船を止める。
「いつかみたいに脇腹に突きつけられるのはぞっとしない。……君は約束を守るタイプだとは思うけどね」
セニは素直にクロークをはだけ、父の形見である一対の剣を外す。
他に武器がない事を見せながら、静かに足元の下草に揃えて置いた。
「……武器は置いた。……エシルの王子のしるしを見せて欲しい」
ノイシュは頷いて、懐を探る。
小船に掲げていたランプに、手にしているものを翳した。
仄灯りに照らされそれはキラキラと白い闇に浮かび上がる。
それは、見たこともないほど大きな、美しいクリスタルオパールだった。
白金で出来たエシル王家の紋章の中央に、大きなクリスタルオパールが埋め込まれている。
「このクリスタルオパールは、エヴァンジェリン姫のために、エシル王がラーンから買い付けたものだよ。……以前に話した事、覚えてる?」
セニはゆっくりと頷く。
「姫は王子が生まれた時に、王子のためにブローチに作り直した。この白金の紋章の裏には、王子の名前と生年が刻まれている。……ラーンで加工されたから、ラーンにはその記録が残っていたんだよ」
ブローチを翳したまま、更に懐から一通の手紙を取り出す。
「……そしてこれがジェラルディン・レトナ……ジャスティナ・ガーラントの遺言。いつか、必要になった時に全ての事を王子に知らせるための手紙だったんだと思う」
手紙とブローチを握り、手を差し出す。
「……セニ、おいで」
小船は岸から離れていた。セニは水際まで歩み寄る。
「リュカルドは、これを隠し持っていた。隠し場所は突き止めていたから、君たちを拉致した時に持ち出させてもらったよ」
やはりリュカルドは知っていたんだ。
おそらく、養父は亡くなる時に、全てをリュカルドに託した。
リュカルドはこの重い秘密を、ずっとひとり背負っていたのだと思い知らされる。
セニはきゅっと唇を噛む。
だからこそ、今日、全てを終わらせなければならない。
「……さて。もう夜が明けてしまう。……行こうか」
ノイシュは小船を岸に寄せ、ブローチと手紙を差し出す。
「約束通り、これは君に。……武器はあとで部下に回収させておくよ。大事な形見だろ」
セニが手を伸ばすと、ノイシュはさっと手をあげ、遠ざける。
「まずは船に」
セニは大人しく言われるままに、従う。
大人しく従ったセニの掌に手紙とブローチを載せ、ノイシュは微かな笑みを浮かべた。
「……セニ」
抱き寄せ、唇を寄せようとした瞬間だった。
「ぼくを思い通りに動かせると思うな」
目の前に小さな護り刀を突きつけられ、ノイシュは素直にセニの身体から手を離した。
どこに隠し持っていたのか。小さな護り刀だった。
「……君は約束を守るタイプだと思ってた」
セニは護り刀を逆手に握り、迷いなく自分の首に押し当てる。
「……セニ!」
ノイシュが護り刀を取り上げようと手を伸ばすが、セニは拒絶する。
「ぼくに触るな。……駆け引きに使われるくらいなら、死んだ方がましだ。ぼくはぼくの意思で決める。誰かの言いなりになる人生なんか、絶対に受け入れない!」
「セニ!」
セニが一息に刀をひこうとした瞬間だった。
ばしゃん、と大きな水音と共に、セニの身体が高く抱え上げられた。
「………なっ…!」
氷のように冷たい飛沫が舞い上がり、視界が眩む。
「……お前に監視をつけているのがアレクシスだけだと思っていたのか?」
まさか。
ここにいるはずがない。
馬の背に乱暴に投げ出されたセニは、担ぎ上げたその人を振り仰いだ。
「……ルーヴ!」
馬上から、ルーヴはノイシュの咽喉元に剣を突きつけていた。
「世話になったな、ルトラースの王子。……約束を破って申し訳ないが、ここは引いてもらおう」
「……俺を殺しておいた方がいいんじゃないのか」
ノイシュは櫂を握り締めながら、馬上のルーヴを睨め付ける。
「そうだな。俺もそうしたいところだが」
軽い音を立てて、ノイシュの頬を薄皮一枚、切り裂く。
「……こうなりそうな予感はしていた。……まさか本物の王子が攫いにくるとは思いもしなかったけどね」
裂かれた頬を拭いもせずに、ノイシュは深いため息をついた。
「……やっぱり人の心はそう簡単に手に入らないって事か」
「セニの目の前でお前を殺すわけにはいかなそうだ。……行け。次はない」
ノイシュは小さく肩を竦める。。
「……次に会う時は、殺しあうしかなさそうだ」
ノイシュは岸を軽く蹴り、小船を離岸させる。
小船はゆっくりと霧の湿原に滑り出した。
「……さよなら、セニ」
白い闇の中に、小船は融けるように消えていく。
もう会う事もないかもしれない。もし次に会うならば、戦場かもしれない。
いつも思っていた。
もっと違う出会い方が出来ていたら、友達になれたんじゃないかと。
決して嫌いじゃなかった。
例えあの日々が偽りだったとしても、レトナ家の三兄弟は、ノイシュやティーオと過ごした、楽しかった日々を忘れられなかった。
セニは静かに遠ざかる小船を見送る。
「ルーヴ。……どこから知っていたの」
「さあな。……お前はどこからだと思う?」
ルーヴはセニを横抱きにかかえ、座りなおさせる。
セニは珍しく、あからさまに感情を顔に出した。気まずそうに、目をそらす。
その俯いたセニの唇に、ルーヴの無骨な指先が触れ、塞ぐ。
「俺以外に唇を許すな」
やっぱり知られていたのか。
セニは小さく首を竦める。
「……お前は考えられないような無茶をするな」
「ごめんなさい……」
素直に詫びる。
「俺を頼るくらい、しろ。……もっとも、俺はお前のそういうところが嫌いではないがな」
ルーヴはセニの柔らかな栗色の髪をくしゃっと撫でる。
「……ああ、そうだ」
セニは握り締めていた拳を開いて、手紙とブローチをルーヴに見せる。
美しい石だった。
セニの掌で、なめらかに白く、きらきらと七色に輝く。けれどその輝きは、どこか物悲しげに、セニの瞳に映った。
「これ。……ぼくの好きにしてもいいかな」
「文字通り、お前が命を賭けて手に入れたものだ。……好きにしろ」
セニは頷いて、手紙の封を開ける。
もう封蝋は破られている。これを最初に破いたのは、恐らくリュカルドだろう。
その封筒に、中も見ずにブローチを押し込む。
「……知りたくないのか」
セニは丁寧に封を折り、首を振る。
「リュカルドはぼくとニノンの兄で、ぼくは二人の弟だ。……それ以外の何者でもない。エシルの王子は、エヴァンジェリン姫と一緒にこの湿原で眠っているんだよ」
ルーヴはただ静かに、セニの話を聞き続ける。
「……これを、エヴァンジェリン姫と、王子に返したい」
ルーヴは黙って頷いて、馬の手綱をひいて小走りに、丘を上りはじめた。
「この丘の向こうに、お前は行った事がないだろう。……ほとりの城の焼け跡がある」
楡の森を抜け、白樺の並木を通り抜けると、小高い丘に、蔦に覆われた城壁の廃墟が現れた。
セニは馬から降り、その廃墟を歩く。
焼け焦げ、朽ち、蔦の絡まる城壁。かつての栄華は欠片もない。物悲しいほどに、廃墟だった。
「その草むらの向こうは湿地だ。気をつけろ」
ルーヴの注意を聞きながら、慎重に下草を踏み分け、歩く。
蔦の絡まる茂みを抜け、霧に凍った葦を掻き分けて水辺に辿り着くと、仄白く霧煙る湿原の向こうに、朝日が昇り始めていた。
セニはブローチを入れた封筒をためらいもなく、葦の原に遠く投げ込む。
投げ込まれた封筒は静かに霧の海に飲み込まれ、ぱしゃん、と小さな水音が響いた。
二人はただ言葉もなく、静かに、霧煙る湿原の朝日を見つめる。
明け方の空は、立ち昇り消えていく霧を抱いて、曇り硝子の中の世界のような風景だった。
湿原に佇む白く薄く凍った葦や樹木は、朝日を受けきらきらと切なくなる輝きを見せていた。
ルーヴの手を取り、セニは静かに瞳を閉じる。
その静かな霧の湿原に、言葉もなく、祈りを捧げる。
【王子様とぼく・完】