王子様とぼく

ノイマール異聞録:ノイシュ -菩提樹-

 多分五歳になるかならないかくらいの時だ。
 もっと小さかったかもしれない。
 それなのに記憶はその場面だけ、鮮明だった。
 寒い冬の日だった。
 その日、ラーンの王宮では晩餐会が催される予定で、朝からとても慌ただしかった。
 曖昧だったが、晩餐会がある、というのだけは、賑やかな騒ぎでよく記憶に残っていた。
 外国からの来賓があるので、王家の子供たちは準備の邪魔にならないよう、中庭に面したサロンに押し込められていたのも覚えている。
 雪が降っていた。
 白い花びらのような雪が、中庭の菩提樹に降り積もり、まるで菩提樹に花が咲いたようだった。
 まだ幼児だったノイシュは、サロンの中に閉じ込められるのに飽き飽きしていて、年嵩の子供たちが見ていない隙に、こっそり中庭に出ていた。
 雪景色の中庭の美しさは強く記憶に残っている。
 その時の中庭の巨大な菩提樹は、雪を抱いて白く輝き、神々しささえ感じられた。
 その木陰に、彼女が佇んでいた。
 雪の菩提樹を見上げるその横顔は、儚げで、頼りなげで、少しだけ、寂しそうにも見えた。
 ノイシュに気付いた彼女はゆっくりと振り返り、微笑む。



 あれほど美しく、この世のものとは思えない妖精のような女性を見たのは、後にも先にもあの時だけだ。
 その思い出の菩提樹の木陰で、ノイシュは怠惰に寝転んでいた。
 子供の頃は広々と感じたこの中庭も、大人になった今では大した広さではなかった。
 それと同じように彼女も、記憶の中でより美しくなっているのかもしれない。
 それに、その後の彼女の悲運の人生を考えると、ますますその儚げな美しさが強調されてしまう。
 読み止しの本を放り出して、ノイシュは菩提樹の葉陰から空を見上げる。
「……あのさあノイシュ。そんな食っちゃ寝食っちゃ寝してると、太るよ?」
 いつのまに中庭に入ってきたのか、ティーオがすぐ側に立って、真上から見下ろしていた。
「もうね失恋したしやる気でない」
「何そんな繊細そうなふりしてんの」
 ティーオはノイシュのすぐ側に腰を降ろし、同じように空を見上げる。
「……勝手に色々しでかしてるし。もう本当にごまかすの大変だったよ。ぼくめちゃめちゃ父さんに怒られたし」
「あーはいはいすいませんでした」
 心の底から面倒くさそうに、ぞんざいに返事をする。
 ティーオは呆れたようにため息をつく。
「だから言ったじゃん、セニは絶対ファザコンだって。もう最初からノイシュが勝てる要素ゼロ。本当にゼロ。まず、年齢的に若すぎたし体格的に貧弱すぎた。年齢がアウトな分せめてルヴトー王子くらい体格良くないと。ノイシュとか今時の若者すぎたね。それが敗因だね」
 ティーオは容赦なかった。
 乳兄弟だからこその容赦のなさだろうか。
 失恋した人の傷口に塩を塗り込みまくっている。
「貧弱じゃないし。ルヴトーがゴリラなだけし」
「そうやって食っちゃ寝してると間違いなく貧弱になるよ。いや違う意味で体格よくなるかな! 筋肉なくなってだるだるになってない?」
 容赦なくノイシュの仰向けの腹を叩く。
「ティーオさあ、慰めるとかないわけ? 本当に俺ダメージ大きいしショックも大きいんだけど」
「いやむしろぼくに謝って欲しいね! もうさ子供のふりさせたじゃん、レトナ家に通うときにさ! アレ本当に恥ずかしかった。ぼくの見た目が子供っぽいからってひどくない?」
 そういえばティーオに子供のふりをさせていた。
 こう、庇護欲をそそるような、大人しくて可愛い感じの。
 本来のティーオとは似ても似つかなかったが、さすがの演技力で見事に『大人しくて可愛らしい弟キャラ』を演じきっていた。
「ティーオの演技力すごいよね。華麗にニノンを騙してたよ。同じベッドで寝てみたり、なかなかやり手だったな」
「誰のせいだよおおおお!」
 思い出すと羞恥に耐えられないのか、ティーオはごろごろとノイシュの隣で転がる。
「……そんな思いをしてあれを手に入れたのに……結局、セニに渡しちゃうしさ……。もうねぼくも本当は怒ってるんだよ」
 ノイシュに背中を向けて丸まって、ティーオはぽつん、と呟く。
「そうまでして、なに取り引き失敗してんだよって……」
 本当にティーオには申し訳ない、とノイシュも思っている。
 迷惑も心配もかけた。
「セニも手に入らない、エヴァン湿原も手に入らない。……本当に何やってるんだよなあ、俺」
 ノイシュは深くため息をつく。
 ティーオは再びぽん、とノイシュの腹の辺りを叩く。
「まあ……ノイシュらしいよ。あの日、ぼくを連れて行けば間違いなくセニを連れてラーンに帰れたのに。それをしなかったあたりが、ノイシュらしいよ」
 ノイシュの隣に仰向けに転がって、同じように空を見上げる。
「……結局、セニが選んでくれなかったら意味がないって思ってたんだろ」
 ノイシュは小さく笑って、聞き流したようだった。
「卑怯な手を使う割に、ノイシュは意外と純情だよね。セニだけなら、力ずくで奪う方法が幾らでもあったのにね」
「……卑怯って褒めてなくない?」
「ノイシュから卑怯な手とったら何が残るんだよ。図々しいよ」
 怠惰に転がるだけだったノイシュが、やっと起き上がる。
「さて、しょうがない。やるか」
「やっとかー」
 ティーオも跳ね起きる。
「とりあえず鈍ってるから軽く鍛えるか。付き合えよティーオ」
「いいよー。父さんが手ぐすね引いて待ってるよ、鍛えなおすって」
「怖っ。……しょうがない、本気だすか」
 二人並んで歩き出す。
 サロンまで歩いて、それからノイシュは菩提樹を振り返る。
 あの時のように、あの木陰に彼女が立っているような気がしていた。
 振り返っても、誰もいない。
 彼女はあの霧煙る葦の湿原で、今も王子の幸せを願いながら眠り続けているだろう。


2016/02/01 up

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