アレクシスは夕べの騒ぎのせいで夜中に登城し、あまり寝ていない。
だが会議も夕べの騒ぎの報告書も片付けなければならない。
寝不足の上に予定が詰まりすぎているアレクシスは、ルーヴと同じくらい、機嫌が悪そうだった。
「寝所の前まで侵入出来るような人間は限られる。女官か、警備兵か、近衛騎士か。ルーヴ様の側仕えの者は厳選されている。そう簡単に懐柔されるような者はいないはずだがな」
アレクシスは棚から引き抜いた書類の束を抜き取り、セニに手渡す。
「この三つの束が、それぞれルーヴ様の側仕えの女官、近衛騎士、警備兵の名簿だ。出身地も親族も記載されている」
「……親族まで」
「身元が怪しいものをルーヴ様のお傍に置く訳にはいかないからな」
セニは隅の机にその束を置いてめくり始める。
「私はそろそろ次の会議に向かう。……城の中で拉致される事はないだろうが、無謀な真似は慎め」
アレクシスはよく分かっている。一応はセニを諫めておく。
素直にその忠告を聞き入れてアレクシスを見送って、セニは再び名簿をめくる。
本当に家柄、出身地まで網羅されている。
考えてみれば、休戦中ではあるが戦時下だ。
どこの国も腹を探り合っている。用心に越した事はない。
セニはふと、昨日、ルーヴの寝所に報告に来た近衛騎士見習いのユアンの事を思い出す。
アレクシスがこう忙しく出歩いていては仕事も進まないし、ユアンに時間があるようなら話を聞きに行ってみようか、と思いつく。
近衛騎士の名簿を開き、ユアンの名前を探す。
ユアン・ゲンズブール。二十歳。近衛騎士見習い。
父親はゲンズブール子爵。子爵家の子息なのにミドルネームがない。よく見れば、彼は子供がいないゲンズブール子爵が分家から取った養子だと書かれていた。
ゲンズブール子爵の推挙で、最近ルーヴの近衛騎士見習いとして登城したと記載されている。
アレクシスはつくづく、優秀だ。そんな最近の事までくまなく名簿に書き込んでいる。
昨夜はオイルランプの明かりで見ただけだが、背の高い、少しリュカルドに似た雰囲気の、優しげな青年だった。
こんな優しそうな、穏やかそうな人でも近衛騎士になるんだなとセニは変なところで感心していた。
ジェイラスにしてもバートラムにしても、見るからに軍人、という顔つきに体格だが、ユアンはどちらかというと、学者や音楽家のように穏やかに見える。
こういう人が容赦なく強かったりするんだよね。リュカルドもあんなに優しくて穏やかだけれど、本気の時は勝てる気がしないし。人は見かけによらないってよくある。セニはそんな事を考えながら、アレクシスの執務室を出て、近衛騎士の詰め所に向かう。
「……セニ殿、暫くぶりですね」
詰め所に向かう中廊下の途中で、バートラムに出会った。
セニの警護から外れて、バートラムはまたルーヴの近衛騎士として同行している。
「こんにちは、バートラムさん。……アレクシスさんの領地に行ったりマデリア国境の査察について行ったりで、最近は王都を離れる事が多かったから」
「せっかく王都にルーヴ様が戻られたのに、こんな事になってしまって大変ですね」
大変なのはアレクシスや他の重臣達ではないだろうか。
ルーヴは夕べから機嫌が悪い。扱いにくくて困り果てている事だろう。
「……ジェイラスさんは、リュカルドのところ?」
少し声を潜める。エシルの王子に関するこの一連の話は、一部の重臣にしか知らされていない。
リュカルドやニノンの動向は、あまり大声で話せる話題ではなかった。
「はい。リュカルド殿が在籍しているあの全寮制の学校は、名門の師弟ばかりでとても警備が厳しいので、それほど心配はいらないのですが……油断は禁物ですからね」
万が一があっては困るのは、よく分かる。
「ぼくたちの事もだけれど……ルーヴも心配だ」
「昨夜の一件は我々近衛騎士の失態です。本当に面目ない事です。……今までにルーヴ様の寝所にまで忍び込まれた事はありませんでした」
「そんなに命を狙われているの?」
珍しくセニが不安げな顔を見せる。あまり感情を表に出さないセニのその表情に、バートラムも察したようだった。
「戦時下ですから、どこの国でも同じでしょう。……用心しております。暗殺もですが、密偵も。……今はルーヴ様だけではなく、あなたたちご兄弟の事も探られている事でしょうね」
拉致未遂事件がイルトガに知られているのは、間違いない。ラーンだけではなく、イルトガにも警戒を強めなければならず、多方面で手が足りないのが現状だ。
イルトガがどこまでこの一件の情報を掴んでいるのか分からないが、今まで以上に探りを入れてくるのは間違いない。
ラーンも厄介だが、イルトガもこうなると用心せざるを得ない。
「ルーヴ様とあなたのご関係も、あまり周知されない方がいいでしょうね。……人は守るものが出来ると、弱くなるものです」
バートラムの言いたい事は、よく分かる。
セニの立場は複雑過ぎた。
追放騎士の養子、エシルの王子である可能性、ルヴトー王子の寵愛。
どれかひとつですら、立場を複雑にするのに、この三つ全てだ。更にややこしく、複雑にしている。
「私はこれからルーヴ様のところへ戻りますが……セニ殿はどちらへ?」
「……ちょっと知ってる人に会いに。……それじゃバートラムさん、また」
バートラムを中廊下の向こうまで見送って、数歩歩く。
この中廊下は、回廊と中廊下を合わせたような複雑な作りだ。幾つも柱を置いて左右に部屋と庭を配置した、複雑な作り。
城に攻め込まれた時に中の構造を容易に把握させないために、こうしてあえて複雑な構造にしているのだろう。
その中廊下を数歩歩き、足を止める。
やはり、誰かが後をつけている。
バートラムと話している時から、気配があった。その気配がどこからなのか、はかれず、迷っていた。
数歩歩いて、やっと判断がつく。
セニは踵を返し、後を付けていた何者かに向かって駆け出す。
複雑に入り組んだ回廊風の柱の陰に、ちらり、と黒っぽいショールのようなものが翻ったのが見えた。
中廊下から中庭の茂みを抜けるその影を追って、セニは走る。
逃げるその人影は、かなりの足の速さだ。
セニも足の速さには自信があったが、なかなか追いつけない。
中庭を抜け、中廊下を抜け、階段を駆け下り、その人影を追い続ける。逃げる人影も必死だ。セニも夢中で追いかける。
逃げるこの人影は城の構造をよく把握している。人気が無いところ選んで逃走していて、下中庭に飛び込むまでに、誰一人すれ違わなかった。下中庭にはいくつかの茂みや木立があり、セニはその木立を抜け走る影を追い続ける。
木立を抜け別棟の門をくぐった辺りで、人影の姿を見失ってしまった。
セニは荒い息を吐きながら、じっとりと滲んだ汗を拭う。
腰の下げ緒に掛かっていた鞘から、養父の形見の片刃の短剣を引き抜き、握りしめる。
どこかにあの人影が潜んでいないか、慎重に進む。
夢中なあまり、自分が今、王城のどの辺りにいるのかも分からなかった。気付けば、見た事もない噴水のある庭に辿り着いていた。
あまりに走りすぎて、息がなかなか整わない。
噴水のある池の縁に膝をついてもたれ掛かり、セニは深く息をつく。
追いつけなかった。
あの人影が、昨夜潜んでいた賊だろう。逃がしたかと思うと、本当に悔しい。
「……どうしたの? どこか痛いの……?」
細い声だった。
不意に声をかけられて、セニは慌てて顔を上げる。
必死になりすぎて、全く気付いていなかった。庭に面するテラスの窓が開け放たれ、そこから誰かがこちらを見ていた。
「……可愛らしい子ね……。ルヴトーのお友達かしら」
窓際の寝椅子に横たわる貴婦人が、半身を起こしてセニを手招く。
「……もしかしたら、あの子に泣かされたの……? ……少し乱暴だけれど、悪い子じゃないのよ。ルヴトーを許してあげてね。……あなたをいじめるつもりじゃあ、なかったと思うの……」
声は優しく穏やかだけれど、とても弱々しく、細かった。今は病み衰え、青白い頬をしているが、健康だった時はさぞ気品溢れる美しさだったろう。
その、病んだ手があまりにも儚げで、セニは思わず胸が痛くなる。
セニは息を整えながら剣を鞘に収め、テラスに歩み寄り、跪く。
「あなた、お名前はなんというの?」
これは、王妃だ。ルーヴの母親の。
髪は真っ白だった。元の髪色が白なのではないか、というくらいに白い。
ルーヴはベルラン王によく似ていて、あまりこの王妃には似ていないが、ルーヴのすみれ色がかった青い瞳は、この母親譲りなんだと、セニは初めて知った。
もうずっと、病がちで西の離宮に閉じこもっていると聞いていた。賊を追って迷い込んだこの庭は、西の離宮だとやっとセニは気付いた。
「セニと申します、王妃様」
王妃は子供のように無邪気に、にこにこと笑う。
「……いいお名前ね……。……ルヴトーは、さみしがりやなの。……私がこんな風に臥せってばかりだから……少し、拗ねてしまっていて……。意地悪をされるかもしれないけれど……嫌いにならないであげてね。……本当は、優しいいい子なのよ……」
王妃は寝椅子から降りて、危うい足取りで廊下へ向かい、人を呼ぶ。
「……マリエン、マリエン。来てちょうだい。……ルヴトーがまた、小さな子を泣かせてしまったのよ」
誰かにここにいる事を知られるのはあまり得策ではない。セニは素早く立ち上がり、この西の離宮の庭を後にする。
元々病弱で、もうずっと西の離宮で療養していて、公の場には出ないと聞いていた。
どんな病なのかは、誰も口にしなかった。セニも誰も語らない事をあえて聞き出そうとも思っていなかった。
ルーヴがしばしば、西の離宮へ出向くと言っていたが、それは母親を見舞う為だ。
そしてルーヴが父の話題も、母の話題も避けている事を、よく知っている。
ここに迷い込んだ事は、誰にも言わずに、知られずにいた方がいい。
セニは西の離宮の門をくぐり、再び中廊下へ向かう。
セニが近衛騎士の詰め所を訪れた時、ちょうどユアンは帰り支度をしているところだった。
「……明日から三日ほど謹慎です。こんな大失態なのに、思いの外軽い処分で……ルーヴ様の寛大なご処分に感謝しております」
明るいところで見ると、ユアンはますますリュカルドに雰囲気がよく似ている。
この金色の髪と、鮮やかな深い海の色の瞳と、穏やかな佇まいのせいだろうか。
見た目だけでなく、喋り方もとても穏やかで、物腰も柔らかい。養子とはいえ子爵家の跡取り息子だけあって、とても気品があった。
「お帰りのところ、お引き留めして申し訳ございません。ゲンズブール様」
「ユアンで結構ですよ。……ええと、あなたはブランドール様の……」
セニはまだ見習いで公の場にはほとんど出ていないが、それでも近衛騎士の間では知られているだろう。
王子が目を掛け、第四軍軍団長が育てている、元将軍で追放騎士の養子。
話題性がありすぎる。
「セニ・レトナと申します。ブランドール様の元で見習い騎士として勉強させて頂いています」
ユアンは穏やかな笑顔を見せている。
「お噂はかねがねお伺いしております。昨夜はろくに挨拶も出来ず失礼致しました」
身分も歳も下のセニに対しても、礼儀を欠かさない。育ちの良さと穏やかな性格が滲み出ている。
アレクシスがルーヴの近衛騎士は吟味に吟味を重ねて選出していると言っていたが、納得だ。
「きっと夕べの賊の事をお知りになりたいのでしょう。……私は目撃していないのです。他の宿直の近衛騎士が発見して。……その近衛騎士は私と同じ処分を受けているので、もう退出して自宅謹慎しております」
セニが尋ねる前に聞きたい事を察して、ユアンは話を進める。
「その騎士は、怪しい人影がルーヴ様の部屋から逃げていくところを発見して、すぐに後を追いました。途中で警備兵に声を掛けて、それを伝え聞いた私が、ルーヴ様へのご報告に上がりました。……この辺りの事はもう報告済みですので、ご存じでしょうか。……恥ずかしながら見失ってしまい、他にご報告出来るような話がないのです」
セニは静かにユアンの話を聞く。
アレクシスから聞いた話以上の事は、確かに何も聞き出せそうにない。
「とても足の速い賊で、追いつけなかったと同僚の騎士も言っていました」
つい先ほどセニが追った人影も、確かに足が速かった。
セニも足には自信があったが、身軽なセニでも追いつく事が出来ないくらいだった。
追いつけないのは身長の差か。一歩の大きさが違いすぎる。
あの人影は長身で細身だった。男性なのは間違いない。
「お忙しいのに、ありがとうございました、ユアン様。……今日ぼくがあなたに会いに来た事は、出来れば内密にして頂けると助かります」
アレクシスに知られたら、絶対に自重しろと叱られるのが目に見えている。出来れば知られたくない。
一人で歩き回っている事を知られたら厄介だ。
「ユアンと呼んで下さい。私もセニとお呼びしてよろしいでしょうか。……他言致しませんので、ご安心下さい」
ユアンは人懐こい笑顔で頷く。近衛騎士特有の鋭さがなくて、本当に学者か音楽家のようだ。
セニも釣られて、普段見せないような笑顔になる。それくらい、ユアンは穏やかで人懐こい。
セニは今日の礼を述べ、その場から立ち去る。
風の吹き抜ける歩廊を渡り、アレクシスの執務室がある回廊へ向かって歩きながら、セニは昨夜の事を思い返す。
ルーヴの寝所にまで近付けるのは、女官や侍従の中でもごく一部だ。居室までなら、近衛騎士も入れる。
夕べユアンが寝所まで報告に上がれたのは、賊の侵入という非常事態だったからだ。
歩廊の途中で足を止め、セニは城下に広がる街並みを眺める。
今、一番知りたいのは、何が目的なのか、という事かもしれない。