昨夜、セニが何も言わずにアレクシスの本邸に帰った事が面白くないのだろう、とセニは踏んでいる。
アレクシスの手伝いで会議の資料を運んでいたところで鉢合わせだが、露骨に不機嫌だ。
王子様はわがままだ。
みんながみんな、機嫌を取るものだと思っている。
わがままな王子様は、この十四歳年下の部下でありながら恋人でもある少年も、そうあるべきだと思っているのかもしれない。
残念ながら、セニはそんな従順なタイプではない。
従順に見せかけて、ものすごく、頑固でマイペースだ。
王子様のご機嫌に振り回されない。ルーヴやアレクシスがこれから会議なら、自由に城内を歩き回るいいチャンスだとか、そんな事しか考えていない。
セニはさっさと準備を終えて近衛騎士の詰め所に向かう。その途中の中廊下で、今度はばったりジェイラスに行き会った。
「お。セニじゃねぇか。ユアンに会いに行くのか?」
「どうして分かったの?」
やっぱりバートラムやジェイラスにも監視されているのか、とセニは考えていたが、ジェイラスはちょっと意外な事を言い出した。
「なんて言えばいいのかなあ。……お前もまだ子供だから分からんだろが、うーん。あれだ。昨日、中庭で、ユアンに手を握られて笑ってただろ。あれはまずい」
まずいとか言われても意味が分からない。握手くらい誰でもするだろう。
セニは思わず怪訝な顔になる。
「ああ、そうだよなあ。そんな顔になるよな」
ジェイラスは顎に手を当てて低く唸る。彼にしては珍しく、言葉を選んで悩んでいるようだ。
「うーん。普通だったらそんな気にする事じゃねえよな。……お前、滅多に笑わないのに、ユアンに手を握られて笑っただろ。……あれがまずい。あれが機嫌を損ねた」
やっとジェイラスの言いたい事が分かった。
昨日、キールやユアンと一緒に話しているところをルーヴがどこからか見ていた、という事か。
中庭はこの棟ならどこからでも見渡せるし見おろせる。見ていても不思議じゃない。
「……なんで握手して笑顔で挨拶したら怒られるの」
セニも鈍い。ここまでジェイラスに言われても分からない。
鈍い、というより、セニの常識では社交辞令だ。何故ダメなのか理解出来ない。
「普通そうだよなあ。……そうなんだよ。そこまで怒る事じゃないよな、普通」
セニの肩を叩いて、ジェイラスも眉根を寄せて考え込む。
「ルーヴ様はお前からみたらすっごく大人かもしれないが、あれでお前が初めてなんだよ。お前も気付いてるだろうが、今まで商売の女ばかりだった。……色恋沙汰は初心者なんだよ、だから察してやってくれ」
察してやってくれと言われても、セニだって初心者だ。ルーヴが初めてだ。おまけにセニは正真正銘、本物の『まだ子供』だ。
「ルーヴ様の機嫌が悪いと色々大変なんだよ。そんな訳で頼むわ、セニ。お前が大人の対応してくれるだけで俺たちがすごく助かる」
要するに、セニがユアンに手を握られて嬉しそうだったのが気に入らない。
更にその事でイライラしているのに、セニは黙ってアレクシスについて本邸に帰った。
それで今日はものすごく機嫌が悪い。
そういう事だとやっと理解が行く。
「……ユアンだって、そういうつもりじゃなかったと思うけど」
もしかしたら、アレクシスが昨日言ってた『お前は無意識でやっているのか? それとも、分かっていてやっているのか?』もこれの事か。セニもようやく分かった。
「呼び捨てなのか。……こりゃもっとルーヴ様が荒れそうだ」
「向こうもセニって呼ぶからって。みんな年上だから、年の近い友達が欲しかったって言ってたよ」
「あーあー……。ユアンもなあ、知らないからか。……知ってたらうかつに近付こうと思わないよなあ。……面倒な事になったなあ。これだから恋愛ビギナーはめんどくせぇ」
ジェイラスさんは恋愛ごとに関しては確かにすっごく詳しいものね。いい意味でも悪い意味でも。セニは素直に納得する。
近衛騎士の中で、一番ルーヴに近しいのはジェイラスとバートラムか。ルーヴとこの二人は年齢が近いせいか、親しいように見える。それだけに確かにこの二人はとばっちりを食いやすそうだ。
「気に入らないというのはよく分かった。気をつける」
そう言いながらこれからユアンに会いに行くのを止めるつもりは毛頭ない。
頼んだからな-! というジェイラスの声を背中に受けながら、セニは近衛騎士の詰め所に向かう。
それくらいで機嫌を悪くするとか、大人げない。
けれどそういう、ルーヴの子供じみた正直なところは嫌いではなかった。
遙かに年上のこの大人を、不器用で愛しいとさえ、思える。
そこまで考えて、ひとりセニは頬を赤くする。
要するに、ルーヴの事が好きだから、なんでも許せてしまうって事だ。
近衛騎士の詰め所にユアンを尋ねると、ユアンは用事があるとかで席を外していた。
もうすぐ戻る、と言われて、セニは少し下中庭を散歩して時間を潰す事にする。
アレクシスの執務室から見える中庭とは別の庭だ。下中庭は城門、厩舎、兵舎、各職の詰め所にも続く。
西の離宮に迷い込んだあの時も、ここの木立と茂みを駆け抜けて賊を追っていた。
空を見上げると、もう日が陰り始めている。この時期は日暮れが早い。
下中庭の木立と茂みは、地面に濃い影を落とす。
この近衛騎士の詰め所への道は、厩舎や他の詰め所とは逆方向な為に、ほぼ近衛騎士しか通らない。
夕暮れ時は人影もほとんどなく、ひとり考え事をしながら散歩するには、静かでとても落ち着くいい場所だった。
暫くぼんやりと、暮れる空を見上げていると、背後から声を掛けられた。
「この時期は日が暮れるのが早いね。……待っててくれたんだ。ありがとう」
セニはゆっくりと振り返る。
「少し話がしたくて」
ユアンは目を細めて笑う。この笑顔は本当に、人懐こい。知らずうちに心を許してしまいたくなる。
「会いに来てくれてすごく嬉しいよ。……きみともっと話がしたかった」
リュカルドによく似たこの人を選んだのが誰か知らないけれど、よく分かっているな、とセニは思う。
「もしかしたら知っているかもしれないけれど、私も養子なんだ。きみも戦災孤児でレトナ将軍の養子だと聞いて、勝手に親近感を持っていたよ」
「ユアンの出身地は?」
夕暮れの木立が作る濃い影が、二人の足下に落ちる。とても静かだった。
「北部地方だよ。……小さい頃に養子に出されて王都に来たけれど、昔はよく里帰りさせて貰っていた。……ラーンとの国境の街だよ」
「北部地方なんて、行った事がないな……。どんなところなんだろう」
最近は小競り合いもなく落ち着いている。ラーンもノイマールも、今はお互いを探り合って小康状態だ。国境からの距離がどれくらいかは分からないが、帰れない事もなさそうだ。
「のんびりのどかな田舎町だよ。……でも、果樹の森はとても綺麗だった。……今はもう何もないけれどね」
さらり、と言う。あまりにあっさりとしていて、一瞬セニは聞き流しそうになった。
「もう随分前にラーンの軍に襲われて焼き討ちされた。……実家の両親も弟妹も、その時にみんな殺されてしまったよ。小さな街だったから……今はもう廃墟だ」
言葉がない。
セニが暮らしていたルシルの街は、イルトガ国境から近いとは言え、山に阻まれている上に、バル峠のような天然の要塞のような防衛ラインにも恵まれていた。
まずイルトガの軍がルシルの街までたどり着ける事はなかった。国境の街でもあるのに平和だった。
ラーン国境のある北部地方は平野で、阻むものは何もない。
だからこそ、ラーンとノイマールの双方の越境が激しく、争いが絶えなかった。
「……ごめんなさい」
他に言葉が浮かばなかった。
こんな悲しい故郷の思い出を語らせるつもりではなかった。
「ああ。そんなつもりじゃなかったんだ。……過ぎた事だよ。こんな話はよくある事だよね。……きみも戦災孤児だと聞いたよ」
ユアンは穏やかで優しげな微笑みのままだ。夕暮れの木立の影は、そのユアンの顔色をひどく悪く見せる。
「勝手な親近感を持っていただけなのに、こうして話せる機会を持てて……あの日宿直で良かったのかもね。あんな事が無ければ、話す機会がなかった」
ユアンは屈託なく笑う。
このリュカルドによく似た穏やかなユアンを、セニを育てる糧に選んだのは、ルーヴか、アレクシスか。
どちらにせよ、セニを育てる為の贄として適任だとどちらもが判断したのは間違いない。
「……あの夜、ユアンはぼくが寝所のドアを開けて出ても驚かなかったね」
ユアンがこの関係を知るはずがない。近衛騎士の中でも一部の者にしか知らされていない。ユアンが驚かなかったのを、ルーヴが見逃すはずがなかった。
いや、もっと以前から疑っていたのかもしれない。
この日の為に、セニと接触するのを待ちわびていたのかもしれない。
「ああ……引き継ぎの時に、君がルーヴ様の部屋にいると聞いていたから」
少しの沈黙があった。
「……王子の閨から出てくるようなぼくと、親しくなろうとする理由は?」
一瞬だった。瞬時に間合いを詰めたユアンの左腕が背後からセニの首に巻き付き、ぐっと締め上げる。あまりの素早さに、セニは反応出来なかった。
警戒していたのに。セニは唇を噛み締める。
「ごめんね、ちょっと痛いかな。その通りだね。……あの時、もっと驚いたふりしておけば良かったね。……近衛騎士の間じゃ公然の秘密だと思ってたよ。調査不足だったな」
ギリギリと音がしそうなくらいに、締め上げられる。小さく咳き込むと、ユアンはほんの少し、その穏やかな顔を曇らせた。
「君も同じように、養父を追放したこの国を憎んでいるのかと思ってた。……まさか王子に骨抜きにされてるなんてね。ちょっとそこはがっかりだったかな。……いい友達になれるかと思ってたのに」
「……ユアン……っ……!」
落ちそうになる意識を必死につなぎ止める。少しでも気を抜くと意識を失いそうだった。ぎり、と歯を食いしばり、ユアンを睨め付け見上げる。
「ラーンもノイマールも、北部地方なんて戦場くらいにしか思っていないんだろうね。そこで暮らす民の事なんか、国は考えてくれていなかった」
ラーンじゃない。個人的な私怨か。そして、この人の悲しみにつけ込んだのはイルトガか。
もっと、彼の話を聞きたかった。
こんな穏やかな優しい目をしたこの人を、こんな風に駆り立てるその苦痛の理由を、知りたかった。
どんな悲しみを抱いて今ここにいるのか、それを知りたかった。
これ以上長引かせたら意識を保っていられないかもしれない。セニにも焦りが見え始める。
「君の事はどうしようか。……王子様の大切な閨のおもちゃを寝取るのも悪くないかなって思っていたけれど、思ったより君はお馬鹿さんじゃなかったのがね。……ただのおもちゃなら良かったのにね」
ユアンはあがくセニの腰の下げ緒に組まれた、養父の形見である一対の剣を取り上げ、投げ捨てる。
セニの武器を取り上げ、ほんの少しの油断を見せる。その隙を、セニは静かに待っていた。
「こうなったらもう後に引けないし、手土産にするしかないかな」
イルトガか。
セニは袖口から懐刀を滑り落とし、握り締める。遙か東方の国の剣士なら、誰もが身体のどこかにこの三本目の命刀を隠している。
恐らく、ユアンはそれを知らない。
セニは一瞬も迷わなかった。迷わず、その懐刀を握り、ユアンの脇腹を一息に切り裂いた。
「なっ……!」
セニの首に巻き付いていた左腕が緩む。その隙を突いてセニは腕の中から滑るように逃れる。その切り裂いた脇腹の傷口を塞ぐように、鋭く爪を立て握り締める。
崩れ落ちるユアンの唇から、声にならない悲鳴が漏れた。
落ちる寸前まで締め上げられたセニは激しく噎せながらも、倒れ込んだユアンに馬乗りになる。
目がひどく眩む。激しく痛む咽喉から、無理矢理に言葉を絞り出す。
「こうでもしないと内臓が飛び出すよ。……あなたに今、死なれたら困る」
何度も咳き込みながら、セニは息を整え、木立と茂みに覆われた背後を振り返る。
「……いるんでしょう、監視の人。……ぼくに姿を見られたら困るのかもしれないけど、今はそれどころじゃないから」
このアレクシスがつけた監視の為の人間も、この状況を見守るように言いつけられていたのは予想出来ていた。
万が一の時だけ、セニを守るように言われていただろう。
「このままだと死なせてしまうよ。……話を聞き出したいなら、この人を連れて行って」
ルーヴもアレクシスも、セニを育てる為だけに、セニの血肉として糧にする為だけに、この、リュカルドによく似た穏やかな内通者を見逃していた。
それをひどい事だとは、セニも思っていない。
きれい事じゃない。軍人として生きていくなら、越えなければならない壁だった。
分かっている。
それでも、傷付かない訳じゃない。
誰かを憎もうとは思わない。こんな事で全てを恨もうとも思わない。
もっと違う出会い方が出来たら。そう思うような悲しい出来事は、これから先、何度でも起こるだろう。
それは癒やせない深い悲しみになるかもしれない。
セニは深く息を吸い込み、目を閉じる。
それでも愛さない方がいいなんて、絶対に、思わない。 異聞録 『祈りもなく、言葉もなく』 終