騎士の贖罪

#01 欺かれて

 嘘だ。
 嘘だ。嘘だ。嘘だ。
 これは悪い夢だ。こんなはずはない。そう信じたかった。思い込みたかった。
 頭が割れそうなくらいに痛み、目眩と激しい吐き気に苛まれる。そして骨を砕かれた左の踝は、熱を持ち腫れ上がっていた。痛みは残酷なくらい、これが現実だと知らしめる。
 口枷を嵌められ、手足は重い鉄の枷と鎖に繋がれ、リュシオンはほぼ無抵抗だった。もう立ち上がる事もできないくらいに疲弊もしていた。どのみち深手を負ったこの身体では、もう戦えない。その無抵抗のリュシオンの肩を掴み冷たい石の床に押さえつける男は、淡々と続ける。
「この度の戦果の褒賞として」
 身体の痛みよりも、心の痛みで気が狂いそうだった。心が粉々に砕かれたように思えていた。
「捕虜であるこのルッツ家の嫡男リュシオンを所望いたします」
 この男は何を言っているのか。舌を噛みたくとも口枷に阻まれ、それもままならない。このまま処刑されるならそれでよかった。それすらもこの男は邪魔をするのか。
 その穢れた手でくびり殺せばいい。リュシオンは心の中で吐き捨てる。
 欺いた挙げ句、死ぬ事も許さず更に辱めようというのか。吐き気がこみ上げる。この男にも、この男を信じた自分にもだ。
「そんな趣味があったとは、今の今まで知らなかったな。グレイアス・レクセンテールよ。血迷ったか?」
 床に頭を押しつけられているリュシオンからは、椅子に深く座った男のつま先だけしか見えないが、この声の主がカルナス帝国のロデリック王なのは間違いない。膨大な植民地を支配するカルナスの王は、ひどく老いた声をしていた。
「二心はございません」
 グレイアスと呼ばれた男は頭を深く垂れ、短く返す。
「お前の忠誠心を疑った事はないが、リュシオン・ルッツは末席とはいえ、クレティア王国の王位継承権を持つ。生かしておくのも後々面倒になりそうだな。……クレティアの支配権を主張されても困る」
 そうだ。リュシオンは嵌められた口枷を噛みしめる。
 生かしておいた事を、後悔させてやる。絶対にこの男を許さない。
「まあまあ、父上。グレイアスの今までの功績を考えれば、これくらい安いものではないですか」
 この若い男の声にも聞き覚えがあった。リュシオンを押さえつけるグレイアスの背後に立つこの声の主の姿は見えないが、この声を覚えている。
 あの時、グレイアスを探していた若い男だ。ロデリック王を父上と呼んでいるからには、王子なのは間違いない。
 カルナスの王子まで、あの時あの場所にいたなんて。
 あまりに残酷だ。彼は言葉巧みにリュシオンに近付き、惑わした。リュシオンの優しさにつけ込んだ。あれは全てが嘘で、リュシオンを騙し、懐に取り込むための甘言だった。全て嘘だったと知った今、自分の愚行を悔やまずにいられなかった。
 敵国の将軍に欺かれ、知らぬうちに祖国を裏切った。その罪は償いようがない過ちだ。怒り、絶望、悔恨、悲嘆、憎悪、色々な感情が身体の中で爆発しそうだった。叫びたくとも、声は口枷に阻まれ、呻くだけに終わった。
「ユリエル王子」
 そう呼びかけたグレイアスに、ユリエルが小さな声で、ここは任せてくれ、と囁くのがリュシオンの耳にも届いていた。
「グレイアスは先の戦役で多大な犠牲を払いました。大きな悲しみを乗り越え、今も父上と帝国の為に尽くしております。それに今までどれだけ功績を挙げても、褒賞を要求した事はありません。これが初めてではないですか。今回くらい聞き入れてやってはいかがでしょうか」
 ユリエルの進言に、ロデリックは暫くの間考え込んでいるようだった。
「父上の仰る事もごもっともです。しかし生かしておけば、何かに使い道があるかもしれませんよ。殺してしまっては必要な時に利用できません。それに……グレイアスにルッツ家の王子を与えるなら、躾ければいいのですよ」
 忌々しいほど気品のある声は、思いも寄らない言葉を吐いた。
「きちんと愛玩動物だと教え込めばいいのです。……ペットが国の支配権を主張するはずがありません。きちんと自分の身分と役割を教え込めばいいのです」
 ロデリックはリュシオンの処遇に迷っているようにも見えた。取るに足らない小国の、しかも傍流の王子だ。殺しておかなければならないというほどでもない。
 そんな小国の王子の生き死になどよりも、意外なグレイアスの要求にこそ、興味を持っているような素振りだ。
「美しい女の捕虜は幾らでもいたというに、こんな子供に興味を持つとはな」
 侮蔑ではなかった。心底理解できない、とでも言いたげな口ぶりだ。
 ユリエルの小さな笑い声が響く。リュシオンは不意に革手袋に包まれた指に乱暴に髪を掴まれ、引き起こされた。痛みに小さな悲鳴を上げるが、口枷がその悲鳴を消し去った。
「ルッツ家は美貌の家系だと聞いた事があります。この顔を見ればご納得頂けるかと思っておりましたが、ずいぶん手荒に扱われたようで、今は腫れ上がっておりますね。とても可愛らしい顔をしていましたよ。……クレティアの首都の郊外でお会いした時は」
 悪夢だった。自分を欺き、祖国を滅ぼした男に戦果の褒賞として与えられ、愛玩物として飼われる。これ以上の恥辱があるだろうか。リュシオンは口枷をぎりぎりと噛みしめる。
 ユリエルは微笑みを浮かべたまま、掴んでいたリュシオンの髪を離す。冷たい石の床に再び顔を打ち付け、リュシオンは押し殺した声を洩らす。
「クラーツをグレイアスの屋敷に差し向けましょう。彼がついていれば、監視も躾もうまくいくかと思いますよ。グレイアスは人を飼うのが初めてですから、彼の手助けが必要でしょう」
 ロデリックは暫く考えていたようだったか、ようやく口を開いた。
「躾けられなければ始末すればよかろう。……グレイアスよ。先の戦役とこの度の戦果、素晴らしい物であった。望み通り、ルッツ家の嫡男リュシオンを与えよう」
 ロデリックは静かに椅子から立ち上がる。
「偉大なるロデリック王よ。格別の計らい、厚く御礼申し上げます」
 グレイアスは跪き、深く頭を垂れたまま、感謝を述べた。
「クラーツを呼べ。今宵からレクセンテール家に仕えろと伝えろ。……グレイアス」
「はい」
「飼い慣らせぬ家畜はただの獣だ。……その時はためらわず始末しろ」
「王のお心のままに」
 石の床に腫れ上がった頬を押しつけられながら、リュシオンは口枷を噛みしめる。



 死ぬ事もできない。泣く事も許されるとは思えない。
 折れた足を引き摺り家畜のように鎖を引かれ、リュシオンは俯く。
 炎と煙に包まれた城下の光景が、逃げ惑う人々の悲鳴が、今もはっきりと脳裏に焼き付いている。
 あの時、この男に騙されなければ。この男の正体に気付けていたなら。
 両親にあんな惨い死に方をさせる事も、従弟である小さな王子や王女達を死なせる事も、クレティアの美しい街並みが燃え落ち、滅ぶ事もなかった。
 遠からずカルナスに滅ぼされる運命だったとしても、こんなにも残酷に、何もかも焼き尽くされるような終わり方をしなかったはずだ。

『娘はまだ七歳だ。病がちで伏せっている事が多くてな……ありがとう。娘が飼っていた犬に似ているんだ。きっと喜ぶ』

 あの時、あの男はそう言っていた。
 全てが嘘なら、それでいい。
 生かしておいた事を、手元に置いた事を、必ず後悔させてやる。必ずこの手で、息の根を止めてやる。
 病気がちな娘はいなかった。父親の帰りを待つ小さな娘はいなかった。それだけが救いだ。
 この手であの男を殺しても、悲しむ小さな娘はいない。



2018/02/18 up

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