騎士の贖罪

#02 罪深き手

 好きなものは、たくさんある。
 リュシオンは街道脇の倒木に腰掛けて、画板に載せた紙に色チョークを走らせながら、考える。
 明け方の水辺、青空の草原、夕暮れの鮮やかに染まる遠い山々。山野に咲く素朴な草花も、水辺の葦やミズアオイも、好きだ。畑や果樹園なら、若葉の時期も花の時期も実りの時期もいい。草花だけではない。野山に生きる小さな生き物達も可愛らしい。
 森や小川でスケッチしていると、野生の生き物に遭遇する事もある。小鳥は勿論、野ウサギ、カヤネズミ、野ねずみ、イタチや狐。色々な生き物が姿を現す。
 一瞬で隠れてしまう彼らの姿を描くのは難しいけれど、記憶を頼りに描く事も、本を見ながら描く事もあった。
 自然の景色だけでなく、街並みや建物、子供達もよく描く。
 生まれ育った屋敷や王都の商店街は、子供の頃からずいぶん描いた。王城も、住宅街も、暇さえあれば出掛けて描いていたような気がする。家族や従兄弟たち、友達、飼われている犬や猫、野良猫も野良犬も、たくさん描いてきた気がする。
 絵を描くのは、リュシオンにとっては眠る事や呼吸をする事と同じようなものだ。描きたいというよりも、描かずにはいられないのかもしれない。
 今も街道から葦の草原越しに望む城壁と、その向こうにそびえ立つ王城を描いていた。思えば、王都を囲む城壁の外から描いたのは、これが初めてだ。
 ここ暫く騎士団の修練場に篭もって訓練ばかりしていた。勿論、修練場いる間は絵を描く時間も余裕もない。久しぶりの休暇で家に帰ったものの、両親との会話もそこそこに、いてもたってもいられず画材を持って飛び出してしまった。
 深い森と、澄んだ湖と、草原と、肥沃な大河と。小さな国ながら、恵まれた豊かな国だ。クレティア王国は大国とは呼べないが、この穏やかで美しい国が大好きだった。この国に生まれてよかったと、リュシオンは心から思う。
 騎士になったのは、家の名誉と義務だけではなかった。この国を守りたかった。美しい自然と街並みを、故郷を守りたいと思うのは自然な事だとリュシオンは思う。
「少年。クレティアの首都の城門へは、この街道か」
 夢中になって描いていたリュシオンの頭上から、突然男の声が響いた。驚いて顔を上げ、辺りを見渡す。
「驚かせてすまないな。……道を聞きたかった」
 街道の白樺の並木の木陰に、青毛の馬を連れた男が立っていた。
 大柄なその男は、初夏だというのに頭からすっぽりとフードをかぶり、ショールを巻いていた。おそらくは旅人だ。馬の鞍には荷物が積まれている。
「エルセ門ならこの街道を真っ直ぐです」
 リュシオンは慌てて立ち上がり、画板を小脇に抱えて草むらから男の傍へ歩み寄る。
「ラティーナ門なら、この街道の途中にある四つ辻で……」
 城壁を指し示しながらそこまで話し、リュシオンは気付いた。男が深々とフードをかぶり、ショールを巻いていた理由が分かった。フードの陰から覗いた頬から顎、首筋にかけて、大きな火傷の痕があった。
 あまりに痛々しいその火傷痕に、リュシオンは思わず息をのむ。
 見られた事に気付いた男は、更にフードを深くかぶり、ショールを巻き直す。
「ご、ごめんなさい……」
 リュシオンは自分の非礼を詫びる。決して傷付けるつもりはなかった。
「いや、私こそすまなかった」
 男は言葉少なに、火事で、と呟く。三十代後半くらいか。少し厳つくもあるが整った精悍な顔だ。目立つ火傷の後が余計に惨く感じられる。
「……クレティアの城下町で一番大きい商店街に行くなら、ラティーナ門からがいいと思います。……ご旅行ですか?」
「革を商う商人だ。今は帰国の途中で、商売と補給の為に街に立ち寄りたいのだが、どこの街も国境並の物々しさだな」
 男はリュシオンが小脇に抱えた画板に目をとめたようだった。じっと画板の絵を見つめている。
「旅の方はご存じないかもしれませんね。クレティアは今、戦時下のようなものです。近々大きい戦が起きるでしょうから、あなたも一刻も早く、帰国なさった方がいいと思いますよ」
 男は絵を見つめたまま、リュシオンの言葉に頷いてみせた。
「それは君が描いた絵か?」
 リュシオンも男の視線に気付いていた。少し気恥ずかしく感じられたが、素直に答える。
「そうです。今日は休暇だったので、街道から見た城壁と街を描こうと思って」
 画板を持ち直し、男に見せるように差し出しながら続ける。
「絵を描くのが好きで、休みというとこうして森や草地をふらふらして、気ままに絵を描いています」
「仕事は何を?」
 男はリュシオンから画板を受け取り、しみじみと眺めている。もう少しで完成という中途半端な状態だったが、男が興味を持ってくれたようで、リュシオンは嬉しくなっていた。描いたからには、誰かに見てもらいたいものだ。
「騎士です。……まだまだ見習いのようなものですが」
「ずいぶん若そうだが、クレティアではこんな年若いものまで戦争に駆り出されるのか」
 男は絵とリュシオンを見比べているようだった。年若いといっても、クレティアでは十二歳から騎士団に見習いとして入団でき、十六歳から正式に仕官もできる。
 ただ、リュシオンはその例に当てはまらない。クレティア王家と深い血の繋がりを持つルッツ家に生まれた彼は、末席ではあるが王位継承権を持つ。下位の継承権を持つ者は全員、騎士として軍に属し、王家と国民を守る盾として生きる。それが家の名誉と義務だった。
「クレティアは小国なので、どうしても早いうちから教育する事になってしまうんです。……国を守る為には仕方がない事です」
「絵の事なぞさっぱり分からないが、これはいつまでも見ていたいような、不思議な気持ちになる絵だな……」
 お世辞には聞こえなかった。男は言葉数こそ少ないが心から感心しているようで、飽きもせずじっと絵を眺めていた。褒められて嫌な気がするはずがない。リュシオンの声は弾む。
「そう言ってもらえると、とても嬉しいです。ありがとうございます!」
「……責めるわけではないが、もうすぐ戦争が始まるのだろう? 騎士ならば戦の準備で忙しくはないのか?」
 男は画板の紙をめくる。他にも何枚か動物や草花の絵を挟んでいたが、それもじっくりと見ているようだった。
「これも戦の準備です」
 予想外のリュシオンの返答に男は驚いたようで、やっと絵からリュシオンの顔へと視線を移した。それくらい、男は絵に夢中のようだった。
「絵を描く事が?」
 あまりに唐突で、男は意味が分からないとでも言いたげだ。
「もしかしたら、僕は戦で死ぬかもしれません。この街道や街や森も、壊されてしまうかもしれません。……でも、絵や彫刻なら、もしかしたら残るかもしれません」
 もうとっくに滅んだ国や王朝の美術品でも、今もこの世に存在するものがある。度重なる戦火を免れて残った絵画や彫刻は少なからず存在するのだ。
「僕は生まれ育ったこの国が好きなんです。小さい国だけれど、水と緑に恵まれてとても綺麗で、ここで暮らす人たちも、この風景と同じようにのんびりしていて、とてもいい国だと思うんです」
 手にしていた色チョークを握りしめる。心からそう思える。他国の人間にも胸を張ってそう誇れる。
「僕が死んでも、この国が滅んだとしても、もしかしたら絵は残るかもしれません。……この国の風景や人々が存在していたと、遠い昔に滅んだ国の絵や彫刻のように、知ってもらえるかもしれません」
 カルナスとの戦争が始まったら、戦場で生き残れるとは思っていなかった。大国カルナスに勝てる要素は何一つない。
 カルナス帝国は周辺の国々に攻め入り、次々と植民地として支配していった。クレティアも近い将来に、その滅ぼされた国々と同じように、カルナスに下る事になるだろう。
 戦わずにカルナスに従えば、犠牲は最小限で抑えられるかもしれない。だがそれは、隷属を意味する。クレティアの国民を、下級国民という名のカルナスの奴隷にするわけにはいかない。少しでも有利な条件で停戦に持ち込めるまで、戦わなければならない。
「……クレティアという緑豊かな美しい国は、絵の中で永遠に生き続けられます。子供達も動物達も、草花も」
 色チョークを握りしめる指先が震える。死ぬ事が怖くないなんて、思えなかった。それでも、戦わなければならない。それは義務でも家の名誉の為でもない。生まれ育った国を、街を、人々を守りたいと願う。自然にそう思えていた。愛したものを守りたいと願うのは、誰でも同じだ。
 もしも平和な時代だったなら、ずっと好きな絵を描いていられただろうか。ふとそれを考える。
 男は黙ってリュシオンの話を聞きながら、絵を見つめ続けていた。
「……そんな事を考えた事もなかった。何もかも消えてなくなるものだと思っていた……」
 男が何をさしてそう言っているのか、リュシオンに知るすべはない。けれど男が負った生々しい火傷の痕から想像はつく。
 男はめくっていた絵のうちの一枚を、リュシオンに指し示す。
「この、花と子犬の絵を譲ってもらえないか。金は払う。故郷で娘が待っているんだが、土産にしてやりたい」
 オダマキの茂みで遊ぶ子犬の絵だった。今描いていたものと同じように、色チョークで描いた。今日屋敷に帰ったら、インクとペンで描き直そうと思っていたものだ。
「絵の価値なんか全く分からないが、これはとてもいい絵だと思う。……娘に見せてやりたいと思えるくらいに」
 これは最上級の褒め言葉だ。自分の描いた絵で、小さな女の子を喜ばせる事ができるなら、こんなに幸せな事はない。
「何歳くらいの娘さんなんだろう。お金なんて不要です。色チョークで描いたものだから、消えやすいかもしれないけれど……お嬢さんにどうぞ」
 リュシオンは画板から絵を外し、男に差し出す。
「娘は七歳になったばかりだ。病がちで伏せっている事が多くてな……ありがとう。娘が飼っていた犬に似ているんだ。きっと喜ぶ」
 男は素直に受け取り、やはり先ほどと同じようにじっと絵を見つめていた。
「しかし無償というわけには」
「さっきの話と同じですよ。……お嬢さんが持っていてくれるなら、僕が死んでも、この国が滅んだとしても、絵の中には残れる。それが一番嬉しい事なんです、僕にとって」
「娘に叱られる。少しでも受け取ってもらわなければな」
 半ば無理矢理、リュシオンの掌に金貨を握らせられたちょうど時、街道に蹄の音が響いた。
「ここにいたのか、探したぞ」
 芦毛の馬に乗った金髪の青年が、男のすぐ傍まで馬で乗り付け、声をかける。
「ああ。この少年に門までの道を聞いていました」
「のんきなもんだな、あちこち探したぞ。……少年、連れが世話をかけた。ありがとう」
 目の覚めるようなまばゆい金髪の、身なりのいい青年だ。口ぶりからも、この寡黙な商人を雇う立場なのかもしれない。
 男は子犬の絵を鞍にくくりつけた鞄にしまい、連れていた青毛の馬の背に手をかける。
「ありがとう。……少年、君の武運を願っているよ」
「あ、待ってください」
 リュシオンは懐に入れていたハンカチを取り出す。あの色チョークの素描が金貨一枚ほどの価値があるとは思えなかったのもあった。父親の帰りを病床で待つ、小さな女の子の姿が脳裏を浮かんでもいた。
「このハンカチ、持って行って下さい」
 ルッツ家の家紋と、リュシオンの名前が刺繍されている絹のハンカチを男に差し出す。
「今、王都に入るのは難しいです。戦の前なので、旅人や外国の商人は入れないかもしれません。……このハンカチを見せて、ルッツ家のリュシオンと取引があると伝えれば、門前払いはされないはずです」
 少しの沈黙があったが、男はリュシオンのハンカチを受け取った。
「ありがとう。……心から感謝する」
 無愛想というか無感情というか。そう思えていたが、初めて男の感情のこもった声を聞いたような気がしていた。
「少しでも早く、小さなお嬢さんのところに帰ってあげて下さい。……道中、お気をつけて」
 病気がちな小さな女の子に、この絵を喜んでもらえますように。小さな女の子の許に、一刻も早く父親が帰り着けますように。そう祈りながら、リュシオンは男達を見送る。



「ルッツ家のリュシオンがよく郊外で絵を描いてるっていうのは、本当だったんだな」
 金髪の青年は街道を馬に揺られながら、男を振り返る。
「よく見つけたな、グレイアス。こんなうまく行くとは思っていなかったよ」
 男は受け取ったリュシオンのハンカチを握り、黙り込んだままだ。彼が無口なのは、今に始まった事ではない。青年は気にせず続ける。
「あの子、知らずに手引きしちゃったな。何を言ったんだ? グレイアス。ルッツ家の家紋入りのハンカチなんか手に入れられるほど、どうやったら初対面で信用させられるのさ」
 グレイアスはようやく、口を開く。
「……何も。急ぎましょう、ユリエル王子。日没前に城壁内へ入り込んで、準備をしなければ」
「すごく楽できて助かったけれど。……あの子、気付かないといいね」
 ユリエルは手を伸ばし、グレイアスの手元からハンカチを取り上げる。
「これを渡した相手が、カルナス帝国の常勝将軍グレイアス・レクセンテールだったと知ったら、きっと死にたくなるよね。敵を城壁の中に招き入れたなんてさ。クレティアの傍流の王子は、王家と国を守る盾騎士だっていうのにね」
「怪しまれないように、数名を連れて小規模の商隊のふりをしましょう。ユリエル王子、合図を。散って潜んでいる者を集めてから城壁に向かいます」
 ユリエルの手元でひらひらと翻るハンカチを取り戻し、グレイアスは冷静に返す。そのグレイアスを見つめるユリエルのすみれ色の瞳は、穏やかでありながらひどく冷めていた。
 グレイアスの表情は、深くかぶったフードとショールに包まれて、ユリエルからうかがい知る事はできない。例え今どんな表情をしていたとしても、ユリエルが語る言葉は変わらない。
「良心の痛みなんか気にしてたら、帝国の将軍なんかやってられないよね。ねえ、グレイアス」



2018/02/18 up

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