騎士の贖罪

#05 愛玩物の仕事・前

 絵が描きたい、と伝えると、ジーナはぱあっと笑顔になった。掃除道具を放り出して、窓際で庭を眺めていたリュシオンに駆け寄る。
「リュシオン様は絵を描かれるって、グレイアス様から聞いてます! もし絵の道具が必要なら、すぐ用意しなさいって。急いで用意しま……あっ。お掃除はお使いの後でも大丈夫ですか……?」
「すぐに用意してもらえたら、とても助かる。ありがとう、ジーナ」
「あの、用意するものはたくさんありますか……? 覚えられないくらい、たくさんですか?」
「銀筆と紙くらいでいいよ。紙は画材屋に任せれば選んでくれるから。それだけあれば十分だよ」
 もしかしたらリュシオンが笑みを見せるのは初めてかもしれない。ここに来てからずっと塞ぎ込み、ほとんど口をきかなかったリュシオンが心を開いてくれたとジーナは思ったのかもしれない。
「よ、よかった……。わ、私、文字が書けないから、お使いは覚えるようにしてるんです。グレイアス様が週に何回か学校に通わせて下さってるけど、仕事がいっぱいの時は行けないし、まだ通い始めたばかりだから」
 ジーナはばたばたと部屋の中を走り回って掃除の道具をひとまとめにし、再びリュシオンに向き直った。
「じゃあ、急いで行ってきます! 銀筆と、紙ですね! すぐご用意しますからね!」
 張り切って飛び出していったジーナの後ろ姿を見送ると、リュシオンはまだ治りきらない左足を引き摺りながら部屋を一巡する。
 部屋の中には必要最低限のものしか置かれていない。リュシオンに自決させない為か、陶器類は一切置かれない。食事も、終わればすぐに食器を下げられてしまう。あるのは真鍮の水差しとゴブレット、数個の果物くらいだ。シーツ類やカーテンも、素手では引き裂けないような硬く張りのあるものばかり。思えば浴室への扉も鍵がかけられていて、ジーナがいなければ入れないようになっていた。徹底している。
 ジーナに画材を頼んでも、グレイアスを通して許可を得なければならないとしたら、手に入れられないかもしれないとは思っていた。こんな簡単にジーナが買いに行ってくれるとは思いも寄らなかった。これだけは幸運だったと思える。
 死ぬつもりなんか毛頭ない。自決なんて許されるはずがない。
 リュシオンは光射す中庭の緑を眺めながら、唇を噛みしめる。



「お待たせしました! 買ってきましたよ、これで大丈夫ですか?」
 ジーナは自分で買いに行ったようで、汗だくな上はぁはぁと荒い息を吐きながら、大事そうに抱えていた包みをリュシオンに差し出した。
「初めて画材屋さんに入りました。絵を描く道具って、たっくさんあるんですね。今までのお使いは、市場ばっかりでした」
 包みを開くと、華やかな装飾が施された銀筆数本と、綺麗に包装された高価そうな紙束が現れた。大国カルナスで作られたものらしく、当然のように高品質だ。リュシオンは一本の銀筆を取り上げる。こんな繊細な装飾を施された銀筆を見るのは初めてだった。豊かな大国はこんなところから違うのかと痛感する。
「十分だよ。ありがとう、ジーナ」
 ジーナは銀筆に興味津々な様子だった。じっとリュシオンの手元を覗き込んでいる。
「これは細く尖らせた銀で、これで紙の上に絵が描けるんだ」
 早速紙束から紙を一枚取り出し、リュシオンは慣れた手つきでさらさらと描く。菫の花を描いて見せると、ジーナは感嘆の声を上げた。
「すごい、綺麗! これ、菫ですよね。大好きな花です。絵なのに花びらがすごく柔らかそう。まるで触れそうです……すごい!」
 無邪気に喜ぶジーナの声に、ほんの少し胸が痛む。この銀筆が何に使われるのか、ジーナは思いも寄らないだろう。
「銀筆で描いたものは灰色に見えるけれど、時間が経つと茶色っぽく変化するんだ。けれど色チョークみたいに消えたりしないから、持ちはいい」
 今描いた菫の花びらに、丁寧に影をつけていく。ジーナはリュシオンの指先から生まれる花に夢中だ。
「また、必要なものがあったら言って下さいね。お店の場所も覚えたし、私、すぐに買いに行きますから! ……こ、これ、私に下さいませんか? 私の部屋に飾って、いつも見ていたいです……」
 少し恥ずかしそうにおずおずとねだるジーナに、ひどく胸が痛くなった。明るくて無邪気で一生懸命なジーナに、何の罪もない。
「いいよ。……今度もっとちゃんと描いてあげるよ」
「わあ、ありがとうございます! 楽しみしてます! 綺麗で素敵なものや、可愛いものを毎日見てられるのって、すごく嬉しいですよね。楽しい気持ちになれますよね」
『今度』はきっとない。リュシオンに明日があるかさえも分からない。ジーナも、リュシオンのせいで屋敷を追われるのか、罰せられるのか、それとも命すらも奪われるのか。
 自分の為に誰かを道連れに不幸に陥れる事が正しくないなんて、分かっている。それでもやり遂げなければならない。自分の犯した罪を償わなければ、死ぬ事も許されない。



 支度といっても特に何をするわけでもない。ジーナに手伝ってもらいながら湯浴みをし、軽い食事を摂り、いつもの寝間着や緩い部屋着ではなく、小洒落た服を着せられたくらいで、あとは『飼い主』であるグレイアスがやってくるのを待つだけだ。
 ジーナは落ち着かないのか、部屋の中をうろうろ歩き回って寝具を整えたり家具の埃を払ったりと、グレイアスを迎える準備に余念がない。
 彼女はこれからこの部屋で主人が何をしようとしているのか、分かっているのかいないのか、いつもと変わりがないように見えた。単純に『よくある主人の情事』で、彼女にとってはいつもの事なのかもしれない。
 純朴そうな少女に、これから自分の身に起こる事を知られているのはリュシオンにとって屈辱であり恥辱であるはずだが、今は何も感じられなかった。ある意味、リュシオンはこの日が来るのを待ちわびていたとも言える。覚悟を決めたリュシオンにとって、それは些末な事に思えていた。
 リュシオンは忙しなく歩き回るジーナに背中を向けて、中庭へのポーチに座って絵を描いていた。
 あのクレティア落城の夜から、絵を描くのは初めてだった。絵を描こう、すら思わなかった。今、夢中になって銀筆を走らせながら、こんなにも渇望していたのかと思い知らされていた。
 なんの目的もなく、目の前の草花を描き続けるだけて、楽しくて仕方がない。
 これからやらなければならない事も、今は考えずにいられた。ただただ、楽しかった。こんな時なのに、こんな時だからこそなのか、とても幸せな時間を過ごせていた。
 小さな花弁にひとつずつ、丁寧に陰影をつけていく。たったこれだけで楽しい。自分でも不思議だ。これが自分の最後の絵になるかもしれないと思えば、余計にこの狭い中庭が、今は切り離されてしまった世界が、愛おしく思えた。
 鍵の開く金属音が小さく響いた。ジーナは扉を開き、恭しく主人を迎え入れる。
「ありがとう、ジーナ。特に用事ができなければ朝までお前を呼ぶ事はないから、今日はもう下がって休むといい」
 低く響くこの声は、忘れたくても忘れられない声だ。リュシオンは背中を向けたまま、絵を描き続ける。
「ありがとうございます、グレイアス様。お茶とお酒は先月、ユリエル様からお贈り頂いた錫の器にご用意しました。それでは、失礼致しま……あっ! クラーツ様もご一緒ですか。器の数が足りません。今急いでご用意して、それから下がりますね!」
「ああ、伝え忘れていた。すまないな、ジーナ。よろしく頼む」
 グレイアスだけならまだしも、クラーツもいるとなると、慎重に行動しなければならない。どちらも油断できない相手だ。気付かれでもしたらチャンスを逃す事になる。
 ジーナは酒器と席の用意を済ませると、リュシオンに歩み寄る。
「リュシオン様、お酒とお茶をご用意してあります。グレイアス様とご一緒に召し上がって下さい」
 ジーナはやんわりと、リュシオンの手から握りしめていた銀筆と紙を取り上げ、席につくよう促す。
 目眩がしそうなくらいに、心臓が早鐘を打っていた。手も足も、微かに震えている。それでもリュシオンは頭を上げ、しっかりと前を見据える。
 最初の一杯を給仕し終えると、ジーナは部屋を下がった。
「……リュシオン殿の怪我はほぼ完治していますが、左足首の骨折はまだ暫く時間がかかります」
 クラーツはいつもの投薬や治療の記録を開きながら、グレイアスに説明していた。
 クレティアの郊外で初めて会った時は、フードを深く被っていた。落城の夜も、月明かりのみでこの男の顔をゆっくりとみる機会はなかった。
 今、こうしてみるとあの目立つ火傷の痕が酷く生々しく見える。
 黒髪に明るい金色の瞳で、この火傷さえなければ野性味のある魅力的な容貌だ。火傷は左頬から首筋、おそらくは肩や胸元までの広範囲にあると思われる。あまり若くはないと思われるが、何歳なのか分からない。全く感情を出さないせいか、それとも将軍という重責のせいか、粗野ではないが荒く鋭く見えた。
「他に問題はありません。問題なくお使い頂けます」
『使う』という言葉に侮蔑はない。クラーツは当たり前のようにリュシオンを『愛玩物』として扱う。彼にとってリュシオンは『将軍が王から賜った大事なペット』だ。最早怒りも感じない。
 グレイアスも黙って錫の酒器に満たされた酒を飲んでいるが、何を考えているのか全く分からない。あの落城の夜にリュシオンを襲った男達のように生々しい欲望を持っているのかあやしいとさえ思えるくらい、淡々としていて、本当にこの男はリュシオンをどういうつもりで飼っているのか、リュシオンも全く読めなかった。
「グレイアス様もご存知かと思いますが、ロデリック王から賜った愛玩物をきちんと『使って』頂けているのか、私は王に報告する義務があります。大変申し訳ございませんが、暫くの間、閨に立ち会わせて頂きます」
 吐き気がこみあげる。
 この男に犯されるさまをつぶさに見られ、その上、ロデリック王に報告もするというのか。
 帝国の薄汚れた習わしだというのか。それとも、他国に囚われ性的に支配されるものは皆、このような辱めを受けるというのか。
 クラーツは王族や高い地位にいる貴族しか診ない医者だと言っていた。それは王や王の女達を診る医者という意味だったのかと、今リュシオンはやっと気付いた。
 自分は性的に搾取される『もの』なのだと、はっきりと思い知らされていた。



2018/04/23 up

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