騎士の贖罪

#07 ゆめまぼろしの夜

「……熱が高いずっと下がらないです。何も食べて下さいませんし、お水すら」
 天鵞絨の天蓋の向こうで、ジーナの小さな声が聞こえる。
「レクセンテール将軍はアトリーン保護領からいつお帰りになると?」
 硝子が小さくぶつかる音が響いた。クラーツは薬を用意しているようだが、リュシオンは水すら受け付けない有様だ。薬を飲ませる事も難しい。
「暴動の鎮圧だけでなく終わってからの処理もあるので、一ヶ月は戻らないと仰っていました。……クラーツ様。リュシオン様はこのままでは……」
「私にできる事はこれ以上ない。あとは本人次第だ。本人が生に執着しないなら、どうにもならない」
 クラーツは淡々とそうジーナに返す。震える声のジーナとは対照的に、クラーツはいつものように、まるで感情なぞどこかに置き忘れてきたかのような素っ気なさだ。
「そんな……!」
 絹の寝具に埋もれるように横たわったままのリュシオンの耳にも、ふたりのやりとりは届いていたが、なにひとつ、リュシオンの心には届かない。
 何も考えたくなかった。
 あの夜の記憶はおぼろげだった。思い出す事を心が拒否しているのかもしれない。記憶は曖昧でも、身体にはあの男の痕跡がまざまざと刻み込まれ、忘れる事はできなかった。
 身体の中に突き入れられた硬く熱い肉の感触は、未だ生々しく身体に残っていた。
 どれだけ心が拒否しても、はっきりとこの身体は覚えている。あの男に犯された悪夢の夜を、決して忘れさせてはくれなかった。
 あの男を殺せなかった。絵を描く事も捨てられなかった。恥辱を甘んじて受けながら生きていくような浅ましい生き方も選べず、死ぬ事もできずに、こうして生き長らえている。
 時折浅い眠りに落ちても、すぐに眠りはリュシオンを苛んだ。
 変わらずに繰り返されるクレティア落城の夜、塔から吊された両親と小さな王子、王女達のあまりに惨い光景、リュシオンを押さえつける男達の下卑た笑い声、自分を欺いた男に身体の奥深くを貫かれ犯され、甘く喘ぎ続ける浅ましい姿。夢は何度でもリュシオンに現実を突きつける。
 どんな悪夢にも甘んじる。それだけの罪を犯したとよく分かっている。
 クレティアを滅ぼしたのは、カルナスでもあの男でもない。自分だ。
 愚かで浅慮だったリュシオンが、あの男の正体にも気付かずに、愛する祖国を滅ぼした。
 何もかも許されるはずがない。償いきれるはずがない。
 それなのに、絵を描き続けたいと何故、思い続けてしまうのか。それなのに、自分の犯した罪の重さに耐える事もできない。
 このまま眠り続けたかった。眠り続け、永遠に目覚めなければいいとさえ、思う。
 悪夢はまだリュシオンに優しい。目覚めたなら、この現実と向かい合い、戦わなければならない。



「何もかも消えてなくなるものだと思っていた」
 はっきりと、そう聞こえた。
 リュシオンは熱で朦朧としたまま、目を開く。
 高熱のせいか、視界は滲んでいた。天蓋に覆われた暗い寝台の上に、一筋の月明かりが差し、乳白色の細い帯が落ちているのがぼんやりと見える。
「絵の中で永遠に生き続けられる、と君は言ったな。それまで考えた事もなかった。人も物も、いつか死に、消えて忘れ去られるものだと思っていた」
 誰かの冷たい手が、熱を持った額や頬にやんわりと触れる。硬く荒れた、大きな手だ。高熱のリュシオンに、その手が誰の手なのか考えるような意識はなかった。
「国も物も人も、いつか消えてなくなる。それでいいと思っていた……」
 消えてなくなる。それも自然の摂理だ。それでも人は語る言葉を持ち、記録する文字や形を残す術を持ち、何かを愛した記憶を未来へ伝える心を持っている。
 リュシオンは触れるひんやりとした手の心地よさに、再び目を閉じる。
「クレティアを滅ぼした事も、君をこんな身分に落とした事も、許されるとは思っていない。どう言い繕おうが、これが現実で事実だ」
 熱を持つ肌に触れていた手が、不意に離れた。頬に残るその感触が、とても優しく穏やかなものにリュシオンは感じられていた。何か言葉を口にしようとしても、おぼろげな意識はそれを拒んでいた。
「信じてくれとも言わない。許しを請おうとも思わない。……ただ、私は見たかったんだ」



 君が愛して描いた世界を、人を、生き物たちを、もっと見ていたいと思ったんだ。




 あれほどリュシオンを苛んでいた高熱は、目が覚めると綺麗に消え去っていた。
「起き上がれますか。無理はしないで下さい。あの、何か食べられそうなら、ご用意します。……す、少しでも召し上がって頂けたら、とっても嬉しいです」
 ベッドから起き上がろうとすると、部屋の隅で小さな椅子に丸くなるように控えていたジーナが、驚くほど素早くリュシオンの許に飛んできた。
 ジーナの金色がかった茶の大きな瞳には、今にも溢れ出しそうなくらいに涙が浮かんでいた。
「……ありがとう。水をもらえるかな……」
 自分の声だとは思えないくらいに掠れて弱々しかったが、ジーナはとても嬉しそうに頷いて、大慌てで真鍮のゴブレットに水差しから水を注ぐ。
 ジーナからゴブレットを受け取り、口をつける。ひんやりとした水が渇いた身体に心地よく感じられた。
 長い夢を見ていた気がする。身体に染み渡るような冷たさを感じながら、ゆっくりを思い返す。
「な、何か食べられそうですか。……あの、私、頑張って作ってくるので、召し上がって頂けますか」
 頷くと、ジーナはいつものように笑顔を見せて、部屋から飛び出して行ってしまった。
 何故、ジーナはこんなに尽くしてくれるのか。それが少し不思議でもあった。
 クラーツはリュシオンが愛玩用のペットである事を隠しもしない。ジーナの目の前でもそういう扱いをしている。それでもジーナはリュシオンをまるで主のように立てて、こんな風に親身に尽くしている。
 言われるまでもなく、リュシオンは将軍の性処理の為に飼われているペットだ。それをジーナも知っているはずだ。だからこそ、ジーナのこの献身の理由が分からなかった。
 分からない、と言えば、夢うつつの中で出会った誰かだ。
『国も物も、人も、いつか消えてなくなる。それでいいと思っていた……』
 あれはグレイアスだった。
 目覚めてはっきりとそう思い出していた。



「いつも、お料理は料理番さんが作ってくれていて、私はお掃除とか、あとはこうしてリュシオン様の身の回りの事がお仕事なので、料理は滅多にしないんです。私達使用人のご飯も、料理番さんが作ってくれるから」
 真っ白なスープ皿のようなものを小さなティーワゴンに載せて戻ってきたジーナは、いつものように多弁だ。
 これはリュシオンが何か反応を返してくれるかもしれない、と一生懸命話しかけているのだと、リュシオンも気付いていた。
「これは、私の国のお料理なんです。もう私の国はなくなってしまったけど……大麦を牛乳で煮て、蜂蜜や果物で甘くしたお粥です。病気になった時、お母さんやおばあちゃんが作ってくれたごちそうなんです」
 ジーナはいそいそと小さな皿に粥を取り分けて、ベッドの上のリュシオンの膝に小ぶりな銀色の盆ごと載せる。
 真っ白なミルクと大麦の上に、金色の蜂蜜を垂らし、ジーナはにこにこ笑顔で勧める。
「病気はつらいけど、このお粥が食べられるから、ちょっぴり楽しみだったんです。……どうぞ、リュシオン様。召し上がって頂けますか」
 勧められるまま、リュシオンは粥を一匙すくい取り、口に運ぶ。
 甘く柔らかな味で、弱った身体でもおいしく食べられる。もう一匙食べると、ジーナは分かりやすくぱあっと笑顔を見せた。
「グレイアス様が、熱が下がり始めてるから、何か消化のいいものを作って用意しておくようにって言ってたんです。だから、朝早くから大麦を煮ておいて……」
「帰っているのか?」
 思わずジーナの話を遮ってしまう。クラーツは『当分将軍は帰ってこない。帰ってきたらすぐ"仕事"ができるよう早く身体を治せ』と言っていた。
 暫くはその呪わしい仕事から離れていられると思っていた。そして、あれは夢ではなく現実のグレイアスだったというのか。どこまでが夢で、どこからが現実なのか。それもおぼろげだった。
「はい。夕べ夜遅くにお帰りになりました。でも、アトリーンに戻らなきゃいけないからって、朝早くに出発なさいましたよ」
 粥をすくったまま、手が止まる。
 何もかも、分からない。一体何がどうなっているのか、理解できなかった。
「……おいしくありませんでしたか? な、何か他の物を」
 手が止まってしまったリュシオンに、さっとジーナは青ざめる。
「いや、おいしいよ。……ありがとう、ジーナ」
 夢の中のひんやりとした大きな手を思い返す。
 あれが現実でも夢でも、どちらでも、リュシオンを目覚めさせたのは確かだ。
 今、生きている。祖国の敵も取れず、惨めに生き恥を晒し、生き存えている。
 死ぬ事もできないなら、リュシオンにできる事はたったひとつだ。

『僕が死んでも、この国が滅んだとしても、もしかしたら絵は残るかもしれません。……この国の風景や人々が存在していたと、遠い昔に滅んだ国の絵や彫刻のように、知ってもらえるかもしれません』

 あの日、グレイアスに語った言葉をはっきりと、思い出す。
 生きている限り、クレティアの人々を、美しい国土を、生き物たちを、描き続ける。
 それで犯した大罪を償えるなんて、思わない。必ずこの手で、あの男を殺さなければならない。
 再びチャンスが巡るまで生き存えるならば、描き続ける。
 そうだ。リュシオンが死んでも、絵は残るかもしれない。クレティアの人々が、自然が、絵の中でも生き続けられるように、描き続けなければならない。
「……ジーナ、また絵の道具を頼めるかな」
 銀筆でグレイアスに襲いかかった事を思い返せば、もう絵の道具を手に入れるのは難しいかもしれない。言ってみるだけは、とリュシオンは思っていた。
「あ、それなら」
 ジーナは天蓋を開け放ち、部屋の一角へ歩いて行く。
「絵の道具でしたら、こちらに。今朝、グレイアス様から用意しておくように言いつけられていたので、画材屋さんを呼んで、色々買いそろえてあります。もし足りない物があったら、すぐに買いに行くようにとグレイアス様が仰っていましたし、何でも言いつけてくださいね!」
 木箱に絵筆や紙束、絵の具やインク壺などが溢れるほど詰め込まれ、壁際に積み上げられていた。驚くほどの量だった。

『君が愛して描いた世界を、人を、生き物たちを、もっと見ていたいと思ったんだ』

 これも夢ではなく現実だったというのか。


2018/04/29 up

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