騎士の贖罪

#13 王子の戯れ

 クラーツのおかげで、毎日のようにリュシオンを抱いていたグレイアスが自重するようになり、正直助かっていた。あまりに激しく責め立てられ、身体のあちこちが痛んで、グレイアスがいない時間の大半をリュシオンは寝て過ごしていた。
 グレイアスも暫くは仕事に集中するようで、リュシオンは久し振りに例の石壁に埋め込まれた扉の錆取り作業ができていた。
 隙をついてはコツコツ作業をしていた為、ずいぶん錆は落ちた。最初はびくともしなかった扉も緩みを見せ始め、強く引けばガタガタと揺れるようになった。
 もう少し筆洗油を塗り込める作業を続ければ、開くかもしれない。すっかり錆色に染まった筆を筆洗油で濯ぎながら、リュシオンは立ち上がる。
 相変わらず左足は重い。引き摺りながらポーチのテーブルへと歩み寄り、散らばった画材や紙をまとめようと手を伸ばした時だった。
「……ああ、いないのかと思ったら、庭にいたのか」
 唐突に声をかけられ驚きのあまり、手にしていた筆洗油の入った瓶をポーチに落としてしまう。ばしゃん、と油が飛び散る音が響いた。
「顔の腫れも引いて、元の可愛い顔に戻ったね。グレイアスが君を欲しがらなければ、私が君の飼い主になれたのに。惜しかったなあ」
 いつこの部屋に入ってきたのか。全く気付かなかった。その上、こうして部屋にいたというのに、気配すら感じなかった。まるで空気のように自然に現れた男に、リュシオンは立ち竦んだまま、身動きもできなかった。
 作業を見られたかもしれないと思うと、咽頭がこわばって言葉が出てこない。だが彼は全くそれには触れずに、にこやかに話し続ける。
「忘れているのかな。……ユリエルだよ。君をグレイアスに与えるよう、ロデリック王に進言したのを覚えていないかい?」
 忘れるはずがない。あの日、クレティアの郊外でも出会ったカルナスの王子だ。まばゆいくらいの金色の髪に色鮮やかなすみれ色の瞳を持った、優しげにも酷薄にも見える不思議な男だ。
「グレイアスは君に夢中らしいね。随分可愛がられてるんだろうなあ。……少し見ない間に、驚くくらい色っぽくなった」
 ユリエルは部屋の中央の椅子に優美に足を組んで座り、無遠慮にリュシオンをつま先から頭の天辺まで眺めている。
「女と同じように少年でも身体で男を知ると、こんな色っぽくなるんだな。……勉強になった」
 クラーツはリュシオンを『愛玩物』としての価値で計って物を言うが、この男は何を意図しているのか全く分からない。
 リュシオンを嘲っているのか、侮っているのか、辱めたいのか、心から褒めているのか。冗談なのか本気なのかすら分からない。大国の王子らしい気品と美しい顔で、この言動だ。リュシオンは恐怖さえ感じていた。
「おや、怖がらせてしまったかな。……おいで、一緒にお茶でも飲もう。今日はこの屋敷に用事があったから立ち寄ったんだ。ついでに君の顔を見に来たんだよ」
 ユリエルはテーブルの上の呼び鈴を鳴らし、女中を呼ぶ。ジーナは今日、学校の日で留守だ。代わりに、いつもグレイアスの夜遅い訪問の時に給仕をしている年配の女中がやってきた。
 慣れた口調でユリエルは女中に茶の用意を頼み、リュシオンに座るよう促す。
 錆びた扉の事を気付かれていないか、リュシオンは気が気ではなかった。押し黙ったまま座り込むリュシオンをどう思っているのか、ユリエルは笑みを浮かべたまま、話しかける。
「幾ら私でも部下の愛人を寝取るような真似はしないから、もっと気を楽にしたらいい。……ああ、気を悪くさせたかな。褒めたつもりだったけど、厭味に聞こえるよね」
 女中はユリエルの言葉に眉一つ動かさない。手早くお茶の用意を済ませると、頭を垂れて挨拶をし、さっさと部屋を出て行ってしまった。
「きっとクレティアの事を知りたいだろう。無事、クレティアはカルナスの統治下に入ったよ。特に混乱も暴動もなく、静かなものだった。……君は卑怯なやり方だと罵っていたけれど、あれが一番犠牲が少ない攻め方じゃないかな。民間人の犠牲がほとんどないからね」
 思い出すだけで怒りがこみ上げる。叶うならこの男をこの場で引き裂いてやりたいが、武器もない。足も不自由で、それだけでも勝算がまるでない上に、この薄気味の悪い王子は、隙がない。
 ちゃらちゃらしているようで、全く隙を見せない。それも不気味に感じられた。まだ軍人として経験の浅いリュシオンでも、この男が見掛け通りの優男ではないと、はっきり分かる。気配すら感じさせずに、この部屋にいたのだ。武人としてそれなり以上の実力があるのは間違いない。
「他にも聞きたい事があるんじゃないかな。……例えば、グレイアスの火傷の事とか」
 この男はリュシオンの心を読めているのかというくらい、揺さぶりをかけてくる。リュシオンは動揺を隠せなかった。巧妙に揺さぶられ、狼狽え、戸惑わずにいられなかった。
 ユリエルは優美な笑みを絶やさない。
「教えてあげてもいいよ。……ただで教えるのもつまらないな。何か面白い事はないかな」
 リュシオンの動揺を楽しむかのように眺めながら、ユリエルはティーカップに口をつける。
「……グレイアスが毎夜愛でている君の身体でも見せてもらおうかな。それくらいしか楽しそうな事はなさそうだ」
 怒りよりも恐怖が勝った。ユリエルの得体の知れなさに、背筋が冷たくなる。この王子が正気でないのか、悪ふざけなのか、リュシオンを試しているのか、まるで分からない。
 分かる事は、この男が全く隙を見せず、牙を隠し持っているという事だけだ。油断したら喰い殺されそうな気さえしていた。
 震えそうになる身体を叱咤しながら口を開こうとした時、廊下を駆ける革のブーツの重い音が響いた。廊下は控えの間の向こうだ。普段物音が響く事はほとんどない。こんな大きな靴音が? 思ったその時には、荒々しく部屋の扉が叩き付けるように開かれた。
「……王子、お戯れを」
 飛び込んできたのは、肩で激しく息をつくグレイアスだった。
「ああ、もう帰ってきたのか。おかえり、グレイアス。君の可愛い少年騎士……今は少年画家かな? で和ませて貰っていたよ」
 驚くほど息を切らしていて、グレイアスはすぐに言葉が出てこないようだった。
「リュシオン王子、続きはまた今度で。……次はからかったりしないから、安心していいよ。どうするのかちょっと見てみたかっただけなんだ。試して悪かったね」
「ユリエル王子」
 言葉少ないが、グレイアスの声に怒気が混じっている。ユリエルは悪びれもせず、肩を竦める。
「そう怒るな。ちょっと一緒にお茶を飲んだだけだよ。……仕方ないな」
 ユリエルはやれやれ、と露骨に口に出してから、立ち上がった。
「また会おう、リュシオン王子。……次はグレイアスの邪魔が入らないようにしよう」
 責めるような目差しを向けるグレイアスの背中をぽん、と叩いて、ユリエルは笑顔で手を振って、部屋を出て行ってしまった。
 リュシオンは呆然と二人のやりとりを見ているだけだった。
 たった数分の事だったはずなのに、リュシオンの掌はじっとりと汗ばんで、未だに動く事ができなかった。
 ユリエルを見送ったグレイアスの大きな手が、不意にリュシオンの細い顎を掴み、引き上げられた。
 微かに震えている唇に、グレイアスの唇が噛みつくように触れ、すぐに熱い舌が口の中に入り込んできた。
 顎を押さえつけられたまま、歯列を、口蓋をなぞられ、舌を激しく吸い、食まれて、リュシオンは息がつけなかった。飲み下せない透明な雫が重なる唇の隙間から溢れ、仰け反った白い喉に伝い落ちた。
 唇を貪られ背骨が折れそうなくらいにきつく抱きしめられ、このままいつかのように床に引き倒され、乱暴に犯されるのかとリュシオンは身構えていた。
 息苦しさに小さく呻くと、やっとグレイアスはリュシオンの唇を解放した。だが、まるで胸の檻に閉じ込めるかのように抱きしめたまま、リュシオンを離そうとはしなかった。
 リュシオンの背中を抱き、髪に頬を埋めるグレイアスの表情は分からない。ただされるがまま、リュシオンは息を詰めていた。
 分からない。
 グレイアスもユリエルも、どうしてリュシオンに揺さぶりをかけるのか。
 この男が何を考えているのか、リュシオンをどうしたいのか、分からなかった。ただの肉欲のはけ口として扱われた方が、まだマシだと思えていた。
 こんな風に抱きしめられるのは、苦痛でしかない。
 この男がリュシオンにどんな気持ちを抱いているのか、何を求めているのか、あるはずがない事を錯覚してしまいそうになる。
 もののように扱われたかった。身体だけを奪われるなら、何にも惑わされずにいられる。心の中に憎しみだけを育てていられる。この男を憎み続け、いつか殺す事を願い続けるなら、祖国を滅ぼした自分だけが生き延びている事が許されると、思い込める。何もかも気付かなかったと、自分を騙していられるのに。



2018/05/19 up

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