騎士の贖罪

#15 オダマキと子犬

 リュシオンは草むらに座り込んで、慣れた手つきで錆びた扉に筆洗油を塗りつける。ほんの少しだが扉が開くようになったおかげで、蝶番に油を流し込みやすくなった。この分ならもう少しで開けられるかもしれない。
 錆で汚れた筆先を濯いだ拍子に袖口から覗いた手首の内側に、赤い痕がある事に気付く。それは夕べ、グレイアスが残した唇の痕だ。
 夕べ、あの男の前でみっともなく泣いた事を思い出す。あの時無理矢理酒を流し込まれたせいで、リュシオンはあのまま酔っ払って眠ってしまった。
 目が覚めてみれば朝で、いつものようにもうグレイアスの姿はなかった。
 身体にはグレイアスの痕跡はなかった。あのままリュシオンをベッドに放り込んで抱く事なく帰って行ったようだった。
 こういうところが大嫌いだ。
 心の底からそう思う。苛立たずにいられなかった。
 リュシオンを『使え』ばいい。泣こうが喚こうが、好きにすればいいのに、何故こんな事をするのか。所詮リュシオンはグレイアスの気まぐれで飼われているペットだ。どうせリュシオンの意思なぞ関係なく『使われ』るのだ。それならこんな風に、中途半端な温情を見せないで欲しかった。
 その方が惑わされずにいられる。心の中に憎しみだけを育てていられる。
 深いため息をついたその時、錆び付いた蝶番がぱきん、と音を立てて軋んだ。
 思わず息を飲み、それから恐る恐る引き手を引いてみると、微かな音を立てて、鉄の扉はとうとう開かれた。
 まだまだ蝶番は硬い。大きく開く事はできなかったが、細身のリュシオンが屈んで通り抜けるくらいの隙間はできた。注意深く様子を窺いながら、そっと扉の向こうを覗き込む。
 この中庭とそう変わりがないように見えたが、おそらくとても広い。リュシオンの部屋の中庭とは比べものにならないくらいの規模ではないだろうか。風の吹き抜け方がまるで違う。綺麗に手入れされた贅沢な庭園だが、ここから覗いたくらいでは、どういう立地の場所なのかまでは、分からない。
 目の前にはバラの生け垣やトピアリーがあった。綺麗に手入れされたトピアリーは、うさぎや猫、可愛らしい動物の形に刈り込まれ、整えられている。まるでおとぎ話かなにかのような庭園だ。注意深くそのトピアリーと生け垣の陰に隠れるように、扉を越えて庭に足を踏み入れる。
 リュシオンの部屋と同じように、バラの向こうにはガーデンポーチがあった。白い石造りの、可愛らしいデザインだ。
 注意深く生け垣に這い寄り、辺りを見渡す。ここもリュシオンの部屋と同じように、三方を高い塀で囲まれた、箱庭だった。広さはかなりのものだが、期待したような屋敷の裏庭や従者の宿舎でもない。外に通じていない事に、落胆を覚えずにはいられなかった。
 その広い箱庭の片隅にある、ポーチへ通じる部屋の扉は、開け放たれていた。そのポーチの上に、一枚の紙切れが落ちている。それは見覚えのあるものだった。
 遠目でも分かる。色チョークで描かれたオダマキと子犬の絵。随分薄汚れて線が薄くなっているが、間違いなくクレティア郊外でグレイアスに譲った、あの絵だ。
 こんなところでこの絵に再会するなんて、予想外すぎた。驚きのあまり辺りへの注意を怠っていた。人目を気にする事も忘れて生け垣を越えて思わず手を伸ばし、拾い上げてしまう。
 何故こんなところに?
 ポーチに座り込んでじっと絵を見つめていると、そのポーチのある部屋から、微かな泣き声が聞こえてきた。
「……だ、だれ?」
 涙混じりの、幼い声だった。
「それは、私のなの。……風で飛んでいってしまったの」
 恐る恐る部屋の中を覗き込むと、奥まった場所にあったベッドのすぐ傍の床に、小さな女の子がうつ伏せで倒れ込んでいた。ベッドから落ちたのかもしれない。
「クルトを、返してね……」
 しゃくり上げながら弱々しい声で必死に訴える。リュシオンは忍び込んでいるのも忘れて、思わず彼女に駆け寄ってしまった。
「大丈夫だよ。取ったりしないから。……ほら」
 眦を擦る女の子に絵を手渡そうとして、気付いた。寝間着の裾から投げ出された細い足は、膝上まで焼け爛れた痕があった。その痛々しい両足は、ぴくりとも動かない。細すぎる足だった。筋肉も肉もそげ落ちた、枯れ枝のような両足だ。
「クルト! ……クルト、よかった」
 女の子は絵を抱きしめながら、ようやく顔をあげた。
 青白く病み衰えた肌をしているが、可愛らしい顔をしていた。黒い巻き毛に、明るい金色の瞳だ。グレイアスと同じ、黒髪と狼の瞳。
「ありがとう、おにいさん……。おにいさんは、誰? わたしは、アンネットというのよ。この子は、クルト」
 子犬の絵を指さして、アンネットは涙に濡れたまま、微笑む。
「……ベッドに戻るかい?」
 アンネットは、こくんと頷く。
「クルトが飛んで行ってしまったから、拾いたかったの。……でも、私の足は動かないから、だめだった」
 そっと抱き上げると、アンネットは驚くほど軽かった。痛々しいほどに痩せた小さな身体に、言葉にできないほど胸が苦しくなった。この両足は、歩く事ができずに衰えてしまった足だ。
「クルトは、この犬の名前?」
 ベッドに寝かしつけて寝具を整えてやると、アンネットは安心したのか、ほう、と深い息をついた。
「うん。……バジリカにいた時、一緒に暮らしていたの。でも、火事で……。……ねえ、おにいさんは、誰なの?」
 この娘の火傷と、グレイアスの火傷。家族で火事に巻き込まれたのか、焼き討ちに遭ったのか。バジリカはカルナスの植民地だが、そこに家族で駐屯していたのかもしれない。植民地なら暴動や反乱が起きてもおかしくはない。
 何か偽の名前を教えよう。いや、それよりも自分に会った事を口止めしなければ。リュシオンはうかつな自分の行動の後始末を考えていた。後先考えずに、この娘に姿を見せてしまったのはあまりに取り繕いようがない失敗だった。
「この絵を描いた人だって言ったら、信じてくれる?」
 うろたえるリュシオンの返事に、アンネットはぱあっと笑顔になった。
「本当? おとうさまが、お土産にくれたのよ。優しいおにいさんが、アンネットにくれたって言ってた。おにいさんが、この絵のおにいさんなのね」
 やはりこの子は間違いなく、グレイアスの娘だ。黒髪に狼の瞳。グレイアスの面影もある。あの時、グレイアスは娘は七歳だと言っていたが、それよりももっと幼く、小さく見えた。
「クルトにね、そっくりなの。すごく嬉しかったの。ありがとう、おにいさん。私、大事にしているのよ。本当よ」
 絵を抱きしめるアンネットの幸せそうな笑顔に、リュシオンは戸惑わずにいられなかった。色々な感情が溢れ、何を言っていいのかも分からないくらいに混乱していた。
「……今度はもっと綺麗に描くから。待っていて。必ず描いて持ってくるよ」
 とっさにそんな事を言ってしまった。あの男の娘だと分かっていても、突き放せなかった。アンネットは小さな手を伸ばして、リュシオンの手を握りしめる。
「本当? すごく大事にしてたけど、いつも撫でていたら、消えてしまいそうになったの。……今度は、消えないクルトを描いてくれたら嬉しい。毎日たくさん撫でてあげられるもの」
 何故、扉を開けてしまったのだろう。
 アンネットの痛々しいほど病み衰えた手を見つめながら、そう思わずにいられなかった。
「……内緒でここに来たんだ。もしも誰かに知られたら、もう来られなくなってしまうかもしれない。必ずクルトの絵を持ってくるから、僕が来た事を内緒にしてくれるかい?」
 本気でこんな事を言っているのか、自分でも分からない。けれどこれは口止めだけではなかった。そう言わずにいられなかった。
 アンネットは絵を抱きしめたまま、こくこくと頷く。
「いつも、クラーツ先生と、ジーナと、ばあやしか来ないのよ。おとうさまはお忙しいから、時々会いに来て、眠るまで傍にしてくれるけど……。だからおにいさんがまた来てくれたら、嬉しい。また、お話してね」
 小さな手できゅっと指を握りしめるアンネットは、あまりにも無邪気だ。
「……内緒で会いに来るよ。……もう行かなきゃ」
 誰かに見咎められる前に、自分の部屋に戻らなければならない。名残惜しげなアンネットの指をといて立ち上がる。
「きっとよ。……また来てね」
 小さな細い声だった。あまりに頼りなげで、儚げだ。
 何もかもが嘘だったはずだ。リュシオンに近付く為の嘘で、病気がちな娘なんていなかったはずだ。父親の帰りを待つ小さな娘はいない、それだけが救いだと思っていた。


2018/05/14 up

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