騎士の贖罪

#16 懐かない野良猫

 少しも集中できない。
 リュシオンは画板を抱え込んでポーチの石畳に座り込んでいたが、銀筆は止まったままだ。
 何もかも嘘だったと思い込んでいたせいで、『病がちな幼い娘』の存在に動揺せずにいられなかった。
 グレイアスが多忙なのは将軍という立場を考えれば当たり前の事だ。だから夜遅くにやって来る事が多いのだと思っていたが、リュシオンの部屋に来る前に娘のアンネットの部屋に行き、寝かしつけるまで傍にいるから、遅くなっていたのか。
 銀筆の尖った先で紙をなぞるだけで、気が散ったまま少しも進まない。
 アンネットに出会ってから数日が過ぎたが、未だ誰にも気付かれていないようだった。アンネットは約束通りに口を噤んでいるようで、そこだけは少しの安堵を覚えているが、リュシオンは困惑したままだった。
 アンネットの話によればジーナもあの部屋に出入りしているようだが、まさかジーナに彼女の事を聞くわけにはいかない。
 考えてみれば、グレイアスの年齢や地位で妻帯していない方がおかしい。正確な年齢は分からないが三十代後半くらいだろう。妻子がいても何らおかしくはない。むしろそれが普通だ。
 大国の貴族が愛人を持つのはよく聞く話だ。将軍ともなれば複数持つ事もままあるだろう。だが妻子がありながらリュシオンをもらい受け、家族と暮らす屋敷で飼っているとしたら、あまりに倫理に欠ける。それとも同じ屋敷に置くのはカルナスではよくある事なのか。
 アンネットの言っていた事を、じっくりと思い返す。これは重要な事だ。敵を知らずして戦えない。少しでもグレイアスの情報は欲しい。
 アンネットは『父親、クラーツ、ジーナ、ばあやしか部屋に来ない』と言っていた。真っ先にあげるであろう母親を口にしなかった。あの年頃の子供なら、まだまだ母親が一番のはずだ。その母親をあげないと言う事は、亡くなっているのか、それともグレイアスやアンネットと同じように火傷や怪我を負い、どこか別の場所で療養しているのか。
 集中できないまま、紙の上に子犬を描いていく。アンネットがクルトと呼んで可愛がっていた絵の子犬は、クレティアの屋敷に迷い込んできた子犬を描いたものだった。あの子犬は料理長や女中たちが厨房の残り物を与え、そのまま庭で飼い皆に可愛がられていた。
 ゆっくりと銀筆でなぞりながら、注意深く思い起こす。ロデリック王の前に引き立てられた時、あの時が一番、グレイアスの過去に触れた話をしていた。
『グレイアスは先の戦役で多大な犠牲を払いました。大きな悲しみを乗り越え、今も父上と帝国の為に尽くしております』
 ユリエルはそう言っていた。
 グレイアス本人と娘の火傷と怪我だけでも多大な犠牲だが『大きな悲しみを乗り越えて』と言っていた。
 これは『妻を失った』という事だろうか。
 だとしたら色々な事のつじつまが合う。
 アンネットもグレイアスも『火事で』とだけ言っているが、これはバジリカの戦役での事ではないだろうか。
 クレティアの騎士団でもカルナスの状況はよく調べられていた。カルナスがバジリカへ最初に侵攻したのは確か、五年前くらいだ。バジリカを制圧し植民地化したのは、三年前か。次に攻められるのはクレティアではないかと当時、リュシオンの両親が話していた。
 もっと詳しくバジリカの戦役について知りたいが、本や資料を手に入られそうにはない。リュシオンは囚われの身とはいえ、クレティアの王位継承権を持つ。そんな政治的に重要なものを見せてもらえるはずがない。
 話を聞ける可能性があるとしたら、ジーナか。
 ジーナの国ももうないと言っていた。ここ数年でカルナスに組み込まれた国といえば、クレティアを除けばバジリカ、アトリーン、ハイメスか。ジーナのあの珍しい浅黒い肌と瞳から考えると、少数民族が多数集まり、暮らしていたハイメスかバジリカではないだろうか。
 リュシオンは絵を描くのを諦めて、片付けを始める。
 こんなに絵に集中できないなんて初めての事だ。どんなに辛い事や悲しい事があっても、絵を描きはじめればその間だけは忘れていられた。
 これは考えなければならない重要な事だからか。
 何の策もなく武器もなく、大国の将軍を殺せるはずがない。体格的にも経験的にも、リュシオンに勝てる要素はまるでない。
 だからこそ、考えなければならない。色々な事を。
 最後にグレイアスに会った夜の事を思い返す。
 無謀にも無策にもほどがある。何も考えられずに銀筆を振り回したが、あの時は夢中だった。あんな事をしてもグレイアスを殺せないなんて、分かりきっていた事だ。
 絵を描く以外にやる事もない。あるとすれば、グレイアスに身体を『使われる』事くらいだ。本当に飼われているだけのペットだ。





「……レクセンテール将軍も極端な人だね」
 久しぶりに診察に現れたクラーツに、ここ暫くは性交渉がないので足以外の診察は不要だ、とリュシオンが告げると、少々呆れたような顔をしていた。
「確かにもう少し控えた方がいいとは言ったが。……君の躾も適当なようだし、将軍は何の為に愛玩物を飼っているのやら」
 躾というのがどんなものを指しているのか分からないが、性交以外の強要はない。後はただ絵を描いて過ごすだけの状態で、囚われているとは思えないような生ぬるい状態なのは認める。
 クラーツはリュシオンの左足を曲げ伸ばして確認しながら、珍しくよく喋っている。
「気の強い、逆らうペットを組み伏せるのが大好きだという人もいる。意外だが将軍もそういう嗜好で君を好き勝手にさせてるのかな」
 そんな風に手荒く扱われる方が、よほどいい。もののように家畜のように扱われたいくらいだ。リュシオンは左足首の痛みに耐えながら大人しく話を聞いていた。
「……左足はもうこれ以上はよくならないだろう。まああれだけ骨を砕かれて、見た目だけでも綺麗に治ったんだ。よかったと言うしかないな」
 覚悟はしていた事だった。あれからどれだけマッサージをしても、足を引き摺らずに歩けなかった。武器もない。足も不自由なまま。生きてクレティアに帰れるとは全く思っていなかったが、この足であの男と渡り合うのはあまりに苦しい。
「言っておくが、故意に治さなかったわけではないからね。私も医者だ。やれる事はやった」
「……感謝しています」
 珍しく、リュシオンは素直にクラーツへの感謝を述べた。これは本音だ。左足の踝はひどい状態だった。ただの愛玩用のペットで、言うなれば奴隷の身のリュシオンに、高価な薬や治療を施していた。本来なら使い潰されるだけの、単なる奴隷だ。幾らクレティアの支配権を持つ身だとしても、むしろだからこそ、簡単に逃げ出せないよう足が不自由なままの方が都合がよかったはずだ。
 結局は治らなかったが、こんなに手厚い治療をする必要性はまるでなかった。
「私ではなく、レクセンテール将軍に感謝するべきだね。私は将軍の意向に沿って治療したまでだ。……君はまた、将軍に傷を負わせただろう。二度はないと言ったはずだ」
 最後にグレイアスに会った夜の事だ。あの傷は深かったかもしれない。朝、シーツに血痕がこびりついていたのを見たジーナが、リュシオンが怪我をしたのかとひどく慌てていた。
「ジーナに聞いて将軍の傷を見せてもらったが、ひどく膿んでいた。また銀筆で怪我を負わせたのか。あんなもので人間を殺せるはずがないし、だいたい刃物ですらない上に不衛生だ。膿むに決まっている。相変わらず君は将軍の温情が分からないらしいな」
 クラーツは心底呆れているようだった。温情も何も、これはリュシオンの望んだ状況ではない。もしもリュシオンの望む通りなら、あのクレティア陥落の夜に殺して欲しかった。
 あの男も殺せず、こんな風に身体を売って生き長らえている。いっそあの夜に死んでいたなら、この浅ましいまでの絵への執着にも、アンネットの存在にも気付かずにいられた。
「幾ら将軍が目をつぶっていても、私も仕事なので王に報告しなければならない。飼い慣らせない家畜はただの獣だ。躾もせずに飼うのが将軍の意向でも、ある程度は『教育』をしなければならなくなる。あまり気分のいい仕事ではないから、私もやりたくはないんだ。……もう少し、君も賢く立ち回ったらどうだ」
 本当に、クラーツは職務に忠実で、それ以外に興味を持たない。リュシオンを思い遣るというより、『面倒を増やすな』と釘を刺しているのは間違いない。
「それから、まだ時々は『監視』がある。将軍も不本意なようだが、君がそんな懐かない野良猫みたいな有様だから仕方ないな。……近々また閨で会う事になるよ」
 またクラーツに見られながらの行為を強要されるのかと思うと気が滅入るが、むしろクラーツの目があった方が、まだ自分は『道具』で使われる身なのだと思えるかもしれない。
「繰り返すけれど、もう少し賢く立ち回るといい。……ユリエル王子も君に興味を持っている。面倒な事にならないよう、少しは考えろ。これは私の個人的な意見だけれどね」
 クラーツがこんな風に私的な見解を見せるのは初めての事だ。リュシオンに対して仕事以上の感情を持っていない、およそ無感情な人間だと思っていた。
 言葉通りに『仕事を増やすな』と言っているようで、それとなくリュシオンに忠告をしている。
 クラーツを見送って、風の吹き抜けるポーチの石段に座り、今は蔦に覆い隠してある鉄の扉を眺める。
 アンネットやユリエルからグレイアスに伝わったなら、どうなるのだろう。何も変わらない気がしていた。武器も手に入らない。外の世界へも出られない。ただこの箱庭の中で、飼われ続けるのだとしたら、生きている意味もない。
 いや、最初から生きている意味なんてなかった。
 あの男を殺すまで、ただ生かされているだけだ。許されていないだけだ。



2018/05/16 up

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