騎士の贖罪

#18 謀略のティーテーブル

 あまりに小さく弱々しく、首を捻るのなんてきっと一瞬だろう。痩せて細い首は、少し締め上げただけで気道を塞がれ、脆い骨も簡単に砕けるかもしれない。
「本当に来てくれたのね。ありがとう、おにいさん……」
 アンネットは寝台に横たわったまま、リュシオンを見上げる。リュシオンが何を思いながらアンネットを見つめているのか、何も知らずに無邪気な笑みを見せる。酷く顔色が悪かったが、具合が悪いのはいつもだとアンネットは言葉少なに答えた。
 子犬の絵は仕上がっていたが、届けようにもなかなか機会がなかった。アンネットの部屋にはいつも誰かしら人の気配があった。鉄扉越しに慎重に確認し、扉を少し開けて更に確認し、完全に他に人がいない、とはっきり分かる時だけしか、この部屋を訪れる事はできない。
「約束通り、クルトの絵を描いてきたよ。……これを誰にも見られないように隠せるかな」
「上手に隠せたら、またおにいさんは会いに来てくれる?」
 アンネットは手渡された絵を愛しげに抱きしめながら、おずおずと尋ねる。
 まだ小さいこの子は、人恋しいのだろう。ジーナや女中達は仕事がある。そうつきっきりにはなれない。
「内緒にしてくれたらね。……誰かに知られたら、きっと来られなくなってしまうから。気をつけないといけないんだよ」
「うん。内緒にできるわ……。クルト、おかえりなさい」
 アンネットは小さく頷いて、銀筆画の子犬をそっと撫でる。
「クルトは、おかあさまが寂しくないようにって連れてきてくれた子なの。おとうさまはお忙しいから、おとうさまの代わりに、傍にいてくれるって」
 伏せた金色の瞳から、じわり、と涙が溢れる。
「火事の時も、おとうさまの代わりに、わたしの傍にいてくれたの。わたしは倒れてきた柱に挟まれて、逃げられなくて、クルトに逃げなさいって言ったのに、ずっと傍にいてくれて……」
 アンネットの口から、火事の話を聞く事になるとは思っていなかった。この娘が心と身体に負った傷は、間違いなくその忌まわしい火災の時のものだ。
 このまま語らせるべきなのか止めるのか、リュシオンは迷っていた。
 また会ったばかりのリュシオンに、こんな風に自分の事を話すのは、寂しさのあまりなのかもしれない。リュシオンに忙しい父親の影を見出しているのかもしれない。普段アンネットの周りにいるのは、ジーナや女中や、ばあやなどの女性ばかりだ。
「おかあさまが、おとうさまがきっと助けに来て下さるから、がんばってって言っていたの。痛くて熱くて、とても苦しかったけど、我慢しておとうさまをずっと待ってた。……おとうさまは助けに来てくれたけど、クルトも、おかあさまも……」
 やはり、グレイアスの妻はその火災で亡くなっていたのか。
 ぐっと涙を堪えるアンネットに、何を語りかければいいのか、分からなかった。堪えきれずに青白い頬に伝い落ちる涙を拭ってやるのが精一杯だった。
「……次はどんな絵を描こうか。何が見たい? ……僕に描けるものなら、なんでも描くから」
 アンネットはリュシオンを見上げ、涙を拭いながら笑みを見せる。あまりに頼りなげで、胸が痛くなる。
「本当? いいの?」
「もちろん。今ある絵なら、僕の故郷の街や草原の絵があるよ。今度持ってこようか」
 アンネットはぱあっと笑顔になる。
「見てみたい。もうずっとおうちの中だけなの。おにいさんは、どこから来たの? どんな街? よその国かしら」
「僕の国は……湖と大きな川があって、とても綺麗なところだったよ。カルナスみたいに大きな国じゃなかったけれど、のんびりしていて、僕は大好きだったんだ」
 君の父親に滅ぼされてしまったんだよ、と言ったら、この子はどんな顔をするだろう。
 両親も、小さな王子や王女達も、殺されてしまった。綺麗で穏やかな城下の街並みにも火を放たれて、今はもう、国の名前を失われようとしていると言ったなら、この子はどう思うのだろう。
「今度見せてあげようね。……それから、何か他の動物の絵も。うさぎや猫は好き?」
「大好きよ。動物は……みんな、可愛くて、大好き……」
 アンネットはぜいぜいと荒い息を吐く。あまり丈夫ではないこの子は、長い時間話しているのも体力を使うのだろう。
「無理をしないで。……もう休まないとね」
 乱れた寝具をかけ直してやると、アンネットは慌ててリュシオンの指を掴んだ。
「また来てくれる? ……また、絵を見せてくれる?」
「約束するよ。大丈夫。誰にも見つからなければ、また来られるよ」
 青ざめた額を撫でてやると、必死にすがっていたアンネットは安心したのか、リュシオンの指を掴んでいた手を緩めた。
 どんなにグレイアスが憎くても、この子を傷付ける気にはなれなかった。もうこの子は小さな体と心に、耐えがたいほどの傷を負っている。
 きっとそれはリュシオンの甘さだ。
 復讐にためらいを感じる必要なんてないはずだった。どんな手を使ってでも、あの男を追い詰めなければならないはずだった。
 この子には罪はない。グレイアスの娘というだけで、父親の罪を背負わせようとは思えなかった。自分の手を汚せない生ぬるい中途半端さだとも思う。きれい事だとも思う。
 それでもこの子を傷付けたくなかった。



 グレイアスの妻が生きていようがいまいが、リュシオンの立場が変わるわけではない。
 リュシオンは鉄扉を閉めて、蔦と下草で覆い隠しながら考える。
 女性ではないリュシオンを飼っているのは、亡くなった妻への義理立てか、面倒を避けてか。男なら避妊するまでもなく、どれだけ抱いても子供もできない。生まれた子供の処遇を考える面倒もなく、使い捨てできる。
 木陰に散らかしておいた画材を拾い上げ、手早く片付ける。ここ暫くは雨が降らない限り、庭で過ごしていた。アンネットの部屋に行き来するにも様子を探るにも、普段から庭にいる方が都合がよかった。
 部屋におらずとも中庭にいると思われた方が、万が一見つかりそうになった時にも時間稼ぎに使えるかもしれない。部屋にいないなら庭にいる、と思われるくらいに、庭で過ごさなければ。
 画材を抱えてポーチの石段を上がろうとして、やっとリュシオンは気付いた。
「また庭にいたんだね。……ああ、日に焼けて顔が赤くなってるよ。クレティア人の透き通るような白い肌は美しいけれど、日差しにとても弱いね」
 相変わらず、空気のように気配すらない。当然のような顔をして、ユリエルは部屋のティーテーブルの椅子に座っていた。
 この男は、知っているんだ。
 すっと背筋が冷たくなる。
 リュシオンがアンネットに会っていたと知っていて、ここで待っていたんだ。
 ユリエルがこの部屋に初めて来た時に『この屋敷に用事があって』と言っていた。あれはアンネットの見舞いの事に違いない。グレイアスが留守なら、訪ねる相手はアンネットしかいないのではないか。
 アンネットの部屋にリュシオンがいる事を確かめてから、ここに来たんだ。
 立ち竦むリュシオンに、ユリエルは優美な笑顔を見せる。
「今日こそ一緒にゆっくりお茶を飲もうか。グレイアスは今朝、アトリーンに出発したから邪魔も入らないだろう」
 笑みと口調こそ優雅だが、有無を言わせない強さがあった。リュシオンは画材をいつもの部屋の隅に運んでから、席に着く。
 ユリエルが何を考えて、何を企んでいるかはまるで分からないが、今リュシオンにできる事は、逆らわず様子をみる事くらいだ。
「ジーナは今日、学校かな。あの子の淹れるバジリカ式のお茶はすごくおいしいんだよね。飲んだ事はあるかい?」
 ユリエルはテーブルの上の呼び鈴を鳴らし、女中を呼び出す。
「ジーナがいてくれたら、バジリカのお茶を淹れてもらえたんだけどね。……ああ、お茶を頼むよ」
 現れたいつもの年配の女中に茶の準備を頼み、ユリエルはのんびりと壁際に並べられたリュシオンの絵を眺める。
「バジリカのお茶は風変わりだけれどとてもおいしいんだよ。茶葉とスパイスを煮たててミルクを注いで飲むんだが、茶葉とスパイスの濃い味わいが甘い焼き菓子にとてもよく合うんだ」
 女中は相変わらず表情がない。黙々と茶の用意をし、さっさと出て行く。必要最低限の言葉しか発しない彼女と、明るく人懐こいジーナはあまりに対照的だ。
「グレイアスは私の武術師範でね、幼い頃からの。その関係で私は昔からよくこの屋敷に出入りしているんだよ。……ここの料理長の、この焼き菓子が昔から大好物なんだが、来ると必ず出してもらえるな」
 銀の皿の上の、くるくると巻かれ粉砂糖を振りかけられたクッキーを取り分けてリュシオンに勧めながらユリエルはどうでもいい話を喋り続ける。
 リュシオンはこの王子が苦手だった。あまりに掴み所がない。穏やかに話しているが、こうしている間にも隙がなく、気味が悪いくらいに冷静にリュシオンを観察している。軽薄さを装っているだけにしか見えなかった。
 この男もグレイアスと同じように、祖国を滅ぼした仇だ。
 あの日、グレイアスと共にクレティアの王城に忍び込み、井戸や水瓶に毒を投げ込んで、両親や小さな王子、王女達を吊した。
 仇だと分かっていても、この男に軍人として、指導者としての高い能力があろう事は、認めざるを得ない。カルナスの次の王はこの王子だろう。
「林檎の砂糖煮を包んで焼いてあるクッキーなんだ。どこの国の料理なんだろうなあ。レシピを城の料理人に伝えても、この屋敷の味にはならないんだよね。不思議だ。……これにジーナが淹れるバジリカチャイが合うんだよ。ジーナは早く帰ってこないかな」
 臆せず振る舞おうとしても、今口をつけている茶の味すら分からないくらいに、緊張が漲っている。ユリエルの意図が全く見えず、リュシオンはどう接すればいいのか、困惑せずにいられなかった。
 ユリエルは変わらず笑みを絶やさない。鋭い牙を隠しながらの笑みだ。
「さて、この間は何の話をしようって言っていたかな。……覚えているかい?」



2018/05/24 up

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